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不妊治療3年目。夫が隠した「パイプカット手術の同意書」を見つけた件。だから、私は妊娠しました。  作者: 団田図


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第10話 死神の足音

 十一月に入り、風には冬の冷たさが混じり始めていた。

 庭の木々は赤や黄色に色づき、枯れ葉が乾いた音を立てて石畳の上を転がっていく。

 だが、権蔵ごんぐら家の広大な屋敷の一室だけは、季節の移ろいから切り離されたように、無機質で冷徹な空気に支配されていた。


 一階の奥、かつて茶室として使われていた和室。

 今は最新鋭の医療機器が運び込まれ、この屋敷の主、権蔵源造(げんぞう)の「終の住処」と化している。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


 心電図モニターの電子音が、規則正しく時を刻む。

 シュコー、シュコー。

 人工呼吸器が酸素を送り込む音が、部屋の静寂を侵食する。


 私はベッドの脇に座り、温かいタオルで源造の腕を拭いていた。

 痩せ衰え、骨と皮だけになった腕。

 至る所に点滴の針が刺さり、青黒い内出血の痕が地図のように広がっている。

 かつて、たった一言で企業の運命を決め、何千人もの人生を左右した「不動産王」の腕は、今や枯れ木のように脆く、哀れだった。


「……お父様、お加減はいかがですか?」


 私は看護師のように柔らかな声で問いかけた。

 酸素マスクの下で、源造の目がゆっくりと開く。

 濁った眼球。焦点が合うまでに数秒かかる。

 けれど、私を捉えた瞬間、その瞳の奥に宿る光だけは、決して衰えてはいなかった。

 射抜くような、冷酷な光。

 獲物を値踏みし、急所を見極めようとする捕食者の目だ。


「……水」


 掠れた声が漏れる。

 私はストロー付きの吸い飲みを口元に運んだ。

 源造は赤子のように水を啜る。喉仏が弱々しく上下する。


 その無防備な首筋を見つめながら、私の胸の内には、どす黒いタールのような感情が渦巻いていた。

 

 殺意ではない。

 もっと根源的な、生理的な嫌悪と、そして奇妙なほどの高揚感。


 私は知っている。

 この男が、ただの死に損ないの老人ではないことを。

 私の人生を狂わせ、私の家族を奪い、私という人間を「怪物」へと作り変えた創造主であることを。


          *


 私の記憶の中にある最初の父は、源造ではない。

 優しくて、いつも笑顔を絶やさなかった実の父だ。


 父は、小さな建設会社を経営していた。

 決して裕福ではなかったけれど、社員を家族のように大切にし、丁寧な仕事を誇りとする人だった。

 休日は私を公園に連れて行き、高い高いをしてくれた。あの時の、空に近い場所から見た景色と、父の温かい手の感触を、私は今でも覚えている。


 けれど、その幸せは唐突に終わった。

 私が十歳の時だ。


 父の会社は、ある大規模な再開発プロジェクトに参画していた。

 社運を賭けた一大プロジェクトだった。父は連日徹夜で図面を引き、現場を走り回っていた。

 だが、そのプロジェクトそのものが、仕組まれた罠だったのだ。


 親会社からの突然の契約解除。

 支払いの凍結。

 融資銀行の一斉引き上げ。

 連鎖的に発生した巨額の負債。


 全てを仕掛けたのが、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長していた権蔵不動産――つまり、権蔵源造だった。

 源造は、父の会社が持つ特許技術と、所有していた土地だけを目的に、意図的に父の会社を破綻させたのだ。


 父は奔走した。

 権蔵不動産の本社へ日参し、土下座をして支払いを待ってくれるよう懇願したという。

 けれど、源造は会ってさえくれなかった。

 代理人を通じて、「無能な経営者は市場から退場するのが社会のためだ」と告げただけだった。


 そして、あの日が来た。

 学校から帰ると、家の中が異様に静かだった。

 母の悲鳴が聞こえた。

 書斎のドアが開いていた。

 

 そこには、つり下がった父の姿があった。


 揺れていた。

 振り子のように、ゆらり、ゆらりと。

 足元には、倒れた椅子と、遺書が置かれていた。

 『家族を守れなくてすまない』

 その文字は、涙で滲んで読めなかった。


 地獄はそこから始まった。

 会社は倒産し、自宅は差し押さえられ、心労が重なった母も後を追うように病死した。

 天涯孤独となった私を待っていたのは、施設への入所か、親戚のたらい回しか。

 

 そんな私の前に、黒塗りの高級車が現れた。

 後部座席から降りてきた男。

 喪服に身を包み、冷ややかな瞳で私を見下ろす男。

 権蔵源造だった。


『お前が、あの男の娘か』


 源造は、葬儀の焼香のついでに、ゴミでも拾うような感覚で私に声をかけた。


『顔立ちは母親似だな。……悪くない』


 彼は私の頬に触れた。その手は冷たく、乾燥していた。

 まるで、骨董品の壺の傷を確認するような手つきだった。


『引き取ってやろう』


 慈悲ではなかった。

 贖罪でもなかった。

 その時の彼の目は、狩りで仕留めた獲物の皮をどう加工して飾ろうかと思案する、収集家の目だったのだ。


 私は権蔵家の養女となった。

 美しい服を与えられ、最高級の教育を受け、何不自由ない生活を送った。

 けれど、そこに「愛」は一ミリも存在しなかった。


 源造が私に求めたのは、「敗北者の娘が、勝者である自分にかしずく姿」だった。


 毎晩の夕食時、私は源造の横に立ち、彼のグラスにワインを注ぐ役目を与えられた。

 彼はワインを揺らしながら、客人にこう紹介するのが常だった。


『この子は、かつて私に盾突いて自滅した男の娘だ。どうだ、しつけが行き届いているだろう?』

『父親は無能だったが、娘は優秀なメイドになった。これも私の教育の賜物だ』


 客たちは下卑た笑いを浮かべ、私を見る。

 私は能面のような微笑みを張り付け、ただ頭を下げる。

 屈辱で胃が焼けつくような夜を、何百回と重ねた。


 なぜ逃げ出さなかったのか。

 逃げ出せなかったのだ。

 私には行く場所がなかったし、何より源造の支配は精神の深層にまで及んでいた。


『美咲、いいか』


 源造は事あるごとに、私に自身の「帝王学」を説いた。


『この世はサバンナだ。食うか、食われるか。それしかない』

『お前の父親が死んだのは、彼が弱かったからだ。善意や情けなどという甘い幻想に縋り、武器を捨てたからだ』

『奪われたくなければ、奪う側に回れ。感情を殺し、相手の弱点を見抜き、息の根を止めるまで踏みにじれ』


 最初は耳を塞ぎたかった。

 けれど、悔しいことに、彼の言葉は正しかった。

 この屋敷では、力こそが正義だった。

 彼に逆らえば食事を与えられず、彼に従えば豪奢なドレスが与えられた。

 

 私は学習した。

 生き残るためには、心を殺して「従順な人形」を演じるしかない。

 そして、いつか力を手に入れ、この男の喉笛を食いちぎるチャンスを待つのだ、と。


 美咲という人格の表面は、清楚で大人しい令嬢として形成された。

 だが、その内側では、源造の毒がゆっくりと浸透し、私を変質させていった。

 私は彼を憎みながら、同時に彼から「他人を食い物にする術」を吸収して育ったのだ。


          *


 そして今。

 私は源造の腕をタオルで拭きながら、自分の腹部に視線を落とした。


 妊娠六ヶ月。

 コートを着ていれば目立たない程度だが、服の下では確かな膨らみが主張している。

 ここには、命がある。


 皮肉なものだ。

 夫の貴之たかゆきは、これを「自分の子」だと信じ込んでいる。

 あるいは、自分のパイプカットがバレるのを恐れて、信じ込むしかない状況に追い込まれている。


 だが、真実はもっと残酷で、おぞましい。


 この子の父親は…


 半年前、貴之のパイプカットの事実を知り、復讐を決意した時。

 私は考えた。

 どうすれば、貴之に、そしてこの権蔵家に、最大のダメージを与えられるか。

 ただ離婚するだけでは足りない。

 貴之を社会的に抹殺し、一文無しにするだけでは、私の苦しみは癒えない。


 奪うのだ。

 彼らが何よりも大切にしている「権蔵家の名誉」と「遺産」を、根こそぎ。


 源造が、混濁した意識の中で私を見た。

 その目が、ふと正気を取り戻したように鋭くなった。


「……美咲」

「はい、ここにいます」

「貴之は……どうだ」


 死の淵にありながら、気にするのは会社と後継者のことか。

 私は微笑んだ。


「貴之さんは、とても張り切っていますわ。もうすぐ生まれる赤ちゃんのために、毎日お仕事を頑張っていらっしゃいます」

「……フン」


 源造は鼻を鳴らした。


「あの男は……小物だ。器じゃない」


 はっきりと言い放った。

 やはり、源造は見抜いているのだ。貴之の無能さも、浅ましさも。

 もしかしたら、貴之が裏で何をしているのかも、薄々感づいているのかもしれない。


「でも、お父様が選んだお婿さんでしょう?」

「使い捨ての駒だ。……お前が子を産むまでの、な」


 源造の手が、シーツの上で動いた。

 私の手を求めているようだった。

 私はためらいながらも、その手を握った。氷のように冷たい手。


「美咲。……その腹の子を、強く育てろ」


 源造は、私の腹を睨みつけるように見た。


「ええ、分かっています。この子は強い子になります」


 私は彼の手を握り返し、力を込めた。


「誰よりも冷酷で、誰よりも貪欲な……お父様のような『立派な』怪物に育ててみせます」


 私の言葉に、源造は満足げに目を細めた。

 そして、再び深い眠りへと落ちていった。


 手を離す。

 私の手には、彼の死臭が染み付いているような気がした。


 私は立ち上がり、窓辺に向かった。

 カーテンの隙間から、夕暮れの空が見える。

 赤黒く染まった空は、まるで血の海のようだ。


 私はお腹を撫でた。


「お爺ちゃんには、もう少しで退場してもらうから。そうしたら、この屋敷は全部、あなたのものよ」


 この子は、私の復讐の道具だ。

 けれど、同時に、私にとって唯一の「共犯者」でもある。

 私とこの子だけが、真実を知っている。


 廊下から、足音が聞こえた。

 貴之だ。

 慌ただしい、落ち着きのない足音。


 私は表情を切り替えた。

 復讐者の冷たい仮面を脱ぎ捨て、従順で心配性な妻の仮面を被る。


 ドアが開く。


「……美咲、ここにいたのか」


 貴之が顔を出した。顔色は土気色で、ひどく汗をかいている。


「ええ、お父様の様子を見ていたの。……どうしたの、貴之さん? そんなに慌てて」

「い、いや、なんでもない。ちょっと仕事で……」


 貴之は源造のベッドの方をチラリと見て、ビクリと体を震わせた。

 彼は源造が眠っているのを確認すると、安堵のため息をついた。


「まだ……生きてるな」

「ええ。生命力の強い方だから」

「そうか……。そうだよな」


 貴之の声には、「早く死んでくれ」という願いと、「死なれたら困る(まだ工作が終わっていない)」という焦りが入り混じっていた。

 

「ねえ、貴之さん。お父様、さっき貴之さんのことを気にかけていらしたわ」

「えっ!? な、なんて?」

「『貴之には期待している』って。『孫のために、しっかり働け』って」


 嘘だ。

 けれど、貴之の顔にパッと喜色が浮かんだ。


「本当か! お義父さんが、俺に期待を……!」

「ええ。だから、頑張ってね。貴之さん」


 私は彼に歩み寄り、ネクタイを直してあげた。

 首を絞める位置を確かめるように、ゆっくりと。


「私たちと、この子のために」

「ああ、任せてくれ! 俺が必ず、君たちを幸せにする!」


 貴之は私の肩を抱いた。

 その手は震えていた。


 哀れな道化。

 自分が立っている舞台が、処刑台の上だとも知らずに。


 窓の外で、一陣の風が吹き荒れた。

 枯れ葉が舞い上がり、窓ガラスを叩く。

 その音は、まるで死神が扉をノックしている音のように聞こえた。


 いいえ、違う。

 死神は、もう部屋の中にいる。


 私は源造の寝顔と、貴之の横顔を交互に見つめた。

 そして、心の中で静かにカウントダウンを開始した。

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