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魏人伝

作者: コバヤシ

 むかし、むかしー


 魏の国、南方の峴山と呼ばれる寒村に、一人の若者がいた。名を藍兆らんちょうという。


 幼き頃より拳脚を好み、拳で岩を打ち、脚を振って風を裂く。九歳にして狼を退け、十三の年に五人の賊を倒したという。村人は彼を「人中の虎」と讃えたが、藍兆の面には晴れぬ影があった。


「強さとは、これほど浅きものか」


 呟きを残し、十五の春、藍兆は拳脚の道を極めんと旅立つ。


 最初に訪ねたのは、趙の山奥に棲むという拳脚の異人・禿鶴とくかく老人。


 老人は笑った。


「拳を練るだと? 若造よ、貴様に拳を語るのは百年早いわ」


 だが、藍兆の眼差しに折れ、しぶしぶ弟子入りを許す。そのとき、こう言い放った。


「拳脚は、打たぬことから始まる」


 言葉の通り、三年の間、藍兆は拳を振らず、石臼を回し、薪を割り、山道を駆け、風を読むだけだった。


 四年目の春。風を読む藍兆の姿を見て、老人は静かに呟く。


「拳脚とはな、気の流れを見極め、風の通り道を感じること。力ではない。意である」


 その日より、藍兆の拳脚は変わった。力を用いずとも相手の動きを先読みし、打たずして制する。見た者すべてが、ただ畏れた。


 だが、藍兆の心は満たされぬ。


「拳脚とは、誰かを倒すためにあるのではない」


 そう言い残し、老師に別れを告げて再び旅路へ。


 やがてその名は、魏の名将・信陵君の耳に届く。


「武を極めんとする者がいるか。面白い」


 信陵君は藍兆を召し、酒を酌み交わしながら問う。


「そなたの拳脚、十万の兵を前にして、何を為す?」


 藍兆は静かに杯を置いた。


「十万を前にすれば、逃げるか、投降します」


 信陵君は細めた目で笑った。


「それでこそ真の名人。武とは、力ではなく、時を読むことよ」


 その後、藍兆は魏に留まり、将軍にも護衛にもならず、市井にまぎれた隠者となる。子どもらに書を書かせ、雨の日には石橋の下で釣りをする。誰とも争わず、ただ風と語った。


 ある冬のこと。城門に一つの噂が流れる。


「風が止まぬ限り、城門は破れぬ」


 そして門の下には、ただ一人、老翁が坐していたという。


 それが、かつて“拳脚の鬼才”と呼ばれた男、藍兆であった。


 そして、またしばらく時が経ち、藍兆は再び山に戻った。死んだとも、生きているとも伝わらぬ。


 だが、どこかの山中、風の吹く方角をじっと見つめる老人の影を見た者が、年に一人はいたという。


 滑稽にして荘厳、愚かにして聖、拳脚の名人とは、かくの如きものである。

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