灯
今日もまた、目覚めることに意味を見出せない朝を迎えていた。
カーテン越しに差し込む淡い光は、どこか冷たく感じる。
時計の針はただ無情に時間を刻み続け、壁に掛けられたカレンダーには『離任式』と書かれた文字だけ残り、そこから先に進む気配がない。
「また、同じ一日か……。」
呟いた言葉は空気に吸い込まれ、部屋の中に虚しく消えていく。
かつて、俺の一日は教室の喧騒と生徒たちの笑顔で満たされていた。
だが今、耳に届くのは冷蔵庫のモーター音と、かすかな風の音だけ。
退職してからというもの、思いつく限り様々なことを試してみた。
しかし、どれも心の空白を埋めることはできなかった。
どれくらい時間が過ぎたのだろうか。
窓の外を見ると、学校に通う子供たちの姿が、やけに眩しく見える。
最初は一人、そして徐々に友人に囲まれ、大きな集団となって学校に通う子供たちの姿に、少しだけ嫉妬心が湧いてくる。
努力すれば、何かが変わると思っていた。
だが、努力する先に「自分の居場所」が見つかるとは限らないのだと痛感する日々だった。
再びカレンダーに書かれた『離任式』の文字を見る。
もう一つ、また違う感情が蘇る。
「ありがとう」
俺は理央にそう伝えることしかできなかった。
あのまま何も言わず、最後に笑顔を残したまま、理央はその場からいなくなった。
そんなに親しくもしていないのに、なぜ理央は俺にあのようなことを言ってくれたのだろうか。
ふと、理央と話をした記憶を呼び起こしてみる。
確か、入学した時か。
新入生に挨拶をした後、理央のお兄さんの利史樹が俺に話しかけてくれたっけ。
「俺の妹なんです」と言って、理央を紹介してくれたんだよな。
恥ずかしそうな利史樹のあの表情。思い出すだけでなぜか笑えてくる。
利史樹の事はよく覚えている。
赴任した直後に『問題児』扱いされた生徒。
でも、利史樹の行動にはすべて理由があった。
教師に暴言や暴力を起こしたのは、いつも誰かを守るためだ。
だけど、一般的な教師は『問題』を起こしたことにばかり目を向けて、その真意を読み取ろうとはしない。
多分、今の学校ってのはそういう大人が多いのだろう。
よく、他の先生の愚痴を俺に言いに来てたっけ。
俺に親しくしてくれた、唯一の生徒だったな……。
でも、去年の秋から利史樹は長期の出張に行ったと聞いた。
一人残された理央は、どんな気分だったのだろうか。
孤独。
それしかなかったのだろう。
あの日以来、理央は以前にも増して人と関わることが無くなった。
やっと話が出来たのは、子犬を助けたあの日くらいか……。
なんであんなことしかできなかったんだろう。
もっと理央を励ましてあげる言葉があったはずなのに。
離任式の日、理央はどんな思いで俺に会いに来てくれたんだろうか。
急に心が締め付けられ、心が重くなる。
俺は、外の空気を吸いたいという衝動だけで家を出た。
◇◆◇
外を出ると、急に雨が降り始めた。
玄関にあった傘を手に取り、雨をかき分けるように歩みを進めた。
足取りは重く、どこへ向かうのかも定かではなかった。
気づけば、図書館の前に立っていた。
特別な理由はない。ただ、静寂の中で心が少しでも落ち着けばいいと思ったのかもしれない。
自動ドアが静かに開く音が耳に優しく響く。
中に入ると、ひんやりとした空気と本の匂いが俺を包み込む。
心地よい静けさが、疲れた心に少しだけ安らぎを与えてくれる。
図書館は良い。
様々な思いが形となり、後世まで引き継がれる。
有名無名問わずに、様々な思いがこの場所には詰まっている。
無意識のうちに、哲学書のコーナーへと足を運んでいた。
かつて授業で参考にした資料を思い出しながら、指先で背表紙をなぞる。
ふと、一冊の本が目に留まった。
装丁は地味で、目立つわけでもない。
だが、なぜかその本だけが俺を強く惹きつけた。
『心の灯』——著:アンドレ・フェルナン
何の気なしに手に取り、ページをめくる。
すると、目に飛び込んできた言葉があった。
「人生は、過去と未来の影を追いかけるゲームではない。光があるのは、いつも『今』だけだ。」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
心の奥にある何かが、俺の全身を駆け巡る。
本を閉じ、深く息を吐いた。
「……『今』か。」
その言葉を心の中で何度も繰り返す。
自分はこれまで、何を探してきたのだろう?
自分の価値? 生きがい? それとも、誰かに認められること?
今、俺は何をしている? 新しい人生を歩んでいるのか?
様々な感情が俺の中を駆け巡り始める。
もう一度手に取った本のタイトルを見る。
『心の灯』
灯とは、灯すものと灯されるものの両方が必要になる。
今の俺にはその両方が無い。
だが、今の自分に必要な言葉が書かれているかもしれないな。
俺は、『心の灯』をしっかりと手に持ち、貸出カウンターへと歩みを進めた。
「あの……。この本を借りたいのですが……。」
今の自分に対する劣等感のせいなのか、いつからか人の顔を見て話をすることが出来なくなっていた。
「では、貸出期間は二週間となっておりますので、忘れずに返却してください。」
「はい……。」
人と話をするのがなぜか緊張する。
しかも、ここは静寂に包まれた空間だ。
小さな声でもよく聞こえてしまう。
本を受け取り、振り返ったその瞬間だった。
「……先生?」
静寂を破るように、どこか懐かしい声が聞こえた。
振り返ると、そこにはブックトラックを押している理央がいた。
まさか……どうしてここにいるんだ?
ここで仕事をしているのだろうか。
動揺している俺をよそに、あの日と変わらぬ優しい瞳が、じっと俺を見つめている。
だけど、どこか大人びた雰囲気も漂わせていた。
「……理央?」
思わずその名前を口にすると、理央は微笑んだ。
理央は、小刻みに震えているように見える。
どこか照れくさそうに、でも嬉しそうに俺へと歩みを進めてくる。
「……こんなところでお会いするなんて、偶然……ですね。」
偶然。
本当に、偶然なのだろうか?
もしかしたら、自分がずっと探していたものは、すでに目の前にあったのかもしれない。
ただ、それに気づけなかっただけなのかもしれない。
心の中の空白が、少しだけ埋まっていくのを感じながら。
先ほど読んだ言葉が、急に頭の中をよぎる。
「灯すものと、灯されるもの。光があるのは、いつも『今』。」
理央の瞳が、少しだけ潤んでいる。
でも、その笑顔はとても温かく、心を静かに包み込んでくれた。