繋がる縁
ふと耳にしたのは、遠くから聞こえる鳥たちのさえずりだった。
静寂の部屋に、その音が鮮やかに響く。
俺はベッドから起き、カレンダーに書き込んだ『9:30 駅前 理央』の文字をぼんやりと見つめていた。
胸の奥で、微かな期待と緊張が交差する。今日は、再び会う約束の日だった。
「……よし。」
身支度を整える手が、なぜか少し震えている。
窓から外を見ると、新緑が一層色濃く、木々の葉は太陽の光を浴びて生き生きと輝いている。
道路脇に咲くタンポポが、淡い黄色の花を開き、まるで小さな太陽のように地面に温かさを振りまいている。
「ここから見える景色って、こんなに綺麗だったか?」
そんなことを考える自分に驚き、思わず苦笑いをした。
部屋に目を戻すと、壁にはギャラリーで購入した『祈り』が飾られている。
「今日はどんなことがあるんだろうな。」
返答の無い『祈り』に話をかける自分に少し恥ずかしさを覚えながらも、淡い期待と共にアパートの扉を開け外へ出た。
◇◆◇
待ち合わせ場所の駅前に着くと、すでに理央が立っていた。
カジュアルな白いワンピースに身を包んだ彼女は、日差しの中で一層輝いて見える。
近づくと、明るい笑顔で手を振って走って来る。
「先生、おはようございます!」
「おはよう、理央。早かったんだな。」
「少し緊張して早く着いちゃいました。でも、先生も早いですね!」
お互いに少し照れくさい笑顔を交わしながら、二人で並んで歩き始めた。
「先生、今日はどうしますか?」
「うーん……特に決めていないけど……。お互い、何か目についた所に入ってみよう。」
「なんか、おもしろいですね、それ! わかりました。じゃあ……どこにしようかな……。」
理央は歩きながらきょろきょろと周囲を見渡している。
雑貨が並んでいるショーウィンドウを眺め、ちょっと理想とは違うと思ったのか首をかしげてまた歩き始める。
ときどきこちらを振り返り、笑顔を見せる。
その仕草を見るたびに、俺は思わず微笑んだ。
今日の目的は、特に決まっていない。
ただ、一緒に過ごせる時間が何よりも大切だと思ったからだ。
行先も決まっていない。何をするかもわからない。
ただ、二人で歩き、二人でご飯を食べ、他愛も無い話をし、同じ時間を過ごす。
それだけで、今まで忘れていた何かを思い出すようだった。
俺は今まで一人で苦しんでいた時間を忘れるように、理央との時間を大切に過ごした。
◇◆◇
ふと、『祈り』と出会ったギャラリーがある通りにいつの間にか来ていたことに気付いた。
「そういえば、この前ギャラリーに行ったんだ。そこにいた画家さんが、独特な考えで絵を描いているみたいで、印象的だった。女性で、多分50代くらいの人だと思うけど……。」
歩きながら、理央に話を続けた。
「小さな展示だったけど、すごく印象に残る絵があって。思わず家に迎えてしまったんだ。」
「……そうなんですか?……先生が絵を買うなんて、意外です。……もしまだやってたら、行ってみませんか?」
「そうだな……じゃあ、ちょっと行ってみるか。」
理央の瞳が輝く。
俺は少し先を歩き、ギャラリーへと案内した。
ギャラリーに到着すると、業者のような人たちがギャラリーから荷物を運んでいるのが見える。
入口には「特設展終了」の貼り紙があり、内部では片付け作業が進んでいた。
自分のタイミングの悪さに、少し悔しさを感じた。
「あ……終わっちゃってるみたいですね……残念。」
理央が残念そうに呟く。
その時、ギャラリーの奥から見覚えのある女性が現れた。
以前話をした、あの画家だった。
「こんにちは。誠に残念ですが、もう特設展は終了して――あら……? あなたは……前にもいらっしゃいましたよね? この前は絵をお嫁にもらっていただき、ありがとうございました。」
女性は独特な言い回しで気さくに声をかけてきた。
「また来てみたんですけど、もう終わってたんですね。」
「そうなんです。実は昨日で特設展が終了したので、今日ギャラリーの整理をしていました。でも、まだ絵を少し飾っておりますので、もし良ければ、少しだけ見ていきますか?」
俺と理央はありがたくその申し出を受け、中へ足を踏み入れる。
展示はほとんど片付けられていたが、数枚の絵がまだ壁に掛けられていた。
その中には、暗闇に浮かぶ大きな満月の絵が残されている。
理央はその絵の前で立ち止まり、じっと見つめる。
「不思議な絵……なんだか、先生と一緒に見た満月みたいですね。」
「うん。実は俺も初めてここに来た時、そう思った。月の描写が綺麗だと思ってさ。その中の一つを、思わず買ってしまったんだ。」
「へー……。そうだったんですね。先生が買った絵、私も見てみたいです。」
「理央。冗談はやめてくれ……。」
照れ隠しで慌てる俺を見て、理央も少し恥ずかしそうに微笑む。
その瞬間、女性が理央の顔をじっと見つめ、ゆっくりと呟いた。
「理央……あなた、もしかして……梨花さんの娘の、理央ちゃん?」
理央は驚いて振り向いた。
「え…………? なぜ母の名前を……?」
女性は静かに微笑んだ。
「やっぱり……。こんなに大きくなったのね! 私はあなたのお母さんの友人の柴田 美都って言うの。昔、よくあなたと一緒に遊んだことがあったわ。小学校に入る前だったかしら。お母さんは何しているのかしら? お兄さんも元気だった?」
理央の表情が一瞬で変わる。
驚きと戸惑い、そしてどこか懐かしさが入り混じったような表情だった。
俺はその様子をそっと見守る。
理央は重い口を静かに開いた。
「……両親は、私が小学校に入ってから間もなく……亡くなりました……。兄は、去年の秋から出張でいません。」
理央の口からそれ以上言葉が出なかった。
俺は思わず、震えている理央の手を取ろうと思った、その時だった。
画家の美都が優しく理央を抱き締めていた。
「辛いことを聞いちゃって、ごめんなさいね……。そう……理央ちゃんもこれまで辛い思いをしてきたのね……。これまでよく頑張ったわ……。本当に……偉い子……。」
理央は美都の胸の中で身体を震わせながら泣いている。
これまで溜め込んでいた悲しみや辛さを吐き出すように。
俺は差し出そうとした手をポケットにしまい、二人に背を向けた。
今の俺には、そうすることしかできなかった。
◇◆◇
少し落ち着いた理央は、美都に言われるままギャラリーにある椅子に腰を掛けた。
俺も並んで椅子に座るように促され、その申し出に従う。
美都がゆっくりと話を始めた。
「理央ちゃん。あなたのお母さんは、とても素敵な人だったわ。とても不思議なんだけど、この絵……『慈愛』を描き終えた時に、あなたのお母さんのことを思い出したわ。」
理央はその言葉を聞いて、絵をもう一度じっと見つめた。
「……そうなんですか。」
小さな声で呟くと、理央の瞳にまたうっすらと涙が浮かぶ。
俺は、理央の肩に軽く手を置いた。
「理央、大丈夫か?」
理央はゆっくりと頷き、微笑んだ。
「……大丈夫……です。……でも、不思議ですね。先生と一緒に来た場所で、こんな再会があるなんて。」
美都は優しく微笑みながら、温かい紅茶を差し出してくれた。
その後、三人でしばらく話をした。
理央は家族の思い出を少しずつ語り、美都はその思い出を優しく受け止めた。
話を聞いているうちに、今まで知らなかった理央の事が、少しずつ形となって表れてくる。
俺はただ静かにその場にいるだけだ。
ただ、理央が苦しくなった時に頼ってくれたら、と願っていた。
「それで、あなたは理央ちゃんとどういう関係なのかしら?」
「あ、えっと……彼女は俺の教え子――」
そう言いかけた時、理央が次の言葉を制止するように俺の腕を掴む。
「私の……大事な人です。」
思わず理央を見つめる。
涙の跡が残る頬は少し赤く、唇は何かを覚悟しているように固く結んでいた。
今まで静かだった心臓の音が、早く、強く耳の中で響いていた。
「あら……そうなのね……。あなた、お名前は何と言うの?」
「あ……智宏と言います……。」
「そう……。この子の母親の代わりに、あなたに伝えておくわ。……智宏さん。理央ちゃんを、よろしくお願いしますね。……これから先は、この子に明るい道を歩ませてあげて。」
美都はそう言うと、俺に頭を下げた。
「あの、まだそういう関係では……。」
そう言うと、美都は俺の手を取った。
力強く、何かを祈るように。
「理央ちゃんを……お願いね……。どうか全てを、受け止めてあげて。」
美都の瞳は、少し潤んでいた。
「あなたが私のギャラリーに来たのも、絵の存在に気付いてくれたのも、偶然じゃないのかもしれないわね。」
偶然では、ないのかもしれない。
その言葉が頭の中を反芻している。
「今日は会えて本当に嬉しかったわ。そうだ、今度またゆっくりと会ってお話ししましょう。特設展は終わるけど、私はまだこの街にいるから。」
美都はそう言うと、理央と連絡先を交換した。
そして、「あなたにはいずれ話さなきゃならないことがあるから」と、俺とも連絡先を交換した。
出された紅茶を飲み切った俺と理央は美都にお礼を言い、ギャラリーを後にした。
振り返ると、美都は優しく微笑みながらずっと手を振ってくれている。
俺達の姿が見えなくなるまで、美都はずっと見てくれているような気がした。
◇◆◇
俺達は静かに並んで歩いていた。
沈黙が続いたが、重苦しいものではなかった。
むしろ、心が少し軽くなったような不思議な感覚があった。
「……先生。」
ふと、理央が口を開く。
「今日は……先生と一緒でよかったです。ありがとうございました。」
その言葉に、ゆっくりと頷いた。
「俺も、来てよかったと思ってる。それに……理央の事が、少しわかった気がするよ。」
「……ズルいです。私はまだ、先生のことをちゃんと教えてもらってません。」
顔を見合わせ穏やかな笑顔を交わし、夕暮れの街を歩き続けた。
夕暮れの日差しに包まれる理央の笑顔が、とても美しく見える。
俺は理央に、特別な感情を抱き始めているのか。
いや、一時の感情に流されてはいけない。
だが今は、こうして共に歩いている時間を、大切にしよう。
今、理央の側にいてあげられるのは、俺なのだから。