5.いざ後宮へ
第五話
皇城の中の後宮の西門、そこから後宮へ持ち込む食材や注文した品々が運び込まれ、働く者たちが出入りに使う門であった。
無論、二人立っている門衛に、鑑札を差し出して許可がなくては出入りは出来ないことになっている。
その門の内側に宦官姿の翔が目立たぬようにひっそりと立っていた。
やがてそこへやって来た者を見て、一瞬目を見開いた。
宮女の衣に身を包み、髪も唐風に結い上げた紫羽だ。
(なんて美しい……)
翔は鑑札を門衛に見せて、説明する。
「太皇太后様の宮に勤めることになったその者を迎えに参りました」
門衛は太皇太后の宮の印である鑑札を見て、黙ったまま通れと首を振った。
紫羽は優雅に膝を曲げて門衛に唐風の挨拶をし、門内に入って迎えの翔にも同じく挨拶をした。
二人で歩き出してから、紫羽は翔に片目をつぶってみせた。
「手紙とこの衣を送ってくれてありがとう。どう、似合ってる?」
「まあ、さまにはなってるな」
翔は美しいと思ったことを誤魔化した。
「太皇太后の宮で宮女が一人嫁いで欠員が出たと聞いたから、手を回したんだ。案外早く入り込めて良かったよ」
「それも一番狙い目だった宮に行けるなんて幸先がいいわ」
「後宮にはあらゆる所に目と耳があると思っていろ。自分を守れるのは自分だ」
「判った。敵ばかりで味方なんかいないと思っていればいいんでしょう?」
「それから俺たちが会う時は、後宮の南奥にある薬草園がいい。人が来ることはあまりないからそこにしよう」
「はい。私なら新参者で迷子になったと言えるしね」
「名前、考えてきたか?」
「司音はどうかしら。橘のお爺様の漢籍を読み漁っていたら、この女子の名が出てきて、気に入ったわ」
「それでいい」
話がついた頃、二人は太皇太后の宮に着いた。
「その者が新しい宮女か?」
お目見えの前に宮女頭の玉蓮が検分する。
「はい。洛陽の商人の娘で、行儀見習いにとふた親に頼まれました。名は司音と」
翔の言葉に紫羽は黙って丁寧な会釈をした。
「そうか、心してお仕えせよ」
「よろしくお願い申し上げます」
紫羽はしおらしく挨拶をする。
いよいよ太皇太后の前に出た。
香純太皇太后は六十才は超えていると思われた。先々皇帝の正妻であり、亡くなった先皇帝の実母だ。
紫羽は、その御前に座り、手をついて深く一礼した。
「本日よりお傍仕えをさせて頂きます司音と申します。一心に励みますのでよろしくお願い申し上げます」
答えはひと言も返ってこない。しばらく顔を伏せていた紫羽はそっと顔をあげて太皇太后を見た。その時二人の視線が合った。
その瞬間、太皇太后の目に一瞬、光が宿ったかに見えた。
「リーファ」
「は?」
太皇太后の目から光はすでに消えて、虚ろで定まらない目線を紫羽に向けていた。
並んでいる宮女たちはささやき合う。
「お声を出されるなんて珍しいわね」
「リーファってなに?」
「さあ?」
宮女頭の玉蓮が重々しい声で言う。
「お目見えは済んだ。司音、下がれ」
紫羽は、はいと答えて下がった。
宮女たちは一人では歩けない様子の太皇太后を二人がかりで抱えて奥に去っていく。
勝手が判らない場所で、何をするのかも判らず紫羽が歩いて行くと、湯が沸いていて、茶器などが置いてある所に出た。
外から下働きらしい衣を着た下女が、大きな水桶をよろよろと抱えて来るのが見えた。
井戸はここの外にあるのだと気づいた紫羽は、重い水桶を頑張って抱えてくる下女を手伝ってやるつもりで外に出た。
「どれ、貸してごらん」
と、声がしてずいぶんと体格が良い宮女が、下女の持つ水桶を持ってやっていた。
恐縮する下女を背に軽々と水桶を持って入って来る宮女を見て、紫羽は室内にある大きな水樽を見つけて、その蓋を取って待った。
「ありがとう。新しく入った人?」
体格の良いその宮女は、樽に水を勢いよく入れながら聞いた。
「はい。司音といいます。よろしく」
「私は星羅。よろしく」
その時、宮女たちから声がかかった。
「ちょっと新入りのあなた、私たちは水運びなんてしなくていいんだからね」
「力があるのだけが取り柄の人にやらせておけばいいのよ」
「ほんと、何をやらせても愚図でお茶ひとつ煎れられないんだから」
紫羽は良い気持ちはしなかったが、曖昧に唇だけで笑って言い返すのを止めた。
(ここで悪目立ちしては駄目よね)
太皇太后の食事、寝台の整え、着替えと働いている宮女たちの中で何とか働いていた紫羽は、ひと言も口を開かず、表情のない顔でされるがままになっている太皇太后の様子が普通でないことに気付く。
(いくらお年を召していても何か変だわ)
が、変ですね、などと聞くことも出来ず、一日は終わった。
そして宮女たちの寝所部屋に連れて行かれてもっと驚く事態に気付いた。
宮女頭以外の者は、板の間に各自の夜具を敷いて全員並んで寝るのだと判ったからだ。以前の紫羽と違い男だと知った今、躊躇するものがあった。
(私が宮女たちと一緒に寝ていいのかなぁ。まずくない?)
これは自分でも意外な感情だった。
男だという自覚もまだないのに、怯んだ気持ちは何なんだ? そう思った。
新参者が入口に近い寝場所を与えられたことは幸いだった。抜け出すのに苦労しなくて済む。
紫羽は居心地悪く横たわり、皆が寝静まるのを待った。翔と会う約束がある。
そして皆が寝静まった頃、紫羽はそっと寝所を抜け出した。
薬草園のある場所は南側の奥だ。見当をつけて歩き出した時、声がかかった。
「眠れないの?」
(ひぇー)
振り向くと昼間会った体格の良い宮女、星羅が立っていた。
「眠らないとここでは体がもたないわよ」と星羅が言う。
(駄目だ。戻らないと怪しまれる)
「初めての寝床は慣れなくて。でも風に当たって落ち着いたから戻りますね」
「すぐに慣れるわ。私もそうだった」
「ですよね」
紫羽は星羅と一緒に寝所に戻った。
その二人の様子を物陰で見ていた人影があった。二人が戻るのを見届けるや身をひるがえして闇に消えた。
「おやすみ」
星羅はそう言うと、紫羽の隣りの布団に潜りこむ。
(えっ、隣り?)
紫羽はひそかにふっと溜息をつく。
翌朝のこと。
太皇太后の宮に、宦官・翔が新しい絹の敷布団をうやうやしく持って現れる。
「物品庫より太皇太后様の寝所の品をお持ち致しましたので、お受け取りを」
「いつもご苦労様」
一人の宮女が精悍な翔に好意を見せて近付き、布団を受け取った。
下がって行きながら翔は、誰にも気づかれないように紫羽の前に鑑札を落とした。
紫羽は即座にそれを拾って、「あの、落とされましたよ」と皆に聞こえるように言いながら鑑札も皆に見えるように掲げながら翔を追った。
追いついた紫羽は鑑札を渡しながら、小声で知らせた。
「太皇太后様が私を見てリーファとおっしゃったの。リーファってなにかしら? 他の人たちもなに?って顔をしてらしたけど。それと、こんなこと言っていいのか判らないんだけど、太皇太后様ってご病気か何か?」
「年をとられたせいか、子を亡くされた悲しみのせいか、頭がはっきりなさっておられないんだ。近頃はお漏らしまでなさるようになった。お声を発することもないと聞いている。そんな方が紫羽を見て、リーファって?」
「それじゃ意味がある言葉なのかどうかも判らないわね」
翔は考え込む。そして顔をあげた。
「誰かの名前とか? 西域の女の人はそんな名前の人が多いよ。考えてみる。君はもう戻って」
戻ってきた紫羽を待ち構えていたように玉蓮が錦の布に包んだ物を押し付けた。
「皇帝陛下にこれをお届けして。太皇太后様よりの品だとお渡しするのよ。皇帝付きの大監がすべて心得ているから」
「はい」
「内廷の私室においでだから外廷に出る鑑札もいらない。早く行きなさい」
急かされて紫羽は人に道を尋ね、尋ねしながら向かった。
すると待っていたかのように、宦官の上位である大監が皇帝の私室に紫羽を押し込み、扉を閉めた。
紫羽は室内を見て、呆気にとられて立ちすくんでしまう。
まだ三十代だと聞いた現皇帝は泥酔し、同じく酔って騒いでいる女たちに囲まれていた。
皇帝の体はむくんでいるのか肥満か、とにかく尋常な姿ではなかった。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます。太皇太后様よりお届け物をお持ち致しました」
紫羽は錦の包みを差し出して置き、異様なこの場から逃げ出そうと立ち上がった。
「まて、太皇太后の宮の新参者とはそちのことか?」
「はい。では失礼致します」
踵を返して背を向けた紫羽の耳に酒臭い息がかかる。
「大監が太皇太后より贈り物があると申していたのはそちのことだな。なるほど美形である」
私が贈り物? 紫羽は直感して内心で愚痴った。
(あの状態の太皇太后様がこんなことをするはずはないし。もしかしてあの宮女頭と大監が示し合わせた? ふざけてるわね、まったく)
その時、紫羽の体が浮いた。抱き上げられたのだ。
「気に入った。余の伽をせよ」
「冗談はやめて欲しいんだけど」と、つい紫羽は呟いてしまった。
皇帝は寝乱れた寝台に紫羽を運んでいく。周りの女たちは泥酔してそれを見ている者もいない。
「陛下、お仕事をなさいませ。陛下には国と民の為のお仕事がおありでしょう」
「余のすることなど何もない。劉宰相が仕切っておるわ」
朝から酔っている皇帝に驚いた。しかしどうしてこんな事になっているのだろうか。
(仕方ない、逃げるか)
紫羽は皇帝の耳元にささやいた。
「陛下、陛下が抱えていらっしゃるのは白い蛇ですよ。大きくて長い白蛇。ほら、白蛇がちろちろと赤い舌を出して。ほら、ほら蛇が陛下に巻き付いていますわ」
皇帝は抱えている者を見た。太く長い白蛇が赤い舌を出して巻き付いていた。
「ぎゃーっ」
皇帝は悲鳴をあげて蛇を放り出し、紫羽は床に落ちて顔をしかめた。
その皇帝の悲鳴に飛び込んで来た大監は顔をしかめた。
「陛下の為にせっかく膳立てして差し上げたというのに、こんなにお酔いになるから」
(やっぱりそういうことね)
「それでは私はこれで」
紫羽は開いた扉から堂々と退出した。
皇帝の悲鳴に部屋を見に来た男がいた。すれ違った紫羽を振り返る。
皇帝の喚く声が聞こえている。
「蛇だ、女が蛇に変わった! 舌をちろちろと。あれは蛇だ!」
慰める大監の声も聞こえた。
「陛下、御酒のせいで幻をごらんになったのでしょう。蛇などどこにもおりません」
「女が蛇に変わっただと? あの女、術でも使ったのか? いや、まさかな、女に術など使えるはずもない」
黒いマントで覆われて顔の下半分しか見えないが、七十とも八十とも見える不気味なこの男の名は白焔。皇城にいる呪術師であった。
表に出てきた紫羽は空に向かって大きく伸びをした。
「ああ、あ。やれやれ」
明るい陽ざしの中、すっくと立っている紫羽は美しかった。