7.死ぬまで生きろ
第七話
ある日、紫羽は後宮内の外れにある診療所に太皇太后の煎じ薬を貰いに行った。
医官が一人のんびりと茶を飲んでいた。
「失礼します」
「おや、新顔だね。どこの宮だい?」
「太皇太后様のお薬を頂きに参りました」
「ああ、いつものだね。ちょっと待っていなさい」
後宮内の医官も、宦官にされてから勤めることになっている。
医官は奥の薬剤棚の方へ入って行った。
紫羽は入口近くに立って薬剤の匂いがする診療所内を眺めて待った。
その時、入口外に、よろめくように一人の老人が来て倒れた。
紫羽は不審な目で見る。老人でも男は後宮には入れないはずだからだ。
しかし、その男は体のあちこちにひどい傷を負っていて血まみれになっていた。
「どうなさったんですか?」
紫羽の呼びかけに老人は顔を上げた。
その顔を見たとたん、紫羽はぎょっと息を飲む。
それは権大納言邸に入り込んでいた唐の密偵、馬屋番の爺と呼ばれていた男だった。
〇
権大納言邸の夜。
誰かが眠っていた紫羽の上に乗っていた。紫羽は体を横に向けて賊の体勢を崩した。
覆面の男がいた。そしてその男は言った。
「抱いてみれば男か女かくらい判るものだというのは本当だな」
紫羽は飛び掛かって賊の覆面を剝ぎ取った。馬屋番の爺の顔が闇に透けて見えた。
「お前は!」
「すっかり騙されておったわ」
そして薄く笑って言った。
「天の呪術を受け取るのは雀王直系の男子のみ。姫さんの呪で馬が飛んだ。ゆえに紫羽姫、あんたは男だ」
〇
その老いた密偵も紫羽を見上げ、二人は目線を合わせた。
さすがの紫羽も、じりっと足を後ろに引く。
「どうだ、この者と倭国で会ったか?」
気が付くと、呪術師・白焔が密偵の後ろに立っていた。
赤紫の殴打痣や裂傷からの出血にまみれた体を起こして、密偵が口を開く。
「さあな、覚えておらぬ」
「吐け!」
白焔は足で蹴りつける。
紫羽はもう混乱の極みで立っているのがやっとだった。
蹴られながら密偵は呻きながら声をあげた。
「雀王の孫は男だ。そう刺客たちに知らせた。これは女ではないか」
「皇帝が、女が蛇になったと喚いたのだ。それがこの女だ。気になるのだ、よく見ろ、この顔に見覚えがあるのではないか?」
紫羽は内心、もう駄目だと覚悟しつつ、言い張った。
「私は洛陽で育った商人の娘です。この人なんて知らない!」
密偵も言う。
「こんな女など知らぬ」
白焔は冷酷な顔を歪めて言った。
「ならばお前の役目はここで終わりだ。死ね、お前は死ぬ。死ぬ」
白焔は呪文を唱えた。
と、密偵は起き上がり、診療所の外壁に何度も額をぶつけ始めた。
たちまちその額から幾筋もの血が飛び散っている。
(いけない、術に掛けられた。この男、呪術師だ)
だが掛けられた術を解けば、この呪術師は紫羽が雀王の孫で男だと確信するだろう。
(どうしたらいい、どうしよう)
紫羽は壁に頭を打ち付けている密偵を止めようと、その背中を掴んで壁から引き離そうと頑張った。
「駄目よ、死んでしまうわ!」
そして白焔を睨んだ。
「年老いた人にひどいことを!」
が、いくら背中を引っ張っても、術は紫羽の力を超えていた。
そこで、紫羽は思い切り頑張って悲鳴をあげた。あげ続けた。
「キャーッ! 誰か、キャーッ! キャーッ!」
診療所奥から医官が飛び出して来る。
「何だ、どうした!」
「男です、後宮に怪しげな男が入り込んでいます! ほら、そこに!」
紫羽は再び叫び声をあげながら白焔を指さした。
「ここは後宮だ。皇帝以外の男が入り込んでいい場所ではない!」
医官も大声で叱責し、刀を差した後宮の警備所の宦官たちが紫羽の悲鳴に気付いて駆け寄って来るのが見える。
それを見た白焔は、チッと舌打ちして素早く姿を消した。
密偵は失神していた。
「男が入り込んだと!」
警備所の宦官に紫羽は説明した。
「怪しげな男がこの人を連れて来て殺そうとしたのです」
「探せ! 捕らえろ」
二手に別れて白焔を追う宦官と、残りの宦官たちは失神した血まみれの密偵を引きずって行こうとする。
その時、医官がそれを止めた。
「ひどい傷だ。傷の手当だけでもしてやろう。引っ張っていくのはその後にしてくれ。見ろ、年寄りだ。このままではもたんぞ」
「先生、逃げられないように引き渡して下さいよ」
普段、自分たちも世話になっている後宮の医官の言葉は強い。
そう言い残して警備所の宦官たちは戻って行った。
診療所奥の寝台に寝かされた老いた密偵の体を調べた医官は呟いた。
「拷問を受けたな。体中に酷い傷がある」
紫羽は医官に、手伝いますと言って手当を手伝った。
これは去るに去れない状況だった。
診療所に診てもらいに来る者がいて、医官が診察に出て行った後も付き添っていた。
やがて密偵の意識が戻る。
二人は目を見合わせた。
「あのあとも生きていたのね、良かった。刺客たちは五人とも死んだわ。自分で自分を刺したり、喉を掻き切ったりしたのよ」
密偵は体中の痛みに耐えて口を開く。
「俺もやつらも、あの呪術師の術に掛かっていたようだ。任務が失敗しようと、うまくいこうとどちらにしても自死するようにな。あの男に捕まってそれが判った」
「じゃ、あなたはどうして掛からなかったの?」
「俺は十年倭国にいた。倭国の言葉を使い続けていたから術が薄れて効かなかったのやも知れぬ。白焔の術も大したことはない」
「白焔? やはりあの人は呪術師なのね。あなたが急に壁に頭をぶつけ出したから、これは術に掛かったんだなと思った」
「唐に戻るのではなかった。だがなぁ、故郷は恋しいものだ」
二人はそれきり黙った。そして同時に口を開いた。
「どうして私を救ったの?」
「どうして俺を救った?」
二人は同じ質問だと気付いて口をつぐむ。先に密偵が言った。
「俺は正直に、雀王の孫は男だと伝えた。それに違いあるまい?」
「そうね、確かに。さっき、女として育っていたと言わないでくれて助かったわ」
密偵は吐き出すように言った。
「あんな男の為に十年も他国にいた。俺を殺すつもりの奴に余計なことは言わぬ」
「ありがとう、馬屋番の爺」
「馬屋番の爺か。懐かしいな」
密偵はその目を泳がせた。
「あんたが五つの時から見てきた。……情が湧いたか。ふっ、俺も年をとったものだ」
〇
権大納言邸。
馬屋番の爺が引く白馬に乗って、はしゃいでいる紫羽の満面の笑顔。
馬の手綱を引く密偵の爺が見上げて、思わず笑みを浮かべる。
〇
「初めて馬に乗って、誠に嬉しそうな顔をしておったわ」
紫羽はそんな老いた密偵がひどく寂しそうに見えて、思わず言った。
「ね、逃げなさい。医官様には私がうまく言っておくから」
「……」
「ちゃんと生きていって。今度は捕まらないように死ぬまで生きるのよ」
紫羽のその言い方が可笑しくて、密偵はふっと笑った。
「死ぬまで生きろ、か」
紫羽は懐から小さな袋を出して差し出した。
「私が初めて頂いたお給金よ。少ないけど何かの足しにして」
受け取ろうとしない密偵の懐に、紫羽は給金が入った袋をねじ込んだ。
「すまぬ」
そう言って、密偵は痛む体を何とか起こした。
「姫さんも生きて、無事に父と母のところへ帰れ」
密偵は診療所奥の窓を開けた。
そこへ医官がこちらに来る足音を聞いた紫羽は、ばたんと床に倒れた。
入って来た医官は驚いて倒れている紫羽に駆け寄る。
「しまった! あの男にやられたな。宮女を一人置いて出るんじゃなかった。しっかりしろ!」
医官は紫羽を抱き起して呼びかけた。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ」
紫羽は医官の腕の中から片目を薄く開けて、窓の外に飛び降りる密偵の老いた背中を見送った。
その夜、薬草園で翔と会った。
「と、言う訳で、一時はどうなることかと思ったわ」
「馬屋番の爺って奴が戻って来ていたなんて、危なかったな」
「でもね、刺客たちが自死するのをこの目で見ていたから、生き残っていてくれて良かったと思って。それに白焔から助けてくれたし」
「白焔は劉宰相に雇われている呪術師だ。自分では皇帝の呪術師とか言っているらしいが、劉宰相の犬だ」
「私が皇帝に掛けた術のことを知っていたのよ。女が蛇になったと皇帝が喚いているのを聞いたって」
「まずい。目をつけられたか」
「そうね。でも私なら何とかなる。雀王の孫だもの」
「俺も紫羽を守るから。守ってみせる!」
翔は気持ちが高ぶって、薬草園の茂みに隠しておいた刀を取って素振りをした。
そうして二人は別れ、薬草園から戻って来た紫羽そっと宮女の寝所の中に入ろうとしたその時、後ろからいきなり首筋に一撃を受けて昏倒した。
その翌朝、太皇太后の宮に宦官翔が物品庫から夜具の代わりを持って来ていた。
「太皇太后様の寝所の品をお持ち致しました」
さり気なく宮女たちを見回して、紫羽がいないことに気付く。
誰に聞くこともままならず、いつまでも止どまることもならず、翔は不安なまま外に出た。
「どうしたんだろう、いないって……」と思わず声が出た。
「ねえ」
と、声がかかる。振り向くと星羅が追って来ていた。
「司音がいなくなったの。今朝から姿を見ていないのよ。あなた、司音の身元引受人なんでしょう? 知らない?」
翔はぞっとした。
「昨夜からいないって、どうして!」
星羅は、生来のおっとりした様子で首を傾げた。
「あなたが知らないということは、何かあったということかしらね」
昨夜、紫羽の話を聞いて危険を感じてはいたが、その帰りにいなくなったということは。
(誰だ、誰が紫羽を……)
翔は喉が詰まって声が出ないほどの衝撃に、口を開けたまま愕然と立ちすくんだ。