余白
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、静かに部屋を照らしている。
俺はベッドの中で目を覚ましたが、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。
理央と過ごしたあの日の余韻が、数日経ってもまだ心の中に温かく残っている。
あの穏やかな時間、満月の下で交わした言葉、そして別れ際の微笑み。
その全てが、心の奥深くに刻まれていた。
「……さて。」
ゆっくりと起き上がり、窓を開ける。
冷たい朝の空気が部屋に流れ込み、心地よい。
外にはいつもと変わらぬ街の景色が広がっていたが、どこか違って見えた。
世界は同じままなのに、自分の中で何かが少しずつ変わり始めていることに気づく。
◇◆◇
コーヒーを淹れ、静かな部屋で一人の朝を過ごす。
コーヒー豆に注がれたお湯が、泡となって膨らみながら香ばしい香理央引き出す。
その香りがカフェでのやり取理央想起させる。
連絡先を書いたレシートを、理央が大切そうに折りたたんで持ち帰った記憶が脳裏をよぎった。
「……また、会えるんだろうか。」
そう呟いた瞬間、心の奥にぽつりと浮かぶ不安。
しかし同時に、理央の真っ直ぐな瞳と「必ず連絡しますね」という言葉がその不安をかき消した。
今日は何をしようか――。
教師を辞めた今、特に決まった予定がない。
それがかつては虚しさを伴っていたが、今は少し違う。
ただの空白ではなく、新しい何かを描ける余白のように感じられるのだ。
「よし……。」
コートを羽織り、外に出る決意をした。
今日は少し遠回りして歩こう。
何か新しい風景や、新しい何かが見つかるかもしれない。
◇◆◇
街を歩いていると、ふと目に入ったのは小さなギャラリーだった。
「夜空の華 特設展」
どうやら、この数日だけ展示している特設展のようだった。
普段なら素通りしてしまうような場所。
だが今日は、なぜか無性に気になった。
中に入ると、カウンターに一人だけいて俺の他に客はおらず、壁に飾られた絵が静かに出迎えてくれる。
たくさんの作品が並ぶ薄暗い空間には、作品だけに光が照らされ、静かに、だが力強く思いを発しているようだった。
抽象的な夜空を描いた絵が多く並び、どれも月か星がちりばめられていた。
俺は、一枚の絵の前で足を止めた。
それは、小さい黒いキャンバスに満月が浮かび、虹色の羽が包みこんでいる絵だった。
ふと、理央と一緒に見た満月を思いだす。
「……不思議だな。」
絵のタイトルに『祈り』と書かれているだけで、他には何の説明も添えられていない。
ただ、見る者に自由に解釈を委ねるかのように静かに佇んでいる。
俺はその前にしばらく立ち尽くした。
「この作品、気になりますか?」
突然、後ろから声が聞こえた。
振り返ると、カウンターにいた女性が微笑みながら俺に話しかける。
ギャラリーは薄暗くなっていたのでわからなかったが、近くで見ると50代くらいの女性だった。
「ここにある作品は、すべて私が描いているんです。」
「そうなんですね……。ちょっと、他の絵も見てもいいですか?」
「もちろんです。ごゆっくりどうぞ。」
もう一度、ギャラリーを見渡す。
だが俺は『祈り』の前でまた足を止めた。
作者と言っていた女性に思い切って声をかける。
「この作品、何か思い入れとかあったりするんですか?」
「……私が作品を作る時はいつもなのですが……私の思考が動かなくなってから手が動く感じなのです。ですから、私のエゴは入れない様にしているんです。ただ……。」
「ただ……?」
「どれも描いた時点で、持ち主様の元へ行けるように何か必要なことが起きているという感じなんです。私自身の想いよりも、きっと持ち主様の方がこれらの作品を通して何かに気付き、近づいていってほしい。それが、私の『思い入れ』というものなのかもしれません。」
「……。言葉じゃなくても、思いは人の心に伝わるということ……そして、解釈は自らで見つけていくということ……なのかもしれませんね。」
「仰る通りかもしれません。」
教師時代、常に「伝えること」にこだわってきた。
正しい知識、正しい答え、正しい生き方――しかし今、自分の心に響くのは、正しさではなく、ただ「そこにあるだけ」のものだった。
俺はもう一度『祈り』を見た。
なぜか無性に気になり、その絵を静かに見つめる。
―――気付き、か。
ギャラリーを出ると、どこか気持ちが軽くなっている自分に気づいた。
この世界にはまだ知らないものがたくさんあって、自分もまだ新しい何かを見つけられるかもしれない。
そんな予感が胸の奥で静かに芽生えていた。
手に『祈り』を持ち、再び俺は歩き出した。
◇◆◇
結局、夕方を過ぎるまで街の中を歩き回った。
家に帰ると、ふと机の上に置かれた古びたノートが目に入る。
それは教師時代に使っていたメモ帳で、授業のアイデアや日常の気付きが走り書きされている。
パラパラとめくるうちに、空白のページを見つけ、手を止めた。
「……何か、書いてみるか。」
ペンを取り、新しいページに文字を綴り始める。
今日感じたこと、街で見た景色、ギャラリーで交わした言葉、そして――理央のこと。
文字が少しずつページを埋めていくたびに、心の中にあった曖昧な感情が形を成していく。
気づけば、夢中で書き続けていた。
「……こんな気持ち、久しぶりだな。」
書き終えたページを眺め、静かに微笑む。
その瞬間、机の上に置かれたスマホが震えた。
画面には、『新着メッセージ 1件』と表示されている。
――理央だろうか。
不思議と心臓が高鳴り、鼓動が周囲の音をかき消すようだった。
期待と不安が交差する中、ゆっくりと深呼吸をし、メッセージを開く。
『先生。お元気ですか? 理央です。先日はありがとうございました。連絡が遅くなってしまいすみません。次のお休みがわかったのでお伝えします―――』
俺はペンを持ち、理央のメッセージを見ながらカレンダーに向かった。
『離任式』で止まっていたカレンダーを破り、新しい月に変わったカレンダーを見る。
ペンを握る手が小刻みに震えている。
時計の針が刻々と時を刻む音が、やたらと耳に響いた。