第13話 二つの妊娠
十一月七日。
空は重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、時折、氷のような雨粒がアスファルトを叩いていた。
青山にある葬儀場の巨大なホールは、モノクロに染め上げられていた。
祭壇の中央には、何千本もの白菊で象られた波模様。その中心で、権蔵源造の遺影が、参列者たちを冷ややかに見下ろしている。
読経の響きが、低い重低音となって会場の空気を震わせていた。
「……本日はお足元の悪い中、亡き義父・源造のためにご参列いただき、誠にありがとうございます」
喪主を務める夫・貴之の声が、マイクを通して会場に響く。
その声は微かに震えていた。
悲しみからではない。恐怖と緊張、そしてそれを必死に押し隠そうとする虚勢からくる震えだということは、傍らに立つ妻の美咲には痛いほど伝わっていた。
美咲は貴之の半歩後ろに控え、深く頭を下げた。
黒の喪服が、妊婦の腹部の膨らみを強調している。
周囲からの視線が突き刺さる。
「気丈な娘」「可哀想な未亡人」そして「跡取りを宿した奇跡の母」。
彼らが向ける眼差しに含まれる、同情と好奇、そして計算高い欲望の色を、美咲は薄いベールの下から冷静に観察していた。
(見ていてください、お父様。あなたの卒業式は、こんなにも盛大ですわ)
美咲は心の中で、遺影の源造に語りかけた。
政財界の大物、取引先の社長たち、そして社員たち。数千人が列をなし、焼香台へと進んでいく。
その光景は、源造という怪物が築き上げた帝国の巨大さを物語っていた。そして同時に、その主が失われた今、この帝国が崩壊寸前の砂上の楼閣であることを、聡明な者たちは肌で感じ取っていた。
焼香の列の中に、一人の男の姿があった。
よれよれの喪服を着た、所轄の刑事・三浦だ。
彼は順番が来ると、恭しく合掌し、遺影を見上げた。そして、くるりと向きを変え、遺族の方へと歩み寄ってきた。
「この度は、ご愁傷様です」
三浦は深く頭を下げた。
貴之の肩が、ビクリと跳ねる。
「……お忙しい中、恐縮です」
貴之が引きつった笑顔で応じる。
三浦は顔を上げ、貴之の目をじっと見つめた。その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、貴之の心の奥底にある「罪悪感」を見透かそうとしているようだった。
「いやあ、立派な葬儀だ。会長も草葉の陰で喜んでいるでしょう。……ですが、残されたご家族は大変だ。特に、会社の方は」
三浦の視線が、貴之の背後に控える会社役員たちの方へちらりと向けられた。
「警察としても、地域の治安維持のために協力は惜しみませんよ。……例えば、不正なお金の流れや、反社との繋がりなんかについてはね」
それは明確な警告だった。
貴之の顔色が、死人のように青ざめる。
三浦はそれ以上何も言わず、美咲の方を見て、小さく会釈をして去っていった。
すれ違いざま、彼の視線が美咲のお腹に留まったのを、彼女は見逃さなかった。
『あんたの描いた絵図通りに進んでいるな』
三浦の目は、そう語っているようだった。
「……大丈夫ですか、貴之さん」
美咲が小声で囁くと、貴之はハンカチで額の脂汗を乱暴に拭った。
「あ、ああ。平気だ。……あいつ、なんでこんな場所にまで」
「警察の方も、お父様には恩義があるのでしょう」
美咲は優しく彼の背中をさすった。
貴之の背中は、小刻みに震えていた。
源造の死は、今のところ「病死」として処理されている。だが、殺人の線と横領の件は消えていない。三浦は確実に外堀を埋めている。
貴之は今、薄氷の上に立っているのだ。
*
葬儀の合間、親族控室には重苦しい空気が漂っていた。
叔父の伝次郎が、せわしなく動き回っている。
彼は古参の取締役たちを部屋の隅に集め、何やら密談を交わしていた。
「……今の貴之君に、この難局が乗り切れると思うかね?」
「いや、しかし会長の遺言では……」
「遺言は遺言だ。だが、現実は違う。銀行団を説得できるのは、経験のある人間だけだ」
伝次郎の声が、わざとらしく美咲の耳に届くように大きくなる。
彼は焦っているのだ。
源造が死んだ今、本来なら貴之が暫定的なトップに立つ。だが、その貴之の頼りなさと、警察の影に怯える様子を見て、伝次郎はここぞとばかりに「貴之降ろし」の工作を加速させていた。
美咲はお茶をすするふりをして、その様子を眺めていた。
叔父の動きは、彼女にとって想定内であり、むしろ歓迎すべき攪乱要因だった。
伝次郎が貴之を追い詰めれば追い詰めるほど、貴之は判断力を失い、美咲が用意した「蜘蛛の糸」に縋り付こうとするだろう。
その時、貴之が部屋を出て行った。
「トイレに行く」と言っていたが、その足取りはどこか落ち着きがなく、逃げるようだった。
スマホを握りしめている。
誰かからの呼び出しだ。
美咲は湯呑みを置き、音もなく立ち上がった。
*
葬儀場の裏手、関係者以外立ち入り禁止の長い廊下。
その突き当たりにある非常階段の踊り場で、貴之は待っていた。
紫煙を燻らせながら、イライラと貧乏ゆすりをしている。
そこへ、一人の女が現れた。
黒の喪服を着ているが、そのスカート丈は場違いに短く、胸元も大きく開いている。
レナだ。
彼女は一般焼香の客に紛れて入り込み、貴之を呼び出したのだ。
「タカくぅん、お疲れ様ぁ」
レナは甘ったるい声で近づき、貴之の腕に絡みついた。
「おい、ここでその呼び方はよせ! 誰に見られるか分からないんだぞ」
貴之は慌てて周囲を見回した。
だが、その表情は拒絶ではなく、むしろ救いを求めているようだった。
冷え切った家庭、重圧のかかる会社、そして警察の影。それらから逃避できる唯一の場所が、この愚かで享楽的な女の腕の中なのだ。
「ごめんごめん。でもさ、どうしても早く伝えたくて」
「伝えるって、何をだ? 金の話なら、今は無理だぞ。警察が嗅ぎ回ってるんだ」
「ううん、違うの」
レナは貴之のネクタイを指で弄びながら、上目遣いで彼を見つめた。
そして、爆弾を投下した。
「できたの」
「……え?」
「赤ちゃん。タカ君の赤ちゃん、私のお腹に来てくれたよ」
時が止まった。
貴之は口を開けたまま、タバコを床に取り落とした。
灰が散り、カーペットを焦がす匂いが微かに漂う。
「ほ、本当か……?」
「うん。検査薬で陽性だったし、病院でも確認した。今、五週目だって」
レナはバッグから一枚のエコー写真を取り出した。
まだ豆粒のような、小さな黒い影。
だが、それは貴之にとって、この世のどんな宝石よりも価値のある輝きを放っていた。
「俺の……子供……」
貴之の手が震える。
彼は写真をひったくるように受け取り、食い入るように見つめた。
九月に受けた(と思っている)パイプカット再建手術。
恭介は「成功した」と言った。
だが、心のどこかで不安があった。本当に機能は戻っているのか? 俺は男に戻れたのか?
その答えが、今、目の前にある。
「やった……! 成功したんだ!」
貴之の口から、歓喜の声が漏れた。
種は生きていた。
俺は種なしなんかじゃない。生殖能力のある、完全な男だ。
「はは……あはははは!」
貴之は笑い出した。
葬儀場の片隅で、狂ったような笑い声が反響する。
「勝てる! これなら勝てるぞ!」
これまで、彼は美咲の妊娠に対して「自分の嘘がバレる」という恐怖から、反論できなかった。
だが、状況は変わった。
俺には今、「本物の自分の子(レナの子)」がいる。
もしDNA鑑定を行えば、美咲の子は「他人」、レナの子は「実子」という結果が出るはずだ。
そうすれば、美咲を不貞の罪で追い出せる。
源造はもういない。怖いものは何もない。
正当な後継者としてレナの子を据えれば、遺産はすべて俺たちのものだ。
「タカ君? なんか怖いよ、顔」
「いや、嬉しいんだよレナ! お前は俺の救世主だ!」
貴之はレナを抱きしめた。
「よくやった。これで全てがひっくり返る。美咲の奴、今まで散々俺を見下しやがって……。見てろよ、地獄を見せてやる」
貴之の目には、どす黒い欲望と、加虐的な光が宿っていた。
恐怖に怯えていた小動物が、牙を手に入れたと勘違いし、猛獣に成り代わろうとする瞬間の目だ。
「えー、じゃあ私、奥さんになれるの?」
「なれるさ。いや、してやる。源造の遺産が入れば、お前には何だって買ってやる。この世の春だ」
二人は抱き合い、欲望に濡れたキスを交わした。
その頭上には、「禁煙」のプレートが虚しく掲げられていた。
*
美咲は、廊下の曲がり角の陰で、その一部始終を聞いていた。
手には、冷たくなったペットボトルのお茶。
「……おめでとう、貴之さん」
美咲は音もなく呟いた。
口元に、自然と笑みが浮かぶ。
それは、獲物が自ら落とし穴に飛び込み、あろうことか底にある杭に自ら串刺しになりに行ったのを見た時の、狩人の笑みだ。
(貴之さん、あなたは本当に運がいいわ)
美咲は心の中で嘲笑った。
神田という詐欺師に騙され、偽の手術を受けさせられたのに、タイミングよく愛人が妊娠するなんて。
普通なら「誰の子だ?」と疑う場面だ。
だが、彼は信じたいものしか信じない。
「自分が男に戻った」という儚い夢と、「レナの子こそが自分の子だ」という都合のいい妄想。
その妄想こそが、彼を断頭台へと導く最後のピースだ。
美咲はお腹を撫でた。
中では、子が、力強く動いている。
(パパは元気になったみたいよ。……最期の灯火を、精一杯燃やしているのね)
美咲は踵を返し、親族控室へと戻った。
足取りは軽い。
貴之が「強気」に戻ってくれれば、彼女の計画は次のフェーズへ進める。
怯えているだけの獲物をいたぶっても気は晴れない。
希望の頂点まで登らせてから、突き落とす。
その落差こそが、最大の復讐なのだから。
*
葬儀が終わった夜。
六本木の会員制バーの個室に、神田恭介とレナの姿があった。
重厚な革のソファ。テーブルにはドン・ペリニヨンのボトル。
だが、その場の雰囲気は祝杯というよりは、悪だくみの相談所といった風情だった。
「――で、タカ君の反応はどうだった?」
神田はグラスを揺らしながら、上機嫌で尋ねた。
レナは新しいブランド物のバッグを撫でながら、鼻で笑った。
「もう、イチコロよ。泣いて喜んでたわ。『俺の種は生きていた!』なんて叫んじゃって、バッカみたい」
「クックッ……傑作だな」
神田は肩を震わせて笑った。
「俺が適当に皮を切って縫っただけの手術で、精子が復活するわけがない。レナちゃん、君の腹の中にいるのは、正真正銘、俺のガキだ」
レナは途中から気付いていた。お腹の子が神田の子であることを。
「知ってるわよぉ。でも、タカ君は信じ切ってる。これで遺産は私たちのものね?」
レナが媚びるように神田に身体を寄せる。
神田は彼女の腰に手を回しながら、計算高い目で天井を見上げた。
「ああ。源造が死んだ今、最大の障害は消えた。あとは、美咲ちゃんとそのガキを排除するだけだ」
「どうやるの? あの奥さん、結構したたかそうだけど」
「簡単なことさ。タカ君を使うんだ」
神田は身を乗り出した。
「タカ君は今、自分が『種あり』だと確信している。だからこそ、美咲ちゃんの妊娠に対して『浮気だ』と主張できる強気なメンタルを手に入れた。……これを利用しない手はない」
「利用って?」
「DNA鑑定だよ」
神田の目が怪しく光った。
「タカ君から聞いたんだが、これから叔父の伝次郎が騒ぐらしい。『美咲の子のDNA鑑定を行え』と。……渡りに船だ。タカ君もそれに乗っかるんだ」
「でも、鑑定したら美咲さんの子がタカ君の子じゃないってバレるけど……同時にタカ君が種なしだってバレない?」
「そこがミソだ」
神田はニヤリと笑った。
「タカ君はパイプカットも再建手術もやってたことを黙って、昔から種はあったと主張する。でも美咲が妊娠したのはおかしいと知っているから、浮気だ』と言い張れる。そして、『俺にはレナとの間にできた本物の子供(=手術後の子)がいる』と言って、君を後継者の母として担ぎ上げる」
「なるほどぉ。筋は通ってる……のかな?」
「通ってると思わせればいいんだよ。それに、俺もその『鑑定結果の開示』の場に立ち会うんだ」
「先生、が?」
「ああ。タカ君と美咲の不妊治療を担当していた主治医として、医学的な見地から証言してやるのさ。『私のクリニックでは二人の遺伝子では妊娠まで至っていなかった』とな」
これは、真実だ。
つまり美咲は他の男と関係を重ねて妊娠した結果だと発表する。
神田には勝算があった。
混乱に乗じて美咲を追い出し、とりあえずレナと貴之を結婚させてしまえば、遺産の管理権は貴之に移る。
貴之は神田の言いなりだ。
「レナちゃんと子供の秘密(実は神田の子であること)」をネタに強請り続ければ、権蔵家の資産は一生、神田の財布代わりになる。
神田の借金は、裏カジノの利子を含めて一億円近くに膨れ上がっていた。
もう後がない。
この賭けに勝つしかないのだ。
「先生、頼りにしてるからね。私、貧乏には戻りたくないの」
「分かってるよ。俺とお前は運命共同体だ。……それにしても」
神田はレナの腹に手を這わせた。
「俺の種も、いい仕事をしたもんだ。まさかたった数発で着床するとはな」
「やだ、先生ったら……」
二人の笑い声が、密室に響く。
自分たちが「脚本家」であると信じて疑わない、滑稽な道化たちの笑い声。
彼らは気づいていない。
その脚本を書いたのが、彼ら自身ではないことを。
そして、その舞台の幕引きには、全員の破滅が用意されていることを。
*
深夜。
権蔵家の屋敷に戻った貴之は、書斎で一人、ウィスキーを煽っていた。
源造が死んだことで、この部屋の主は実質的に彼になった。
革張りの椅子に座り、足をデスクに投げ出す。
今まで源造の前では直立不動でいなければならなかったこの場所で、王のように振る舞う快感。
「……勝った」
貴之はグラスを天井にかざした。
警察の影? 知ったことか。
遺産が入れば、金で揉み消せる。優秀な弁護士を雇えばいい。
横領の穴埋めも、レナに貢いだ金も、すべて帳消しにできる。
ドアがノックされた。
美咲が入ってくる。
「貴之さん、まだ起きてらしたの? お疲れでしょう」
美咲は温かいホットミルクを持って入ってきた。
その従順な姿。質素なパジャマ。
以前なら「貞淑な妻」に見えたその姿が、今は「嘘つきの女狐」に見えて仕方がなかった。
「ああ、これからの会社のことを考えていてな」
貴之は尊大な態度で答えた。
「そうですか。……頼もしいですわ」
美咲はカップをデスクに置いた。
その時、彼女のお腹が貴之の目に入った。
「……なあ、美咲」
「はい?」
「その子、予定日はいつだっけ?」
「来年の三月ですわ」
「そうか。……元気に生まれるといいな」
貴之の口調には、含みがあった。
『誰の種か知らないがな』という嘲笑が隠されている。
美咲は微笑んだ。
「ええ。きっと、あなたに似て聡明な子になります」
貴之は鼻で笑った。
(お前が股を開いたどこの馬の骨とも知れない男に似るんだろう)
「もう寝るよ。明日は役員会だ。忙しくなるぞ」
貴之は立ち上がり、美咲の横を通り過ぎた。
その際、わざとらしく彼女の肩にぶつかった。
「おっと、悪い」
「いえ……」
謝罪の言葉は少なく、貴之は寝室へと消えた。
残された美咲は、デスクの上のホットミルクを見つめた。
湯気が立っている。
彼女はゆっくりと振り返り、貴之が消えたドアを見据えた。
その瞳から、従順な妻の光が消え失せ、冷酷な狩人の光が灯る。
「……ええ、忙しくなりますわ、貴之さん」
美咲は自分のお腹に手を当てた。
「準備運動は終わりました。次は本番です」
外の雨は、いつの間にか雪へと変わろうとしていた。
静かに、音もなく降り積もる白い雪。
それは、これからこの屋敷で起こる惨劇を覆い隠すための、死装束のように見えた。




