表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

余韻

 窓から外を眺めると、街灯の光がゆらゆらと石畳を照らしている。


「……そろそろ、出ようか。もう、すっかり暗くなったし。明日も仕事だろ?」


「はい……。あの、先生……。少し、一緒に歩きませんか?」


 俺と理央はカフェを出て、水たまりが残る石畳の上を歩きだす。

 カフェのドアが静かに締まる音が、背中越しに響いた。

 雨上がりの湿った空気が、街の喧騒を少しだけ和らげている。

 空気はひんやりしているのに、なぜか心は少し温かい。

 沈黙が続いても、不思議と気まずさはなかった。

 ふと理央が立ち止まり、空を見上げる。


「……雨、上がりましたね。」


「……そうだな。」


 理央は深く息を吸い込んでから、声を漏らした。


「先生と一緒に歩くなんて、なんだか不思議です。」


「……そうだな……。俺も不思議な気分だよ。」


「先生、私……ずっと言いたかったことがあるんです。」


 心臓が一瞬跳ねた。再びあの日の記憶がよみがえる――離任式、彼女の告白。そして、何も答えられなかった自分。


「……前から思ってたんです。先生って、いつも誰かのために頑張ってるけど、自分のことは後回しにしてる気がして……。」


 予想していたのと違う言葉に、俺は少し安堵した。

 だが、理央の発した言葉が鋭く心に刺さる。


「……別に、そんなつもりは――」


 言いかけて、ふと喉が詰まる。否定する言葉が出てこない。


「私、先生が教師を辞めるって知った時、すごく驚きました。でも、同時に、少しだけホッとしたんです。」


「……ホッとした?」


 理央は小さく頷く。


「先生が、やっと自分のことを考える時間を持てるかもしれないって。だって、先生はずっと無理してるような気がしてたから。」


 その優しい言葉が、思いがけず心を緩めた。教師という肩書きを外した今、誰かが自分を気遣うなんて思ってもいなかった。

 どうして、こんなにも彼女の言葉は真っ直ぐ届くのだろうか。


「そんなこと、言われたことなかったよ。ただ、一人でもそう思ってくれている生徒がいると思ったら、なんか嬉しいな。だけど……。」


「だけど?」


「生徒にそんなに気を遣わせるなんて、教師として失格だな。」


 顔を見合わせて、お互い笑いあう。

 どうしてそこまで、理央は俺を見ていてくれたのだろうか。

 純粋な疑問が湧いてくる。


「理央はさ……なんでそこまで俺を見てくれていたの? 授業を受け持ったわけでもないのに……。」


「それは……。まだ内緒です。」


 理央は微笑みながら人差し指を自分の口に当てる。

 その仕草に、俺は一瞬見惚れてしまった。

 こんなに表情豊かであることを、誰が知っているのだろうか。

 内緒。その言葉がなぜか心の中で何度も反響する。

 まるで、答えを知るまで忘れられない謎のように。

 俺の中に、また不思議な感情が芽生えるのを感じた。

 温かくも、優しい感情が優しく包み込んでくれるようだった。

 

「あ、先生。ほら。」


 唐突に理央が空に指を差す。

 指先の方向を見ると、そこには月が輝いていた。


「月、綺麗ですね。」


 目の前の少女――いや、もう少女とは呼べない彼女の姿を見つめた。

 理央はどこか楽しそうに、そして嬉しそうに微笑んでいる。


「うん……。今日の月は満月かな。」


「そうですね……。なんか、一緒にこうして見られるの、ラッキーって思っちゃいました。」


 俺はその言葉にハッとした。

 理央はこうして誰かと一緒に空を見上げることは少なくなったのだろう。

 もしかすると、一人で空を見上げることが多くなったのかもしれない。

 だとしたら、せめて今だけは、一緒に月を見てあげてもいいのかもしれない。

 少しでも、理央の気持ちが前向きな方向に向くのだとしたら……。

 石畳を歩く二人の足音が、規則的なリズムを奏でている。

 間もなく、大きな十字路に差し掛かった。


「じゃあ俺、こっちの方向だから……。」


「……私はあっちです。」


 お互いに指をさした方角が真逆を示している。

 心の奥底で寂しさを感じ始めた。

 少しの沈黙が、俺と理央の間に流れる。


「あの、先生……。今日はありがとうございました。とても楽しかったです。また、会えますか?」


 理央が沈黙をかき消すように言葉を発した。

 まるで俺の心が見透かされているようだった。


「理央が都合の合う日だったら、いつでもいいよ。と言っても、困るよな。じゃあ、次の休みの日ってのはどう?」


「はい! 大丈夫です! それで……あの……先生の連絡先って聞いてもいいですか……? 実は次の休みの日がまだわからなくて……。」


「あぁ……構わないよ。」


 ポケットからスマホを出そうとした、が、ふと立ち止まる。

 スマホの代わりにポケットからカフェのレシートとペンを出した。

 職業病のせいか、常にペンは持ち歩くことにしていた。

 それがこんなところで役立つとはな……。


「……これに書くよ。その方が、なんだかいい気がするから。」


 俺はレシートの裏に自分の名前と連絡先を書いて理央に手渡した。

 理央はそれを受け取り、嬉しそうに折りたたんでポケットにしまった。


「ありがとうございます。必ず連絡しますね。」


「うん……わかった……。じゃあ……また、な。」


 お互い手を振り、その場を離れる。

 数歩歩いてふと後ろを振り返ると、理央も同じように振り返っていた。

 目が合うと、お互いに照れくさそうに小さく笑って、再び前を向く。

 だが、心の中には、理央の声がまだ微かに残っている気がした。


 俺の中で、確かに何かが動き出していた。

良かったらまた次話も見に来てください。

評価いただけますと、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ