第12話 刑事の勘と場違い感
「11月3日。雨。……嫌な夜だ」
私はワイパーが弾き飛ばす雨粒を睨みつけながら、古くなった相棒(覆面パトカー)のハンドルを切った。
定年まであと半年。
警察官としての人生の幕引きを、平穏無事に終えたいと願うのは贅沢だろうか。ここ数年、私の願いは「何も起きるな」の一点張りだった。
だが、神様というのは意地が悪い。あるいは、私のような古狸を最後までこき使うことが、市民への奉仕だとでも思っているのかもしれない。
無線から飛び込んできた「権蔵源造、心肺停止」の報せ。
所轄の刑事課は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
権蔵不動産の会長。政財界に太いパイプを持ち、裏社会とも通じていると噂される「昭和の怪物」。
その巨星が墜ちたのだ。
「三浦さん、ただの病死じゃないんですか? 末期ガンで自宅療養中だったんでしょう?」
助手席の若手が欠伸を噛み殺しながら言った。
私はシガーライターで煙草に火をつけようとして、禁煙中だったことを思い出し、舌打ちをした。
「病死なら医者が死亡診断書を書いて終わりだ。だがな、現場の空気ってやつがある。……きな臭いんだよ」
私の鼻は、まだ錆びついていない。
ここ数ヶ月、私が内偵を進めていた案件――権蔵不動産の不正経理と、反社勢力への資金流出。その中心にいるのが、源造の婿養子である権蔵貴之だ。
捜査の手が伸びていることを、貴之も薄々感づいていたはずだ。そんな矢先に、絶対的な支配者である源造が死んだ。
タイミングが良すぎる。
権蔵家の屋敷は、雨に濡れて黒々と聳え立っていた。
門前にはすでに救急車と、先行したパトカーの赤色灯が回転し、濡れたアスファルトを毒々しく照らしている。
私はコートの襟を立て、雨の中へと降り立った。
*
屋敷の中は、重苦しい静寂と、微かな混乱が混ざり合っていた。
使用人たちが青ざめた顔で行き交い、廊下の奥からはすすり泣く声が聞こえる。
だが、私の肌を刺したのは、悲しみではない。
もっと冷たく、張り詰めた緊張感だった。
「ご苦労様です」
制服警官に敬礼され、私は現場となった一階の和室へと足を踏み入れた。
そこは、死の匂いと、消毒液の匂いが充満していた。
部屋の中央に置かれた介護用ベッド。
そこに横たわる老人は、まるで枯れ木のように痩せ細っていた。かつて怒鳴り声一つで地価を動かした男の、あまりにあっけない最後。
かかりつけ医が、死亡確認の手続きを終えていた。
「死因は急性心不全と思われます。モニターのアラーム記録によると、深夜二時五十五分頃に心停止を……」
私は医師の説明を聞き流し、部屋の中をゆっくりと見回した。
私の目はカメラのレンズだ。感情を排し、事実だけを焼き付ける。
ベッドの脇に、点滴台。
そこから伸びるチューブ。
サイドテーブルの上には、水差しと、飲みかけのグラス。
ゴミ箱。
倒れた椅子。
――綺麗すぎる。
それが、私の第一印象だった。
人間が一人死んだ現場にしては、あまりにも整然としている。
まるで、「ここを見てください」と言わんばかりに配置された小道具のように、物証が主張している気がした。
私は手袋をはめ、サイドテーブルの上のグラスに顔を近づけた。
クリスタルガラスの底に、わずかに琥珀色の液体が残っている。ウイスキーの水割りか。
そして、グラスの表面には、指紋がべったりと付着していた。
ライトを当ててみる。
脂ぎった、乱れた指紋。握りしめた痕跡。
「……誰が飲んだんだ、これを」
病人の枕元で、酒を飲む。
そんな無神経なことができる人間は限られている。
次に、私はゴミ箱の中を覗き込んだ。
ティッシュペーパーの山の上に、茶色い小瓶が転がっていた。
ピンセットでつまみ上げる。
ラベルには薬品名の文字はないが、薬品コードと製造番号が印字されている。そして何より、剥がし忘れたのか、意図的に残されたのか、端の方に『神田レディースクリニック』というシールの一部が付着していた。
「神田……」
貴之の悪友であり、借金まみれのヤブ医者。
彼についても、私は調べていた。
違法な薬物の横流しや、裏カジノでの巨額の負債。
点と点が、あまりにも安易に繋がりすぎている。
私は小瓶を証拠品袋に入れ、部屋の隅に固まっている親族たちの方へ向き直った。
「所轄の三浦です。……この度は、ご愁傷様です」
私が頭を下げると、三人の男女が反応した。
一人は、権蔵貴之。
この家の婿であり、私がマークしている横領疑惑の主。
彼は酷く狼狽していた。顔色は悪く、額には脂汗が玉のように浮いている。
だが、その目は悲しんでいない。
恐怖と、焦燥と、そして隠しきれない安堵が入り混じった、濁った目をしていた。
(やっと死んでくれた、助かった……そう思っている顔だな)
私は長年の勘でそう断じた。
追い詰められた犯罪者が、目撃者が消えた時に見せる顔だ。
もう一人は、権蔵伝次郎。源造の弟。
彼もまた、涙を流すふりをしながら、鋭い視線を部屋中に走らせている。
彼は私が拾い上げた小瓶を、横目でじっと見ていた。
おそらく、彼もまたこの状況を利用しようとしている。狸だ。
そして、最後の一人。
権蔵美咲。
源造の養女であり、貴之の妻。
彼女はベッドの脇に崩れ落ち、ハンカチで顔を覆って泣き崩れていた。
「お父様……どうして……あんなにお元気だったのに……」
か細い声。震える肩。
どこからどう見ても、悲劇のヒロインだ。
だが、私は違和感を拭えなかった。
私は彼女に近づき、声をかけた。
「奥様。……お父上が亡くなられた時、ご一緒だったのですか?」
「ええ……。私、看病をしていて……少しうとうとしてしまって……。気づいたら、アラームが鳴っていて……」
美咲が顔を上げた。
涙に濡れた瞳。充血した白目。
完璧な「遺族の顔」だ。
しかし、その瞳の奥底にある光は、揺らいでいなかった。
凪いでいた。
深海のように静かで、冷たく、そして恐ろしいほどに澄んでいた。
私はこれまで、数えきれないほどの遺族を見てきた。
突然の別れに直面した人間は、もっと混乱し、取り乱し、視線が定まらないものだ。過去を悔やみ、未来への不安に怯える。
だが、彼女は違う。
彼女の目は、「過去」を見ていない。「未来」……いや、もっと明確な「ゴール」を見据えているその目だ。
(この女……)
背筋に冷たいものが走った。
現場の不自然なほどの整然さ。
あからさま過ぎる証拠品。
そして、この完璧すぎる未亡人。
これは、舞台だ。
誰かが脚本を書き、演出を施し、役者を配置した、一世一代の演劇だ。
私は貴之の方を向いた。
「ご主人。少しお話を伺えますか」
「は、はい。なんでしょうか」
「このグラス。……あなたが飲まれたものでしょうか?」
私が証拠品袋に入れたグラスを示すと、貴之はギョッとして後ずさった。
「あ、ああ……夕食の後、少し……。それがどうかしたんですか?」
「いえね、指紋がはっきり残っていたもので。……それと、この小瓶にも見覚えは?」
「小瓶? い、いや、知りませんよそんなもの!」
貴之の声が裏返る。
過剰反応だ。彼は何も知らない。知らされていない。
だが、「何かやましいこと」がある人間特有の、怯え方をしている。
――なるほど、そういうことか。
私の中で、仮説が組み上がっていく。
貴之には動機がある。
会社の金を横領し、穴埋めに奔走していた。源造が生きている間にそれがバレれば破滅だ。だから、口封じのために殺害した。
神田には動機がある。
借金苦。貴之と共謀し、筋弛緩剤を提供した。あるいは、遺産目当てで手を組んだ。
状況証拠も、物的証拠も、すべてその仮説を補強している。
警察組織としては、これ以上ないほど分かりやすい構図だ。
「横領発覚を恐れた娘婿が、医師と共謀して義父を殺害」。
マスコミが飛びつきそうな見出しだ。捜査本部もすぐに立つだろう。
だが、誰がこの証拠を「置いた」のか?
貴之は凡人だが、自分の指紋がついたグラスを殺害現場に残すほどの阿呆ではないだろう。
神田も医者だ。自分のクリニックのシールがついた瓶を放置するリスクは知っているはずだ。
つまり、第三者がいる。
この二人を犯人に仕立て上げ、確実に破滅させるために、丁寧に証拠を配置した「演出家」が。
私は再び美咲を見た。
彼女は、貴之が私に尋問されている様子を、ハンカチ越しにじっと見つめていた。
心配そうに?
いいや。
あれは、自分の仕掛けた罠が正しく作動するかどうかを確認する、狩人の目だ。
「……綺麗なもんですね」
私は思わず呟いた。
「え?」
「いえ、現場がね。整いすぎているというか……。まるで、誰かに見つけてもらうのを待っていた証拠品みたいだ」
私の言葉に、貴之の顔が引きつり、伝次郎が目を細めた。
そして美咲だけが、一瞬、本当に一瞬だけ、口角を僅かに上げたように見えた。
挑発か。それとも、「気づいてくれてありがとう」という共犯者への合図か。
彼女はゆっくりと私の前に歩み出た。
大きくなったお腹を、守るように抱えながら。
「刑事さん……父は、父は苦しんだのでしょうか」
その問いかけに、私は息を飲んだ。
彼女は今、私を試している。
私がこの「脚本」に乗るか、それとも異を唱えるか。
もし私がここで「不自然ですね」と騒げば、彼女はどうするだろう。
おそらく、もっと完璧なアリバイや、逃げ道を用意しているはずだ。
それに、現実問題として、貴之と神田の罪(横領、詐欺、薬物譲渡)は消えない。
私は警察官だ。目の前にある証拠と、法に基づいて動くしかない。
たとえそれが、誰かの掌の上だとしても。
私は溜息を一つついて、答えた。
「いえ、安らかだったと思いますよ。……ご安心ください、奥さん。我々がしっかりと調べさせていただきますから」
私の言葉を聞いて、美咲は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
その姿は、あまりにも美しく、そして毒々しかった。
鑑識課員が到着し、フラッシュが焚かれ始める。
白い閃光が、部屋の隅々を、役者たちの表情を、残酷なまでに鮮明に切り取っていく。
貴之の青ざめた顔。
伝次郎の計算高い横顔。
そして、聖母のような慈愛と、悪魔のような冷徹さを併せ持った美咲の顔。
私は屋敷の外に出た。
雨はまだ降り続いている。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、私は煙草を取り出した。今度は火をつけた。
「……とんでもない怪物だ」
紫煙を吐き出しながら、私は夜空を見上げた。
かつて、権蔵源造という怪物がいた。彼は力を以て人を支配し、食い物にした。
そして今夜、その怪物は死に、新たな怪物がそこにいた。
より洗練され、より狡猾で、手のつけられない怪物が。
私はポケットの中の携帯端末を取り出し、部下へのメッセージを打った。
『権蔵貴之の周辺捜査を強化しろ。特に、神田恭介との金の流れ、通話履歴。それと……美咲夫人の過去もだ』
美咲夫人の実父の自殺。
かつて源造によって潰された建設会社の社長。
動機は十分すぎるほどにある。復讐だ。
彼女は長い年月をかけて、この夜を準備してきたのか。
だが、私にはそれを証明する手立てがない。
現段階では、彼女はただの「被害者の娘」であり、「容疑者の妻」でしかない。
彼女が殺人を犯したという直接的な証拠を見つけられるだろうか。点滴のライン、シリンジ、すべてが処理されているはずだ。あるいは、貴之がやったように見せかけられているか。
悔しいが、負け戦になりそうだ。
捜査が始まる前から、勝負はついている。考えすぎか?
「三浦さん、鑑識がPCの解析を始めました。検索履歴に『完全犯罪』とか『毒』なんてワードが残っているそうで……これも旦那の仕業ですかね?」
部下が興奮気味に報告に来た。
私は苦笑した。
そこまでやるか。念には念を、か。
貴之のパソコンで、わざわざそんな検索履歴を残すなんて、ベタすぎる演出だ。だが、裁判員の印象を操作するには十分すぎる効果がある。
「ああ、そうだろうな。……旦那の首を絞めるロープは、もう十分過ぎるほど用意されてるよ」
私は煙草の火を携帯灰皿で消した。
雨音が強くなってきた。
この雨は、すべての痕跡を洗い流すためのものではない。
これから始まる美咲によるたくらみの、幕開けの拍手のように聞こえた。
私はもう一度、屋敷の方を振り返った。
窓越しに、美咲の姿が見えた。
彼女は、誰にも見えない角度で、そっと自分のお腹を撫でていた。
その仕草は、胎児を慈しむ母親のそれでありながら、同時に、武器の手入れをする兵士のようにも見えた。
定年までの残り半年。
どうやら、退屈することはなさそうだ。
私はコートの襟を合わせ、泥濘の中へと歩き出した。
この悪意の迷宮の、出口を探すために。




