第11話 無心の夜
十一月三日、深夜二時。
外は冷たい雨が降りしきっていた。屋根を叩く雨音が、屋敷全体を包み込む重い沈黙を際立たせている。
権蔵家の和室、今は病室へと変貌したその空間だけが、異質な電子音に支配されていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
心電図モニターが刻むリズムは、権蔵源造という怪物の命の砂時計そのものだった。
美咲は、ベッドの脇の椅子に腰掛け、読みかけの文庫本を膝に置いていた。
視線は本ではなく、ベッドに横たわる養父に向けられている。
末期癌による衰弱は著しく、かつて不動産業界を震え上がらせた巨体は、見る影もなく干からびていた。頬はこけ、眼窩は窪み、呼吸をするたびに痩せ細った胸が苦しげに上下する。
だが、その意識はまだ混濁の中に消えてはいなかった。
源造の目が、ゆっくりと開かれる。
天井の闇を見つめ、そして、傍らに座る美咲へと視線を巡らせた。
「……まだ、か」
酸素マスクの下から、枯葉が擦れるような声が漏れた。
それは死への恐怖ではなく、生の幕引きに対する焦燥のように聞こえた。
美咲は静かに立ち上がり、ベッドサイドに近づいた。
「お父様。……お辛いですか?」
「愚問だ……。痛みなど、とうに超えている」
源造の瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
彼は知っている。
美咲が今夜、何をするつもりなのかを。
言葉には出さない。けれど、この数ヶ月間、二人の間で交わされてきた無言の会話――「怪物」としての教育と、その継承の儀式――が、今夜完結することを理解していた。
「今日は、とても静かな夜です」
美咲はナースステーション代わりのサイドテーブルに置かれたトレイに手を伸ばした。
そこには、鎮痛剤や栄養剤の入ったアンプルが並んでいる。
彼女はその中から、予め用意しておいた一本のシリンジ(注射器)を取り出した。
中に入っているのは、医師から処方された鎮痛剤ではない。
筋弛緩剤だ。
呼吸筋を麻痺させ、静かな窒息をもたらす劇薬。入手経路は、経理時代に不正を見逃してあげた元役員。足はつかないようにしてある。
「……そうか」
源造はシリンジを見ても、眉一つ動かさなかった。
むしろ、その口元が微かに緩んだようにさえ見えた。
自分の育てた娘が、自分を食らいに来た。その事実に対する、歪んだ満足感。
「お父様。あなたの教え通り、私は奪われる前に奪います。あなたの死を無駄にはしません」
美咲の声は、雨音よりも静かで、冷徹だった。
彼女は点滴の三方活栓にシリンジを接続した。
指先に冷たい感触が伝わる。
これが、殺人の感触だ。
震えはなかった。心拍数さえ、平常時と変わらない。
「……美咲」
「はい」
「見事だ」
それが、源造の最期の言葉だった。
美咲はプランジャーを押し込んだ。透明な液体がチューブを通り、源造の血管へと流れ込んでいく。
数秒後。
源造の呼吸が乱れ始めた。
肺が空気を求めようとするが、筋肉が動かない。
苦悶の表情が浮かぶはずだった。だが、筋弛緩剤の効果により、彼の顔は能面のように無表情のままだった。
ただ、モニターの数値だけが異常を知らせ、アラームが鳴り響く――前に、美咲は手際よくアラーム音をミュートにした。
ピッ、ピッ、ピッ……ピーーーーーーー。
波形が平坦になる。
絶対的な支配者の死。
それはあまりにもあっけなく、静寂の中に溶けていった。
美咲は注射器を外し、ポケットにしまった。
涙は出なかった。
悲しみも、達成感もなかった。あるのは、事務処理を終えた時のような淡々とした感覚だけ。
「おやすみなさい、お父様。……いいえ、源造さん」
彼女は死体に向かって一礼した。
そして、すぐに「次」の作業へと移った。
ここからが本番だ。
これは単なる殺人ではない。夫の貴之と、悪徳医師の神田を地獄へ突き落とすための、「舞台設営」なのだから。
美咲はエプロンのポケットから、ハンカチに包まれたガラスのコップを取り出した。
夕食後、貴之が水割りウィスキーを飲んでいたコップだ。彼が「風呂に入ってくる」と席を立った隙に、洗わずに確保しておいたものだ。
指紋はべったりと付いている。
美咲はそれを、サイドテーブルの端、点滴台のすぐ近くに置いた。
まるで、誰かがここで飲みながら、点滴を操作したかのように。
次に、もう一つの証拠品を取り出す。
空になった薬品の小瓶。ラベルには『筋弛緩剤』の文字と、製造番号。
これは、神田のクリニックの在庫管理シールが貼られたままだ。神田がずさんな管理をしていたおかげで、廃棄物から容易に入手できた「共犯の証拠」にもなる。
美咲はそれを、わざとらしくゴミ箱の底ではなく、上の方に見えるように捨てた。
刑事が現場検証をすれば、必ず目につく位置に。
そして仕上げだ。
美咲は和室を出て、静まり返った廊下を歩き、二階の書斎へと向かった。
貴之のいびきが寝室から聞こえてくる。彼は何も知らずに、泥のように眠っている。
書斎に入り、貴之のノートパソコンを開く。
スリープを解除し、ブラウザを立ち上げる。
検索バーに、ゆっくりと文字を打ち込む。
『完全犯罪 毒』
『筋弛緩剤 入手方法』
『心不全 偽装』
『遺産相続 手続き』
検索履歴を残し、いくつかの怪しげなサイトを閲覧した痕跡を作る。
最後に、画面を閉じる。
これで、デジタル上の証拠も揃った。
美咲は一階の和室に戻った。
源造の死体は、まだ温かかった。だが、その瞳から光は完全に失われ、ただの物体と化していた。
美咲は深呼吸をした。
鏡を見て、髪を少しかき乱す。
自分の腕を強くつねり、痛覚で涙を滲ませる。
表情筋を緩め、恐怖と悲哀のマスクを被る。
準備は整った。
さあ、開幕のベルを鳴らすわ。
「きゃあああああああああああああっ!!!」
美咲の裂帛の悲鳴が、深夜の屋敷を切り裂いた。
*
ドタドタと階段を駆け下りる音が響く。
最初に飛び込んできたのは、パジャマ姿の貴之だった。
「み、美咲! どうした! 何があった!?」
貴之は寝ぼけ眼をこすりながら、和室に入ってきた。
そして、異様な光景――ベッドに崩れ落ちて泣き叫ぶ美咲と、微動だにしない源造――を見て、立ちすくんだ。
「お、お父様が……! 息をしていないの! モニターが……!」
美咲は貴之にすがりついた。
貴之の視線がモニターへ飛ぶ。フラットライン。心停止。
「な……お義父さん!?」
貴之は慌ててベッドに駆け寄り、源造の肩を揺すった。
「お義父さん! しっかりしてください! おい、誰か! 救急車だ!」
その声は裏返り、狼狽しているように見えた。
だが、私の胸に顔を埋めている美咲には分かった。
貴之の心拍数が、恐怖で上がっているのではない。
歓喜で跳ね上がっているのだ。
(死んだ……! ついに死んだ!)
貴之の内心の声が聞こえてくるようだ。
彼は必死に悲痛な表情を作ろうとしているが、口元の筋肉が微かに緩もうとするのを抑えるのに必死だった。
邪魔者が消えた。
これで遺産は俺のものだ。
横領も、パイプカットの件も、すべて闇に葬れる。
「あ、あなた……どうしよう、どうしよう……」
「お、落ち着け美咲! 俺がついている! ……そうだ、かかりつけ医に連絡だ!」
貴之は震える手でスマートフォンを取り出した。
そこへ、騒ぎを聞きつけた家政婦たちと、離れに泊まり込んでいた叔父の伝次郎が駆けつけてきた。
「何事だ!」
伝次郎は浴衣姿のまま、鋭い眼光で室内を見回した。
そして、事態を瞬時に理解した。
「兄貴……!」
伝次郎はベッドの足元に膝をついた。
「なんてことだ……。とうとう、逝ってしまったのか……」
伝次郎は顔を覆った。
その背中は震えていたが、美咲の観察眼は誤魔化せなかった。
伝次郎の目は、泣いていなかった。指の隙間から、部屋の中を――特に、美咲と貴之の様子を、油断なく観察していた。
(死んだか。……だが、早すぎる)
伝次郎の計算高い思考が透けて見える。
彼はまだ、貴之を追い落とす準備を完了していなかった。もう少し源造に生きていてほしかったはずだ。
だが、死んでしまったものは仕方がない。
ならば、この状況をどう利用するか。
伝次郎の視線が、サイドテーブルの上のコップに止まった。そして次に、ゴミ箱の中に光る小瓶へと滑った。
(……ん?)
伝次郎の眉がピクリと動く。
さすがは古狸だ。違和感に気づいたらしい。
美咲は心の中で拍手を送った。
ええ、見てください、叔父様。
そこには、貴之を破滅させる材料が転がっていますよ。
「うぅ……お父様……もっと色々と教えていただきたかった……」
美咲は源造の手に縋り付き、嗚咽を漏らした。
その手はもう冷たくなっていた。
「もっと一緒にいたかった……赤ちゃんも、まだ見せてあげられていないのに……」
その言葉に、貴之が反応した。
彼は美咲の肩を抱き、慰めるような仕草を見せた。
「美咲、君の気持ちは分かる。でも、お義父さんは喜んでいてくれてた。……これからは、僕たちがこの子を守っていくんだよ」
白々しい。
吐き気がするほど空虚な台詞だ。
貴之の頭の中は、今ごろレナのことで一杯だろう。
室内の空気は、表向きは悲嘆に暮れる親族たちの涙で満たされていた。
だが、その実態は、欲望と計算が交錯する伏魔殿だった。
全員が仮面を被っている。
死者を悼んでいる人間など、ここには一人もいない。
*
十数分後。
サイレンの音と共に、救急隊と警察、そしてかかりつけ医が到着した。
源造の遺体は確認され、医師によって死亡宣告が行われた。
時刻は午前三時十五分。
「死因は、心不全と思われます」
医師は事務的に告げた。末期癌患者の急変だ。不審な点は何もない――表向きは。
しかし、現場保存のために立ち入った警察官の一人が、ある人物に連絡を入れていた。
さらに数十分後。
玄関ホールがざわめき、一人の男が入ってきた。
よれよれのコートに、眠そうな目。
所轄の刑事、三浦だ。
「いやあ、夜分に恐れ入ります。……ご愁傷様です」
三浦は帽子を取り、美咲と貴之に頭を下げた。
その目は、全く眠そうではなかった。
鷹のように鋭く、部屋の隅々までをスキャンしている。
「刑事さん……どうしてあなたが?」
貴之が焦ったように尋ねた。
心不全による病死なら、刑事が来る必要はないはずだ。
「いやね、ちょっと近所をパトロールしてまして。無線で権蔵さんの名前が聞こえたもんで、気になって飛んできました」
嘘だ。
彼は待っていたのだ。この瞬間を。
美咲が仕掛けた匿名でのリーク情報――貴之の横領と、裏社会との繋がり――によって、警察はとっくに貴之をマークしていた。
そこにきて、資産家の急死だ。
「カネ」と「死」がセットになれば、警察が動かないはずがない。
三浦は遺体に近づき、合掌した。
そして、ふと顔を上げ、サイドテーブルのコップに目を留めた。
次に、ゴミ箱の中を覗き込む。
「……綺麗なもんですね」
三浦がぽつりと呟いた。
「え?」
「いや、現場がね。整いすぎているというか……。まるで、誰かに見つけてもらうのを待っていた証拠品みたいだ」
三浦の視線が、貴之に向く。
貴之は顔を引きつらせ、視線を逸らした。
次に、三浦は美咲を見た。
美咲はハンカチで顔を覆い、涙に濡れた瞳で三浦を見つめ返した。
「刑事さん……父は、父は苦しんだのでしょうか」
か細い声。
三浦は一瞬、何かを計るように美咲を見つめた後、ふっと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「いえ、安らかだったと思いますよ。……ご安心ください、奥さん。我々がしっかりと調べさせていただきますから」
『調べさせていただきます』。
その言葉の意味を、貴之は「病死の確認」と受け取っただろう。
だが美咲には分かった。
三浦は、「誰がこの舞台を作ったのか」を見極めようとしているのだ。
美咲は心の中で小さく微笑んだ。
ええ、どうぞ調べてください、三浦さん。
証拠はすべて揃っています。
犯人はそこにいる、私の夫です。
完璧な動機と、完璧な物的証拠を持った、哀れなスケープゴートが。
三浦の指示で、鑑識課員が動き出す。
フラッシュが焚かれ、現場が白く切り取られていく。
その光の中で、貴之の顔色は青ざめ、伝次郎は不敵に目を細め、美咲は悲劇のヒロインを演じきっていた。
完全犯罪の夜が明ける。
だが、それは貴之にとって、悪夢の始まりでしかなかった。




