九十九(3)
お世辞にも住みたいと言えるようなマンションではなかった。築四十年で五階建て。午前中は日当たりが悪く、夕方になると西日にさらされる。エレベーターは一台だけ存在しているが、エレベーターの中は薄暗く、そして狭かった。全体的に陰の雰囲気が漂っているマンションだ。
恵比寿によれば、このマンションを管理している不動産会社からの依頼を鬼門晴明が受けたのだが、鬼門晴明側で手が回らなくなり、依頼をこちらへとスライドしてきたということだった。
手が回らない。それはただの言い訳だろう。鬼門晴明は、このマンションは手に負えないと思って、その依頼を破棄したといった方がいいだろう。
マンションのエントランスに足を踏み入れた瞬間に、二階堂はこの依頼を請け負ってしまったことを後悔していた。鬼門晴明の連中が引き受けなかった理由もわかる気がする。
まるで底なし沼のようだった。踏み入れた足はズブズブと沈み込んでいき、足掻けば足掻くほどに、その沼の中に足を取られていってしまう。
二階堂はポケットの中から小さな袋を取り出して、中へと指を入れて、その指をひと舐めした。袋の中身は塩だった。天然の粗塩であり、虫除け程度の低属霊の祓いにはなる。まあ、気休めのようなものだ。
リン――。
鈴の音が聞こえた。短く一度だけだった。それが何を意味するものであるかはわからないが、自分が歓迎されていないということだけは二階堂にもわかっていた。
エントランスホールを抜けると、エレベーター脇にある階段を上ることにした。本当であればエレベーターを使いたかったが、エレベーターを見た瞬間に二階堂の脳裏には棺桶の映像が浮かび上がってきたのだ。そんな映像を見せられたからには、エレベーターに乗るわけにはいかなかった。
階段の踊り場には蛍光灯が点いていたが、切れかかっているようで時おりジジッという音を立てながら不規則に点滅を繰り返している。
三階まで一気に階段を上ったところで、二階堂は足を止めた。
三階と四階の間にある踊り場に少女が立っていた。歳はヒナコと同じか、それよりも幼いようにも見える。セーラー服を着たその少女は三白眼の黒目の部分をギョロギョロと動かしながら、下にいる二階堂のことを見下ろしていた。
「――去れ」
セーラー服の少女は二階堂を睨みつけながら言う。その声は低く、妙に響きのあるものだった。
「どうして去ってほしいと思うんだ。その理由を聞かせてくれないか」
「――去れ」
「いや、だからさ、理由を……」
「――去れ。去れ。去れ。去れ。サレ、サレ、サレ、サレ、サレ……」
まるで壊れたテープレコーダーのようにセーラー服の少女は同じ言葉を繰り返した。
リン――。
再び鈴の音が聞こえた。
少女は両手を地につけて四つん這いになると、まるで獣のように歯を剥き出しにして威嚇するような声をあげる。
彼女が生者なのか、死者なのかは判別がつかなかった。もし生者だとしても、なにかに取り憑かれたりしているのだろう。
まったく面倒な仕事だ。二階堂はそう思いながらポケットから塩の入った袋を取り出すと、その袋を少女へと投げつけた。
袋が少女の額に命中すると、その中身が飛び散り、少女は悲鳴をあげながらその場でのたうち回る。
「通らせてもらうぞ」
二階堂は踊り場でのたうち回っている少女を避けるようにして四階へと続く階段を上った。
四階は踊り場以上に嫌な空気が満ち溢れていた。四階を無視して五階へと階段を上っていこうとしたところ背後から呼び止められた。
「おいっ」
それは老人の声だった。男のものとも女のものとも受け取れる声だったが、生者のものではないということだけは確かだった。これは振り返ってはいけない。二階堂は直感的にそう思い、声を無視して階段を上ろうとした。
次の瞬間、足首に何かが絡まってきた。驚いた二階堂が自分の足元を見ると、そこには長い白髪交じりの髪の毛が絡みついていた。そして、その髪の毛の主は階段下にいた。あのセーラー服姿の少女だ。顔は老人のように皺だらけになり、窪んだ眼窩には闇が見えていた。
「いか……せない……」
少女は再び老婆のような声を出すと二階堂の足首に絡みついた髪の毛を手繰り寄せようとする。
ものすごい力だった。足元を掬われるような形となった二階堂は、階段を二、三段滑るように落ち、腰を強くコンクリートに打ち付けていた。
頭は打たなかったものの、腰を強打したため一瞬呼吸ができなくなるほどの痛みが二階堂を襲った。
そこにセーラー服姿の少女が地を這うような四足歩行で近づいてくる。
少女の顔を近くで見ると、二つの目の周りに小さな目が六つの計八個の目となっており、大きく裂けた口からは二本の長い牙のようなものが突き出ていた。
蜘蛛。すぐに少女の正体はわかった。彼女は蜘蛛なのだ。倒れている二階堂の位置からは見ることが出来ないが、きっと手足も八本あるはずだ。
蜘蛛の少女が出るマンションという話は聞いていなかった。二階堂が引き受けた依頼はマンションの屋上に設置されている貯水タンクから奇妙なうめき声が聞こえるから、その怪異の調査をしてほしいというものだった。




