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8.紫羽の失踪

第八話


 全力で走っている翔の頭の中で、星羅の言葉がぐるぐると渦巻いて繰り返されている。


「司音がいなくなったの。今朝から姿を見ていないのよ……。あなたが知らないということは、何かあったということかしらね」


 翔は必死の形相で走っていた。

 そうして後宮の西門に着いた。

 翔はぜいぜいと息を切らしながら門衛に聞いた。


「昨夜遅くにここから出た者はいませんでしたか?」


「夜遅く? この門は日暮れと共に閉まることを知らない訳でもあるまい」


「あ」


 動転している翔はそのことが頭から消えていた。


「じゃ、この門から今朝早くに通った者は? 宮女を連れて出た人がいるかも知れないんです」


 門衛はいないと手を横に振った。そして出入りが多くなるのは朝がすっかり明けた今頃からだと言う。

 門の外から後宮に品物を納めにきた商人たちの荷車の通行が続き、頼んだ物品を受け取りに来た各宮の者などで混雑し、翔は追い払われた。

 それから翔は後宮の中の今は廃宮になっている宮や、防災倉庫や掃除道具置き場まで調べ歩いたが紫羽を見つけることは出来なかった。

 内廷から外廷への出入りは特別厳しい。女一人攫って外廷に出るのは難しいはずだ。


 夕方、翔はもう一度西門へ行った。今日の早朝から今までに門から外に出た女連れはいないかと又尋ねた。そのような者は通らなかったと、又言われた。

 途方にくれて立っている翔を見て、門衛は慰めるように思い起こしてくれる。


「怪しげな者なら俺たちも感づくのだがな。まず、夜明け少し前に出て行くのは、ごみを捨てに行く樽桶の荷車だろ。次は、ああ、今朝はどこかの宮の宮女が辞めていったな。親が迎えに来ていたから嫁にでも行くのだろう。そのあとは」


 翔の頭の中でチカっと何かに引っかかった。ごみ?


「あの、清掃部の宦官は各宮のごみを集めて、外のごみ焼き場に運んで行くんでしたね? 毎日?」


「そうだよ。あんなでっかい樽桶を荷車で運ぶのは大変だろうよ」


 翔も知っていたことだ。各宮から出る野菜屑、魚肉の残り物などの残飯、布、紙、あらゆるごみ屑を集めて城外のゴミ焼き場に捨てに行く宦官の部署がある。

 夜明け少し前に、大きな樽桶を荷車に乗せて引いていくのだ。

 考え込んでいた翔は、思いつめたような顔を上げた。

「ありがとうございました」と頭を下げてくるりと踵を返した。


 その同じ朝の太皇太后の宮では。

 太皇太后がいつものように豪華な椅子に座り、虚ろな目をしてぼんやりとしていた。

 その傍で、宮女頭の玉蓮が並んで立っている星羅たち宮女たちを叱り付けていた。


「司音はどうした。怠けておるなどもっての外だ。連れて来なさい、すぐに!」


 このピリピリとした状況下にもかかわらず、星羅が相も変わらずのんびりとした物言いで答えた。


「それが、いつの間にか姿が見えなくなったのです」


「なんだと、司音の事を何か知っている者は?」


 宮女たちは一斉に知りませんと口々に言う。


「司音め! 戻ってきたら棒叩き、二十、いや三十回だ」


 宮女たちはひそひそと囁き合う。


「三十回なんて死んでしまうわ」


「あの子、寝る時は寝所にいたわよ」


「じゃ、皆が寝静まってから出て行ったってこと?」


「何をこそこそ喋っている。そなたたちも棒叩きをされたいか」


 慌てて口をつぐんで俯く宮女たちの静寂の中、太皇太后が口を開いた。


朝餉(あさげ)はまだか」


 玉蓮が答える。


「太皇太后様、朝餉は先ほどお召し上がりになりました」


「まだ食してはおらぬ。朝餉をもて。早うせよ。早う!」


 太皇太后は持っていた扇を投げ、手近にある湯呑やら香炉を放り投げた。


「寝所にお連れせよ、さっさと連れていけ」


 宮女頭の玉連は顔をしかめて、自分は知らぬふりで部屋を出て行った。

 こうなると体格の良い星羅の役目になる。

 星羅は慌てず騒がず優しく太皇太后の手を取った。


「太皇太后様、あちらに朝餉のお仕度が整っております。参りましょう」


 太皇太后は星羅に抱えられながら寝所に向かった。

 宮女たちはそれを見送ったあと、興味津々で話に夢中になる。


「どう思う?」


「玉連さんがまた、皇帝陛下の大監にあの子を売りつけたんじゃないかな」


「ある、ある、それ」


「銭の亡者だからね、あのおばば」


「じゃ、寝ている間に連れ去られたってことよね。寝ようとした時はいたんだから」


「私も気をつけなきゃ」


 宮女たちは、そう言った宮女を見て口を揃えた。


「ない、ない、それはない」


 言われた宮女はプッと膨れた。


 そして翌日の夜明け前のことだ。

 清掃部の宦官二人が各宮を回って、出してあるごみ屑を大きな樽桶に放り込んでいた。

 空はまだ墨色だがそこにほんの少しだけ薄い白さが混じり始めている。


「この宮で終わりだ。行くか」


「ああ、着く頃には西門も開くだろう」


 大きな樽桶を乗せた荷車を二人がかりで引いて行き、開いたばかりの西門から門外に出て行った。

 翔がその荷車の樽桶の中に潜んでいた。

 うッと声が出そうなくらい臭い。ごみ屑の匂いにはたまらず、翔は手巾で鼻と口を覆って頭の後ろで結わえた。

 樽桶はとても大きい。翔は清掃部宦官の隙を見て入り込んでみて、これで連れ出されたのかも知れないという思いを強く持った。この樽なら人が一人や二人入ることが出来る大きさだからだ。


 話は少し戻る。昨日の深夜である。

 紫羽は一度寝床に入り、皆が寝静まった頃に抜け出して薬草園に行った。

 そこで翔との密談を終え、宮女の寝所の前まで戻って来た。が、中に入ろうとした瞬間、後ろからいきなり首筋に一撃を受けて昏倒した。

 どれだけの時が経ったのか、紫羽が意識を戻した時、自分がどこにいるのか判らず、あたりを見まわした。

 牢だと気づいた。出入り口に鉄の格子がはまっている。窓もない。

 縛られていないのを幸い、鉄格子から外を見る。紫羽は牢獄という所を知らないが、獄卒らしい見張りがいない。囚人を入れる牢屋は他にはなさそうで、ここ一つだけという状況からここは皇城にある牢獄ではないと判断した。


「何なの、ここ? 牢には違いないけど。あ、痛ッ」


 首を傾げた瞬間、首の後ろに痛みが走って手をやり、それで思い出した。


「ああ、誰かに殴られて気を失ったんだった」


 一撃されて気絶して、気付いたらここにいた。その間のことは覚えてはいない。


「誰がやったのかしら……。ま、想像はつくけど」


 紫羽は肝が据わっている。泣き叫ぶこともない。しかし、更なる難に気付いた。


「何なの、この匂い。臭い!」


 部屋に充満している臭い匂いに顔をしかめる。ふと、自分の衣の袖を嗅いでみた。


「うッ、私の衣が臭っているのね なにこれ、いやだぁー」


 紫羽は悪臭を払おうとバタバタと衣の袖と足回りを叩く。

 攫われたことより、自分に染みついている悪臭に紫羽は参った。

 自分の頭に菜っ葉の端切れと、肩にはネギの根っこがくっついていることに気付けるはずもなくー。

 そこへ入って来たのは白焔だった。


(やっぱりこの男ね。呪術師、白焔)


 紫羽は白焔を見据えた。


「皇城の呪術師は人攫いもするのね」


「お前は誰だ」


「太皇太后様の宮の宮女、司音」


「お前は皇帝に術を使い、密偵を助けようともした。どうにも匂うのだ」


「でしょう? 何なの、この臭い匂いは」


 白焔は唇を歪めて笑った。


「大したものだ。肝が太い。やはり雀王に縁があるものと見ゆる」


「誰です? その人」


「お前の名は?」


「何べん聞いたら覚えるの。司音、し、お、ん」


「ではリーファは誰だ」


「さあ?」


「太皇太后がお前を見て、リーファと呼んだ」


 紫羽は平然を装った。


「教えてやろう。リーファは雀王の妻となった女で、太皇太后が皇后の時代に仕えていた。だからお前を見て、ボケている太皇太后はお前をリーファと呼んだ。なぜお前はその女に似ているのだ?」


「そんなの知らない」


「埒が明かぬな。ゆえに攫ってきたのだ。お前が何者かを確かめる良き方法を思いついたのよ」


 白焔は呪を唱え始める。出した手の平に炎が立ち、ゆらゆらと揺れる。その炎が燃え尽きた時、黒い丸薬が残った。


「毒蛇から採った毒だ」


 紫羽は黙ってそれを見る。


「孔雀は毒蛇を食らう。毒に強い。孔雀明王の孔雀を抱えておる者ならば毒では死なぬ。死ねば俺の疑いは晴れよう。さあ、飲め」


(こうきたか。あくどいやり口だ)と紫羽は思った。


「そんなものを飲んで死んだらどうしてくれるのよ」


「飲めぬなら飲ましてやろう」


「待て、まだ殺すな」


 声と共に登城の身支度を整えた劉宰相が入って来た。


「そやつに確かめたいことがある。勝手な真似をするな」


 劉宰相は白焔を止めた。


「血書か? こやつが知っていると思うのか」


「血書があると言ったのは、白焔お前だ」


「あるやも知れぬ、と言ったまでだ。所詮噂に過ぎぬ」


「それを確かめる。殺すのは後だ。朝議に遅れる。皇城から戻ってのち詮議する。お前も私の護衛の役目を果たせ」


 言い置いて劉宰相は出て行った。

 それを見て、白焔は紫羽に近付き口をこじ開けて毒丸をねじ込んだ。

 吐き出そうとする紫羽の唇に指を立て、呪を唱えた。

 紫羽の唇は吐き出そうにも固く閉じて、毒は喉に落ちていった。


「生きているか死んでいるか、戻って確かめるのが楽しみだ」


 含み笑いをしながら白焔は出て行った。

 紫羽の呼吸が荒くなってきた。

 毒が紫羽の体を痛めつける。激しい痛みに呻いて紫羽は膝をついた。


 その頃、樽桶の中に忍んでいた翔が、桶の蓋を少し持ち上げてあたりの様子を探った。

 もし、ごみ屑運びの桶樽を使って紫羽を攫ったとしたら、その道をたどれば紫羽の足取りを追えるかも知れないと翔は考えていたのだ。

 目の前の邸に掛かっている扁額(へんがく)に、『劉府』の文字が見えた。


(劉宰相の邸だ。こんな所を通るのか)


 その時、門前に止まっていた劉宰相の馬車が動き出し登城していくのが見えた。

 倭国の官僚も宮中への出仕は朝未明だが、唐の官僚も同じで、あたりはまだ薄闇が広がっている。

 そして、樽桶の蓋の隙間から窺っていた翔の目の前に、ひらひらと何かが舞い落ちてきた。

 翔は手を出してそれを掴む。

 それから、舞い落ちてきた上を見上げた。劉宰相の邸の屋根に何かが見える。


(何だ、あれは。ん? 鳥か?)


 が、一瞬でその姿は消える。

 翔は自分が掴んだ物を見た。それは薄闇の中でも判る紫色の羽だった。


(紫の羽? しう、紫羽だ!)


 翔は荷車を引いて前を歩く宦官に気付かれないように、樽桶から外に飛び降りた。


「全く、手間のかかることだ」


 屋根の上に一瞬だけ姿を見せた孔雀の、その呟きは翔には聞こえなかった。

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