6.蜂蜜の思い出
第六話
表に出てきた紫羽は空に向かって大きく伸びをした。
「ああ、あ。やれやれ」
明るい陽ざしの中、すっくと立っている紫羽は美しかった。
その紫羽に駆け寄ってきたのは星羅だった。
「良かった、無事で」
「え、心配してくれたの?」
「うん。中に入れないからここで待ってた」
「ありがとう。中は凄いことになっていたわ。あの人が皇帝だなんてね」
「綺麗な人は生贄にされるのよ。差し出した人は大監からお金を貰えるみたい」
「何なの、それ」
「傀儡の皇帝を大人しくさせておく為に、何でもやるのがあの男、あ、いけない」
星羅はそこまで言って慌てて口を塞いだ。
「かいらい、って皇帝が誰かにあやつられているってこと?」
星羅は答えず紫羽の手を掴んだ。
「早く行きましょう」
「ええ」
紫羽は今起こった不愉快なことから逃げられ、星羅は紫羽が無事で良かったという安心感で、二人は手をつないで早足になり、小走りになり、そして勢いよく走り出した。走りながら二人はくすくすと笑い、朝の光を浴びてついに声を上げて笑いなが走った。
その頃、外廷の大極殿では朝議のさ中だった。
朝堂で大臣以下、位のある廷臣たちが立ち並んでいる。
正面中央の皇帝席は無人で、そのすぐ横下の席に劉宰相が積み上げられた泰状に目を通して「却下」「保留」「許可する」を繰り返している。
一段下には廷臣たちが両脇に立っているのだが、皆不快そうに目をそらしたり小声で何やら話したりしている。そんな中、劉宰相が立ち上がった。
「本日はこれまで」
言うなり劉宰相は立ち並ぶ廷臣たちの真ん中を堂々と歩いて出て行った。
不満のざわめきが朝堂に広がる。
「陛下をないがしろにして、何もかも自分の思い通りに事を進めるなど許されることではない」
「いつまでこれが続くのか」
が、中の一人があきらめたように首を振る。
「だが盾突けばどうなる。これまで何人闇に葬られ、何人でっち上げられた罪で流刑になったことか」
文句を垂れつつ、羊の群れのように廷臣たちはぞろぞろと朝堂を出て行く。
その劉宰相は外廷にある中書省長官室に戻って来て椅子に座った。
どこからか、ちりんと音が聞こえる。
「何だ」
無人の執務室で劉宰相は聞いた。
声が報告する。
「太皇太后の宮の新しい宮女を見て、太皇太后がリーファと呼んだとの報告が」
「近頃は口もきけぬほどボケているのではなかったか。寝小便までしているのだろう? 調べろ。どんな些細なことでも見逃すな」
「御意」
声はそれきり消えた。
部下が入って来て礼をとった。
「陛下のほうはどうだ」
「相も変らぬ日々をお過ごしです」
「しかと見張れ」
「はっ」と、部下は一礼して出て行った。
「皇帝など酒と女に溺れておれば良いのであろう?」
そこへ黒マント姿の白焔が、しわがれた声で言いながら姿を現した。
「三つのガキを皇帝にしてやったのは私だ」
白焔が皮肉を含んで言った。
「しかもその母親の妃は身分が低く、後ろ盾もない。誠に都合が良い」
そして更に、さり気なく煽る。
「だが、血書がみつかればどうなるのやら。しかしまあ、先の皇帝が血書を残したとは噂に過ぎぬ。気にする事もあるまいよ」
「例え些細な疑惑であっても、根こそぎ刈り取らずにおくものか」
「宰相の一番の弱みが噂とは、ままならぬものだ」
白焔は薄い笑い声をあげた。
「権力という蜜を舐め続けるには足掻くしかないかの」
劉宰相はむっとして鋭く言い放った。
「白焔、お前の立場は私次第だという事を忘れるな。宮廷の呪術師でいたければな!」
白焔は突然話を変えた。
「太皇太后の宮に来た新しい宮女は知恵が回るようだ」
「どういう意味だ?」
「何をしたものやら、あの皇帝からうまく逃げた」
「何をしたというのだ」
「さあな?」
「探れ」
「それは俺の仕事ではない」
白焔は音もたてずに去った。
「気色が悪い男だ」
劉宰相は眉をしかめた。
その頃、翔は文書庫に忍び込んでいた。
五十年ほどの後宮の人事記録から、太皇太后が皇后だった頃の記録簿を探し出す。
(香淳皇后が見覚えがあるとすれば、おそらく身近にいた宮女だ)
翔は宮女の出仕退去の記録を指でたどっていく。その手が止まった。
「あった! リーファ、見つけたッ」
その時、遠くに見える文書庫の扉が開き、床に線上に光が差し込んだ。
翔はその頁をそっと破り取り、持っていた手燭を吹き消して、ぎっしりと並んでいる文書棚の奥に隠れた。
誰かが持つ手燭の明かりが近づいて来る。翔は巧みに書棚から書棚へと身を隠しながら入口へと向かう。
記録文書を取り出して開き始めた音が聞こえる。その誰かが文書に気を取られている間に、翔は床すれすれに腰を落として滑るように外に出た。
「まさか同じ探し物か?」
翔は足早に歩きながら、まずいと不安を浮かべた。
その夜、紫羽は薬草園で翔から破られた記録文書を見せられた。
「リーファって、太皇太后様が皇后だった時に仕えていた宮女だったのね?」
「それから数年経ったここを見て。リーファは宮廷の呪術師雀王と婚姻の為、退出とある。つまり、これってさ」
息を飲んだ紫羽は震えるような声を出した。
「リーファは、私の祖母だってことね」
「そうなる。きっと似ているんだよ、紫羽は。だから太皇太后様は思わず声に出された」
「おばあ様に私が似ていたなんて……」
紫羽は記録文の切れ端をぎゅっと抱いた。
「何て不思議な巡り合わせかしら。太皇太后様のおかげでおばあ様のことが判ったなんて」
紫羽は、後宮に来てまず初めに、祖母を探し当てたことに胸を熱くした。
その同じ夜。外廷の中書省長官室で劉宰相はまだ仕事をしていた。
各部署に通達する文書に、皇帝の玉璽(ぎょくじ。印鑑)を次々と押していく。
皇帝の印を我が物にしている劉宰相は、その己の力に大いに満足してじっくりと玉璽を
眺めて顔を緩めた。
「この玉璽があれば皇帝などいらぬ。これからも私の力は尽きることなく続いていく」
劉宰相は満足げにまた玉璽を押し始める。
その時、ちりんと音がした。
「何だ」
どこからか声だけが聞こえる。
「文書庫にあった太皇太后の、皇后時代の記録が一部抜かれております」
「誰がやった? 何のために」
「それがまだ……」
「誰かが同じことを考えたのだろう。必ず見つけ出して始末しろ!」
「御意」
劉宰相はハッと気付いた。
「もしや、これが血書と何か関係があるのか?」
劉宰相は荒々しく怒鳴りちらした。
「不穏な動きがあるなら突きとめて潰してやる! 必ず潰す。一匹残らず始末してやる!」
劉宰相は怒りに任せて机の上のものを薙ぎ払った。
その長官室のドア前に影のように立っている者がいた。黒いマントの白焔である。
白煙は劉宰相の苛つきを揶揄して低く笑った。
「愚かな。一度蜜を舐めれば疑心暗鬼から逃れられぬ。それが人というものだ」
白焔は歩き出す。が、気になることを思い返した。
「なぜこうも気になる? 何か匂う、あの女……」
白焔は呟きながら廊下の闇の中に消えた。
それから三十日余は何事もなく、紫羽は太皇太后の宮で仕えていた。
「司音、太皇太后様が苦いといって薬を捨ててしまわれるのよ。あなた、もう一度煎じてお持ちしてちょうだい」
床拭きの布を手に宮女の一人が言い置いて走って行った。
「はい」
紫羽は水屋に行き、土鍋で薬を煎じ始める。
「苦いといってお飲みにならない。……そうよね」
紫羽は呟きながら頷いた。
煎じた薬を薬椀に入れて、紫羽は太皇太后の寝所に入った。
太皇太后の寝台の下は、投げつけられて飛び散った薬で濡れている。
星羅と係りの宮女がその床を拭いていたが、又投げられるのを用心して後ろに下がった。
紫羽は軽く膝を曲げて挨拶をしてから、薬椀からひと匙すくって太皇太后の口元へもっていった。
「太皇太后様、お薬をお飲み下さいませ」
太皇太后はそっぽを向いて、その手を振り払おうとした。
それをうまく除けて紫羽は言う。
「太皇太后様、私が苦いお薬におまじないをかけましたから、ちょっとだけ試しにお飲み下さいませんか?」
太皇太后は虚ろな目で紫羽を見て、口を開けた。
その口にひと匙、紫羽は薬液を流し込む。
太皇太后はごくんと飲み込むと、再び口を開けた。
そうやって紫羽はひと匙ずつ続け、薬椀は空になった。
「太皇太后様、お上手にお飲みになりましたね。ありがとうございます」
そう言って、紫羽は水屋に下がった。
後を追ってきた星羅と係りの宮女は紫羽を取り囲む。
「どうしてあなたがやったら飲んで下さったの?」
「おまじないって、なに?」
星羅が興味津々で聞いた。
「おまじないは、これ」
紫羽は蜂蜜の壺を掲げてみせた。
「蜂蜜かぁ」と、星羅は納得する。
「ちょっと思い出したことがあってね」
〇
権大納言は、口を固く結んで北の方が差し出す薬を拒んでいる。
「殿様、さあ、お飲みください」
「乳母が持ってきたのは口が曲がるほど苦かったぞ。飲まぬ!」
「ですから新たに私がおまじないを掛けたものを持ってきたのです。私のおまじないは効くとご存じですよね?」
北の方が夫の口にひと匙薬を流し込むや、権大納言はごくんと飲み込んで薬椀を取って自分で飲み干した。
「はい、ご褒美です」
北の方は夫の口に、甘ずらの甘味から作った飴をポイと入れた。
「さすが我が妻である」
権大納言は舌で飴を転がしながら満足げに言った。
立派な官僚である権大納言は、北の方の前ではこんな一面も見せるのだ。
そんな様を紫羽は見ていた。蜂蜜の思い出――。
〇
「なるほどね」
星羅たちは微笑ましくその話を聞いた。
「私たち、太皇太后さまが何もお判りにならないからって、気遣いを忘れてはいけないわね」
星羅と宮女は反省して頷き合う。
「私は洛陽の商人の娘だけれど、店を仕切っている父より一枚上手の母のこと、ちょっと自慢なのよね」
紫羽は父と母が懐かしく、遠い目で庭の樹々を見つめた。