2.天の力
第二話
「天の呪術を受け取るのは雀王直系の男子のみ。姫さんの呪で馬が飛んだ。ゆえに紫羽姫、あんたは男だ」
紫羽はあまりにも唐突すぎる言い分に唖然として男を見た。
「呪ってなに?」
叔も恐怖に慄いていたが、騒ぎ立て家人に気付かれぬように声を低めた。
「唐の密偵だったか、馬屋番」
「唐? この爺が密偵?」
紫羽はこの成り行きが飲み込めずにぽかんと叔と男を見た。
「生かしては返さぬ」
叔は懐剣を握りしめて男に突進した。
が、男はあっさりとそれを躱して懐剣を奪い、はっしと投げ返す。
懐剣は叔の袂を貫通し御簾に刺さって叔の動きを封じた。
「何をする! 狼藉は許さぬ!」
紫羽は叔に駆け寄って身に傷がないことを確認しつつ庇った。
馬屋番の男は変わらず落ち着いて独りごちた。
「来る道はあったが帰る道はない。乳母よ、お前も同じだな」
「な……」
叔が一瞬ひるんだ時、男は老人とは思えない跳力で庭に飛び降り姿を消した。
叔は袂が御簾と繋がれたまま、腰が砕けて膝をついた。
困惑しきった紫羽は、叔の袂から懐剣を引き抜きながら問わずにはいられない。
「あの者、私のことを男だと言っていたけど、どうしてそんな馬鹿なことを言ったのかしら?」
叔の頭は真っ白になっていて、答える言葉さえ失ってただ蒼白な顔で俯くばかり。
「それに叔はなぜ唐の者だと判ったの?」
紫羽はすのこに出て、闇が少しずつ薄くなっていく空を見つめて考えた。
(私が男だなどと訳もなく言うはずはない……何かあるのね、私の知らない何かが……)
権大納言邸内にある、池の上に張り出した板張りの釣り殿。そこは魚釣りをしたり、あるいは舟遊びや月や花を愛でて楽しむ為の場所として使われている。
「男子か女子か、どちらが本当の私ですか?」
家人の耳目を避けて紫羽と北の方、叔の三人が思いつめた顔をして座っている中、紫羽がズバリと聞いた。
北の方と叔がその直截な聞かれ方に動揺して、一瞬視線を泳がせる。
「雀王とはどなたですか。天の術とは何でございましょう。それと、私が呪を使って馬を飛ばしたとはいかなる戯言でしょうか」
紫羽は疑問を次々とぶつけた。
「唐の密偵とやらが屋敷に入り込んでいた目的、それが何の為かお判りなのでございましょう?」
紫羽は立て続けに質問を重ねた。
覚悟を決めてここに来た北の方はその美しい青い瞳を紫羽に向けてきっぱりと言った。
「長い話です。聞く方も答える方も腹を据えておかねばなりません。落ち着きなさい、紫羽」
紫羽も北の方の目を受け止めて頷いた。
「まず、雀王とは私の父です。唐国二代の皇帝に仕えた呪術師でした。ですが一族は皆、殺されました」
「えっ」
「生き残ったのはただ一人。この私です。叔が赤子だった私を抱いて倭国に逃れて来たのです」
「なぜ、なぜそのようなことに」
紫羽は思わず膝を進めて母の膝に手を置いた。
「判りません。雀王に生きていて欲しくない者がいたのでしょう」
「その経緯は私がお話致します」
叔も覚悟を決めていて、静かに口を開いた。
その経緯とはこういうことだった。
〇
唐の港に朱塗りの遣唐使船が四隻、帆が上げられ風をはらんでいた。
倭国の遣唐使、橘博政が今帰国への船出の間際だった。
雀王は赤子とその赤子を抱いた少女を橘博政に託した。
「女子は力を継ぎませぬ。せめて娘、麗華だけは生かしてやりたい。願いを聞きいれて下さったこの深い御恩は来世で必ずやお返しいたします」
深く感謝して頭を下げる雀王に博政はその手を取った。
「雀王殿、皇帝の不慮の死がなぜ謀反となるのです。皇帝に仕えていた宦官、武官、侍医まで処刑されたり捕らわれの身になっていると聞きました。きっと裏に何かある。あなたには持てる力がある。むざむざ殺されることはない。生きて下さい」
雀王は疲れた笑みを浮かべた。
「授かった力は天にお返しするつもりです」
博政は雀王の手を握りしめる。
「死ぬおつもりか」
「橘様とお話するのは、いつも楽しゅうございましたなぁ」
博政は切ない思いで返した。
「私もあなたと友になれて幸せでした。倭国で私の娘、麗華と共にあなたとの日々を思うことでしょう」
雀王は笑みを浮かべて博政の手を握り返した。
「どうか末長くお達者で」
それから雀王は赤子の麗華を抱いたまだ十三才の叔の背に荷を結わえ付けた。
「これは一族の守護仏、孔雀明王図と秘宝の月琴だ。これらがお前たちを守ってくれる。頼んだぞ、叔。息災に暮らせ」
「はい」
雀王はその叔の耳に秘事を伝えた。
「いつの日か一族の直系である麗華が男子を産めば、その子は一族の長子だけが天から授かる力を継ぐ。だが力を継ぐ者がこの世にあると知れれば子の命が危ない。よくよく心しておくのだ」
「必ずお守り致します」
胸に赤子を、背に秘宝を括りつけた叔はがくがくと震えながらも気丈に答えた。
遣唐使船が帆に風をはらんで港を出ていく。
雀王は港に立ってそれを見送った。
「つつがなく生きよ、麗華。お頼み申す、橘様」
雀王は博政が乗る遣唐使船に向かって手を重ね、深く頭を下げた。
〇
話し終えた叔も麗華も過ごしてきた歳月の重さに涙を拭った。
「紫羽、私は父上が危惧しておられた男子を生んだのです」
それが自分なのだと紫羽は理解した。そのことが今回の事件の要因なのだとも判った。
「お生まれになった紫羽様のお命を守ること、それが雀王様から賜った私の使命でございました。例え赤子の性別を違えてでも」
紫羽に戸惑いはあるが、自分を守る為に母と叔がしたことを非難する気持ちにはならなかった。
叔はほろほろと涙をこぼして悔しく嘆いた。
「姫様のお身の回りのことはすべて、私以外の者には触れさせず隠し通してきたものを。あの時、馬にさえお乗せしなければ……」
紫羽は泣く叔を励まそうと茶々を入れた。
「叔ったら。泣きたいのは私なんだけど」
「はい、はい。さようでございました」
叔は涙を袖でぐいっと拭う。
「叔、お爺様は本当に私が天の力とやらを継ぐとおっしゃったの?」
「誠でございます」
「だって私って普通よ」
「普通ではございません。馬を飛ばされました」
「叔が普通に普通にと言い続けてきたから私はすっかり普通だもの。皆の見間違えよ」
「姫様の言葉で馬が飛んだのを私もこの目で見たのです。それこそが呪術という力でございましょう」
その時だった。
池の水面がブクブクと泡立つや、黒装束の男が水面に顔を出した。その数五人。そして一斉に飛び上がり釣り殿に飛び上がってきた。男達は手の刀を抜きはらって切っ先を紫羽に向けた。
驚きのあまり声もない北の方と叔を守ろうと、紫羽は二人の前に立ちはだかった。
「権大納言の邸と知っての狼藉か!」
覆面の男達は無言のまま、ジリッと紫羽との間を詰める。五つの切っ先が紫羽を狙う。
「狙いは私であろう?二人に手出しは無用じゃ!」
北の方は夢中で紫羽の前に飛び出して抱きしめた。五つの刀の切っ先が今にも母の背を刺し貫く、と見た瞬間、紫羽は叫んだ。
「刀が曲がるぞ、曲がる、曲がれ!」
北の方の背中越しに紫羽を貫こうとしていた賊たちは、うっと呻いた。
賊たちの手の刀は五つとも刃先がぐにゃりと丸まっていた。
それを見た紫羽自身も驚いた。
(なんなの、これって?)
体勢を整えた賊は刀を手放し、素手で紫羽の首を締め上げる。
「姫様!」
叔が懐剣を振るうが他の賊たちに阻まれて倒された。
首を絞められ足が地から離れた紫羽は苦しさ紛れに、もう一度言葉を放った。
「お前の体の力が抜ける、ほら、抜けた、立てぬ、立ってはいられぬ」
紫羽の首から賊の手が離れ、倒れこんだ。
「あらいやだ、またやっちゃった? 私」
しかしよく見ると倒れた男の背に矢が突き刺さっている。
他の賊たちの目線の先を見ると、邸の築地塀の上に弓に矢をつがえた検非違使達がずらりと立って賊たちに矢を向けていた。
北の方を矢よけにしようとした賊が一人、放たれた矢に倒れた。
「検非違使庁の夜警隊である。大人しく縛につけ!」
残り三人の賊は逃げ場がないことを知った。すると突然三人は一様に慌てふためいて自分の腹を刺し、首を切りして倒れていく。
紫羽はその奇妙な状況を見ながら、震えている北の方の肩を抱きしめた。
「殿様が宿直で、宮中にお泊りだったのが幸いだったかも知れません」
「父君はどこまでご存じなのですか?」
北の方と叔は気まずく目を伏せた。
「なるほどね」
知っていたら、紫羽を宮中に参内させることにあれほど躍起になるはずもない。
その夜遅く、紫羽は自室がある北の対屋の大屋根の上にいた。
ここはいい。天上には銀砂を撒いたような無数の星があり、その瞬きはそれぞれに同じではない。無数の星も個から成り立っている。
見上げていた紫羽は思った。
男であれ女であれ、自分も地上の一つの個だ。個ならあの星々のようにいろいろあってもいいのだろう、と。
天空の真北に北辰妙見菩薩星がひときわ輝きを放っている。妙見菩薩の妙見とは、物事を見通すことが出来るという意味だ。地上の一つの個として妙見となるべく努力しよう。
そう思ったがもう一つ判らないことがある。
「そもそも天の力ってなに? その力のせいで殺されそうになったのよね」
妙見にほど遠い紫羽は何だか腹が立ってきた。
「本人にも判らないことで命を狙われたなんて、ほんと冗談じゃないわ!」
馬を飛ばせたって? 賊の刃は自分の言葉で曲がった。賊に首を絞められた時、発した言葉は功をなさず、倒したのは検非違使の矢だった。
天の力、そんなものを継いだと言われたが、それはあやふやでしかないものだ。
そこで閃いた。
「そうね、だったら試してみたらいいのよ」
これが紫羽の紫羽たるところだ。
紫羽は両手を大きく広げた。そして声を発した。
「私は飛べる。この屋根から飛んで空を飛ぶわ。飛べる。きっと飛べる!」
紫羽は両手を開いたまま大屋根の端まで走り出した。
何だかとても愉快になって笑い声をあげる。そうして大屋根から一歩足を踏み出そうとしたその時、後ろから声がした。
「お前は馬鹿だろう」
紫羽は足を止めた。
「ん?」
「人の身が飛べるはずもなかろう」
紫羽が振り向いた後ろに目を見張るものがいた。
鳥。美しい色をまとった大きな鳥。
玉虫に光る淡い青の胴、緑、黒、橙、白、金に似た黄の飾り羽をゆらりと広げている様は息を飲むほど美しい。
孔雀だ。
「あ……」
紫羽はまじまじとその鳥を見つめた。