震える手、揺るがぬ心
雨は、一向に止む気配は無い。
木々に触れる雨音が、心の中に静寂をもたらす。
「ここ…か…。」
理央が待ち合わせ場所に選んだ喫茶店『ノクターン』に着いた。
「何を緊張しているんだ……俺は……。」
教員時代に使っていたアナログ時計に目をやる。
5時15分。
待ち合わせ時間にはまだ早い。
先に店に入って待ってるか……。
――カラン カラン
ドアについている鈴が店内に響きわたった。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
「いえ……。後でもう一人来る予定です。」
「では、こちらのテーブル席にどうぞ。」
カフェの店員に案内された場所は、窓際のテーブル席だった。
外を見ると仕事が終わった人がせわしなく歩いている。
俺は思わず、外を見るのを止めた。
まさか、図書館で会えるとは……。
あの後、理央の方から「この後時間ありますか?」と言われ、特に用事もなかったので、誘いを受けた。
しばらく図書館で本を読みふけった後、そのままこのカフェに向かうことにした。
待ち合わせ時間は5時半。
なぜか身体が震えている。
一息つき、店内を見渡す。
店内は木調で統一されており、かすかに優しい音色が聞こえてくる。
とても静かな雰囲気で、客層もまばらだ。
平日の夕方だからなのか、客は数人しかいない。
「こちらお水になります。ご注文が決まりましたら、お申し付けください。」
「あ……はい。ありがとうございます。」
そもそも、なぜ理央は俺を誘ったのだろうか?
変な感覚が、俺の身体を包み込むようだ。
今から会うのは、ただの教え子なのに……。
―――カラン カラン
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
誰か店に入ってきたようだ。
「あ……。いえ……。もう一人、来る予定です……。」
理央の声だ。
声がする方を振り向き、手を挙げる。
「理央。」
すると理央は店員に頭を下げ、俺がいるテーブルまで駆け寄ってくる。
「先生。早かったんですね。もしかして、待ちましたか?」
「いや、さっき来たばかりだったよ。それより、理央の方は大丈夫? 無理して来たんじゃない?」
「いえ、私は基本5時で帰れるので、大丈夫です……。私の方が先に着いておく予定だったんですけど、待たせてしまいましたね。すみません。」
「いや、全然かまわないよ。なんなら、しばらく待つ予定だったし……。」
「あ、ありがとうございます。」
「とりあえず、座ったらどう、かな?」
「あ……はい……。」
そっと目の前に座る理央を見ると、肩が激しく上下し、息が切れている。
図書館から走ってきたのだろう、額からうっすらと汗がにじんでいる。
真面目で純粋な性格の子だ。遅れるわけにはいかないと思って急いだのだろう。
俺と理央の間に、少しの沈黙の空間ができた。
「こちらお水になります。ご注文が決まりましたら、お申し付けください。」
店員が沈黙を破る。
俺も理央も少しビクッとして、慌ててメニュー表に手を伸ばした。
「な……何か飲むか? それとも、何か食べる? お腹空いてない?」
「……お腹は……大丈夫です。じゃあ、温かい紅茶にします。」
「ケーキとかはいらない?」
「はい……先生は、お腹空いていませんか?」
「俺も……大丈夫だ。じゃあ、俺はコーヒーにしようかな。」
俺は手を挙げて店員を呼び、紅茶とコーヒーを頼んだ。
何か会話をしなければ。
「ひ……久しぶりだね、理央。元気にしていた?」
「はい……。先生はお元気でしたか?」
「俺? まぁ……なんとか生きてるよ。」
「「……」」
「そういえば、理央はなんで図書館にいたの?」
「あ……実は私、あの図書館で嘱託職員として働いてるんです。」
「……あれ? 大学受験は?」
「はい……。実は、受験を辞めて、働くことにしたんです。高校に来ていた求人を見ていたら、たまたまあの図書館の募集をしていたので、受けたんです。」
「そうだったんだ……。なんで図書館なの? 仕事、大変じゃない?」
「はい。図書館は、昔から好きなんです。静かな雰囲気がとても居心地が良くて……。それに、本は雄弁だけど、見る人を選ばないじゃないですか。そういうところが、好きなんです。仕事は……最初は覚えることがたくさんあって大変だったのですが、もう1か月くらい働いているので、だいぶ慣れてきました。」
「そうか……。理央は素直で真面目だし、すぐに慣れるだろうなぁ……。」
「「……」」
また沈黙の空間ができる。
ええと……この後何を話せばいいんだろう。
正直、ネタが尽きてきたぞ。
「失礼します。こちら紅茶とコーヒーになります。」
俺と理央は店員の方に目をやり、軽く頭を下げる。
カフェの窓際、沈みかけた太陽の光が静かに差し込む。
コーヒーカップを持ち上げ、理央と視線を逸らすように窓の外を眺めた。
口に含んだコーヒーの香りが、俺の気持ちを冷静にさせる。
そうか……理央は今一人で生活しているのか……。
「最近はどう過ごしてる? 休みの日とか、ちゃんと気晴らし出来ているか?」
「……普通ですよ。」
しまった。なにかまずいことを聞いてしまったか?
「でも……。先生とこうしてお話しできているのは、普通じゃないです。」
理央はそう言った瞬間、顔がほんのり赤くなり、慌ててカップに口をつけた。
その瞬間俺は思わずコーヒーを静かに吹き出してしまった。
「だ、大丈夫ですか? 先生。」
テーブルに置かれたナプキンで慌てて口の周りを拭く。
「大丈夫大丈夫! 突然変なこと言うからびっくりしただけだよ。」
理央は慌てている俺の姿を見て、穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、俺も思わず笑ってしまった。
これまでの緊張が一気にほぐれていく感じがした。
それからしばらく、他愛も無い話のやりとりをしていたが、突然、理央の口調が変わった。
「先生。離任式の日に私が言ったこと、覚えていますか?」
「あ……うん……。」
忘れるわけがない。
俺は「ありがとう」しか返せなかった。
「私。今でも気持ちは変わっていません。ずっと、変わっていません。」
理央は潤んだ眼差しで俺を見つめる。
紅茶の入ったカップに目をやると、小刻みに震えているのがわかる。
「……でもほら、俺は今何もできていないし、理央と年齢だって離れているし……。俺に好意を寄せてくれているのはありがたいけど……。一般的にはほら、良くないことじゃないのかな。理央だって、年の近い魅力的な人、これからたくさんできるでしょ?だから……。一瞬の気の迷いというやつじゃ……。」
俺は、最低な事を言っているんじゃないのか?
そんな俺をよそに、理央はコップから手を離し、さらに真剣な表情で俺を見つめる。
「今……先生が言ったこと、私が先生を好きになってはいけない理由とは思えません。」
力強い言葉に、俺は動揺してしまった。
理央ってこんなに強気だったか?
「……でもな。俺は正直、理央のことをあまり知らないし、理央だって俺のことわからないだろ?」
これで諦めてくれるだろう。
せっかく会えたのに、俺はなんてひどいことばっかり口に出してしまうのだろう。
やっぱり、今の俺は最低だ……。
「じゃあ……これからお互いの事を知ればいいんじゃないですか?」
「えっ……?」
「私、図書館で会えたのは偶然だと思いました。でも、今はそうじゃないって思うんです。だから、今この瞬間を大切にしたい。これからさらに育んでいきたいって思うんです。それじゃ、ダメですか?」
「今この瞬間を大切にしたい」
理央の言葉に、俺は何も返せなかった。
高校までの彼女とは別人のように見える。
潤みながらも決意を固めた眼差しで見つめている。
ふと、あの言葉がまた俺の脳裏をよぎる。
「光があるのは、いつも『今』」
理央の思いが、消えかかっていた俺の心に灯をもたらす。
その気持ちは本当なのだろうか。それに、自分の中に芽生え始めている感情は何なのだろうか。
俺は無性に知りたくなってきた。
「だから先生。また、私と会ってくれませんか?」
もう、断る理由なんて無かった。
「……わかった。」
理央は再び微笑み、カップに手を伸ばしてゆっくりと紅茶をすすった。
その手は、まだ震えている。
外はすっかりと暗くなっている。
雨はいつしか止んでいた。
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