儚さと美しさ
蝉の声が夏の訪れを告げる中、俺は専門学校の臨時講師として新たな一歩を踏み出していた。
教師時代の知り合いから突然連絡が来た時は驚いた。
どうやら、勤めている専門学校の教員が突然入院することになって代替講師を探しており、俺が頭に浮かんだという。
特に断る理由もなく、今の自分がどこまで教師としてできるかはわからないが、俺は了承した。
3か月ほどの期限付きということだったので、今はただ授業のみに集中することにしていた。
教室の窓から差し込む眩しい日差しに、目を細める。
黒板に向かう背中には、かつての教師としての自信はなく、どこかぎこちないものが残っている。
学科の職員室に戻った俺は、椅子に座り一呼吸つく。
「いやぁ、助かりましたよ! 智宏先生!」
「いや、俺の方こそありがとう。毎日特に何もしていなかったから、いい刺激になっているよ。」
俺に連絡をくれた知り合い、多田原 芳樹は、体格が良く、常に元気で生徒からも慕われている男性教師だった。初任時代に同僚だったが、当時の管理職の教育方針の在り方に疑問を感じ、高校の教師を辞めて専門学校に勤め始めたという。
「ところで、智宏先生は、何で辞めちゃったんですか? 確か先生は、公立高校に赴任されましたよね? あそこ、結構優秀な生徒が集まる学校じゃないですか。」
「……。いや、電話では聞けなかったが、何で俺が辞めたことと、あの高校にいたこと知ってるんだよ。誰かから聞いたのか?」
「いえいえ! これですよ!」
芳樹が手に持ってきたのは、新聞と公立学校教員名簿だった。
「俺、自分が親しくしていた先生は今でもこうやってチェックしてるんですよ!」
「お前……一歩間違えたら危ない奴だぞ、それ。」
「ハハハッ! まぁいいじゃないですか! これのおかげで、また智宏先生と一緒に働けてるんですから!」
快活な声が、職員室内に響き渡る。
声が異常なほど大きいのが少し気になるが、それもこの芳樹の良いところだろう。
「そうだ、智宏先生。今日は花火大会ですよね? 誰かと行くんですか?」
「あぁ……。まぁ、見に行こうかなとは思っている。」
「へぇ! 誰とですか!? もしかして彼女できたんですか!? そうじゃなくてすでに結婚しているとか!?」
「……声がでかいって。いや、結婚はしていない。彼女も……いない……。一人で見に行こうと思っていた。」
俺は、嘘をついた。
花火を一人で見に行くわけではなかった。
理央と見に行く約束をしていたのだ。
俺の心を、嘘をついてしまった罪悪感がチクチクと刺してくる。
だが、心の奥底では、ふとした思い浮かぶ笑顔があった。
—理央。
彼女の無邪気な言葉、まっすぐな視線。
どれもが、心に静かに刻まれていた。
罪悪感は、いつしか消えていた。
ちらっと腕時計を見る。
少し早いが、待ち合わせ場所に行こう。
不思議な緊張感が、俺の心臓の鼓動を早くさせた。
◇◆◇
待ち合わせ場所の小さな公園に着き、夕暮れの空を見上げる。
夏祭りの夜、花火大会。
少し早く着いたことに安堵してベンチに腰掛けた。
公園近くの歩行用の通路では出店がギッシリと並んでいる。
家族連れ、友人同士、そして、手をつなぐカップル。
そのどれもが、夏祭りというイベントに浮足立っているように見えた。
夕闇が濃くなるにつれて、街灯の光が強くなってくる。
ふと、街灯の光をかき分けながら歩いてくる一人の女性の姿が浮かび上がった。
「先生!」
いつものように手を振って、こちらに走ってきた。
ベンチの真上にある街灯に照らされて理央が立っていた。
淡い水色の浴衣姿が、彼女の透明感をさらに際立たせていた。
長い黒髪はいつもと違ってふわりとまとめられ、うなじが白く映えている。
俺は、瞬間的に言葉を失った。
「……どう……ですか?」
理央が恥ずかしそうに微笑む。
「……似合ってる。」
それだけを搾り出すように答えた。
心臓が不自然な速さで鼓動していることに気づき、思わず目を逸らす。
理央は嬉しそうに笑い、その笑顔がまた、俺の胸を締め付けた。
「ありがとうございます……。」
「うん……じゃあ……行こうか……。」
それ以上何も話すことができなかった。
二人の足音が、にぎわう人々の喧騒に吸い込まれていった。
◇◆◇
二人で並んで歩き、川沿いの花火大会の会場へ向かう。
人混みの中、理央がふと立ち止まった。
俺は振り返り、声をかけた。
「ん? どうした?」
「いえ……。なんでもありません……。」
前を向き、再び歩き始めようとする。
その瞬間、俺の腕は前に行くことを拒んだ。
腕を見ると、理央が袖を掴んでいる。
「はぐれてしまったら嫌なので……。」
その一言に、俺は驚きながらも何も言えなかった。
心の中では、この距離感に戸惑いながらも、拒む理由が見つからなかった。
花火大会は河川敷で行われる。
間もなく始まるだろう。
座って見れそうな場所を探しながら、俺達は夜の堤防を無言で歩いた。
しかし、間違いなく近くにいる。
人込みを抜け、人が閑散とした場所に並んで腰を下ろした。
―――ドーン……
夜空に、最初の花火が大きく咲く。
鮮やかな光が周囲を照らした。
「綺麗ですね。」
理央が見上げながら呟く。
俺は少しだけ横顔を見る。
その無邪気な瞳が花火に映えていた。
夜空に大きな音が響き、鮮やかな光が咲いては散る。
「先生……花火って不思議ですよね。一瞬で消えちゃうのに、綺麗です。」
「そうだな……でも、花火はすぐに消えるからこそ、美しいのかもしれないな。」
不意に出た言葉だった。
自分の中の過去、失ったもの、消えてしまった時間。
そんな思いが滲んでいた。
少しの沈黙のあと、理央は静かに口を開いた。
「……そうですね。でも、消えるのって、ちょっと寂しいです。」
「人間は『消えゆくものの美しさを感じ取れる生き物』と、どこかで聞いたことがある。儚いものを美しいと思えるのは、人間しかできないらしい。永遠じゃないから、心に残るのかもしれないな。」
「消えゆくものを……。」
そう言うと、理央は口をつぐんだ。
「……先生。」
「ん?」
「もしも、私がいなくなっても、私のこと……忘れないでくれますか?」
その言葉に、表情がふっと曇る。
けれどすぐに取り繕うように微笑む。
再び夜空に大輪の花火が咲く。
その光に照らされた瞳は、どこか儚くて、でも確かに美しかった。
「……忘れられるわけ、ないだろ。」
何気なく返したその言葉が、理央の心にどれほどの意味を持つのだろう。
理央は再び夜空を見上げる。
「……本当に、綺麗ですね……。でも先生、私の先生への気持ちは……消えませんから。ずっと、ずっと……。」
消えゆく花火の光に照らされたその瞳は真剣で、一切の迷いがなかった。
「私は、先生が好きです。」
花火の音に負けないよう、少し大きな声で理央が言う。
心の中で何かが崩れる音を聞いた。
ただの元教え子、そう思っていたはずの存在が、今は違って見える。
答えを返すべきか……いや、そもそも返せるのか。
「……ありがとう。」
そう口にした瞬間、前と同じ言葉だと気付いた。
彼女のまっすぐな思いに応えられているのだろうか。
今は前とは違う。
俺が感じていることを、正直に話そう。
グッと拳を握り締め、俺は続けた。
「……でも、それだけじゃない。理央のことを考えることが、増えたんだ……。俺の中で……理央に対する思いが……どんどん大きくなっていっている。」
理央の目が驚きで少しだけ見開かれ、そして優しく笑った。
「……それだけで……嬉しいです……。」
花火が夜空に大きく咲き、そして消えていく。
俺と理央は再び夜空を見上げる。
花火の音が、俺の心臓の鼓動に拍車をかけるようだった。
儚さの中に、確かに残るものがあった。