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1.姫君の秘密

天に叡智あり、人に心あり。




第一話


 平安京に差す陽ざしはうららかで、又いつも通りの普通な一日で、権大納言、藤原宣綱の一人娘、紫羽(しう)は退屈していた。

 一対の貝の片方が伏せて置いてあり、その中から手元と同じ絵柄の貝を見つける貝合わせという遊びに、家に仕える女房たちから誘われた。


「次は姫様の番ですわ」


「えーと、さきほど誰かが返したのがこれと同じだと思うのだけれど、どこだったかしら?」


 紫羽が手を迷わせているその時、部屋外の廊下から悲鳴が上がった。


「きゃあ、誰か来てぇ! 早く!」


「何事なの? 参りましょう!」


 邸内を守ることも仕事と心得ている女房達は素早く飛び出して行った。

 一人残った紫羽姫はそんな騒ぎなど気にも留めず、手を伸ばして迷うことなく伏せてある貝を返していく。


「ホイ、ホイ、ホイ、ホイっと」


 瞬く間に残り全部の貝を合わせてしまった。その貝を放り出すと大きな欠伸か出た。

 と、その時、下げてある御簾の内にチョロッと動くものを目の端で捕らえ、欠伸の口のままそれを見た。

 紫羽が簀子、すのこと呼ばれる廊下に出てみると女房達は蛇が、蛇が、と悲鳴交じりに喚きたてながらあちこちを覗き探し回るという騒動の最中だった。


「姫様、お部屋にお戻り下さい。蛇が紛れ込んだようですわ」


「嫌ですわ、あの姿形が気味悪くておぞ気だちますもの」


 騒ぎ立てる女房達に紫羽は同調して頷く。


「まあ、蛇だなんて怖いこと。咬まれたらどうしましょう」


 そのひと言に、また悲鳴が上がる。


「気を付けて探してね。ほんと怖いわねえ」


 紫羽は脅えた顔を見せて言った。

 が、後ろ手に隠した紫羽の指が、くねくねと動くヤモリの尻尾をがっちりと掴んでいることに誰も気付いてはいなかった。

 いや、一人だけ、この騒ぎに駆けつけてきた乳母の(しゅく)の目はそれを見逃しはしない。


「蛇ごときで騒ぐではない。皆、下がりなさい!」


 乳母殿の一喝で女房達は怖々とあたりを気にしながら下がって行く。それを見て、叔は紫羽の指からヤモリをもぎ取り庭に放り投げた。

 ヤモリは飛んで、丁度庭の端を馬草を運んで歩いていた馬屋番の男の足元にポトリと落ちた。

 白髪交じりのその男はすのこにいる二人を見て、ふいっとしゃがむと草をむしり始める。


「姫様にとって、貝合わせなど退屈しのぎにすらならず、蛇など玩具に等しいくらいは存じております。しかし人前であのような真似をなさってはいけません」


 叔の小言は続く。


「ヤモリの尻尾を手で掴むような真似をする姫君がどこにおりましょうか」


「う……ここに」


「普通の、愛らしい姫君であって頂きたいと何度も申し上げましたね」


 紫羽は頬を膨らませて言い返した。


「普通に、普通にって叔は言うから、ちゃんと蛇が怖いふりをしたでしょ。女房達は皆蛇を怖がっていたから合わせただけよ」


 それを遮って叔はきっぱりと言う。


「ヤモリを素手で掴んでおきながら、蛇が怖いなどと嘘くさいにもほどがあります! よろしいですか、ただでも姫様はそのお美しさや賢さで目立ってしまうのです。目立たぬように普通に、それが一番なのですよ」


「何が普通なの? そんなの知らない! ほんと普通、普通ってうるさいのだから。ヤモリくらいで何よ、もう!」


 紫羽は短袴の裾を蹴立てて踵を返した。

 叔はその背を見送りながら胸の内で呟いた。


(姫様、ご辛抱下さいませ。姫様の為なのです)


 叔も胸を痛めて戻って行く。

 庭の隅にしゃがんでいた馬屋番の男はむしっていた草を捨て、何事もなかったように横に置いた馬草を抱えて立ち上がった。

 少したってその馬屋番の男が美しい白馬を引いて庭を通って行く。

 その後ろから白馬を珍しがって使用人の男童達が、がやがやと騒ぎながら着いて歩いていた。


「騒がしい。静かにせぬか」


 廊下を通りかかった叔が叱る。


「殿様がお買いになったこの白馬が美しいと童たちが珍しがってこの騒ぎで。お騒がせ致し申し訳ないことでございます」


 詫びる馬屋番に叔は手で追い立てる。


「早う連れて去れ」


「はい」


 その時、紫羽の声がした。


「父君が買い求められた馬とはこれか?」


 いつの間にか部屋から出てきた紫羽が目を輝かせて立っていた。

 叔はまずいことになったとばかり顔をしかめて、一同を追い払おうと更に手を振った。


「姫様のお目障りだ。早う行け」


「馬屋番の爺、その美しい白馬に乗ってみたい。良いか?」


 馬屋番は困って叔を見る。

 紫羽は駄目だと言われることを予測して、可愛らし気な笑顔で叔を見た。

 叔はその笑顔に弱い。


「もう、すぐそういうお顔をなさって」


「このお庭でちょっと乗って歩くだけよ。危ないことはないわ」


 叔には紫羽を普通の枠に嵌めようとしている負い目があった。叔はため息を吐いて頷き、言った。


「判りました。それでご気分が晴れるならどうぞ。ほんの少しだけでございますよ」


 紫羽は嬉々として馬屋番の手を借りて白馬に跨った。


「馬の背って高いのね。景色が違って見えるわ!」


「姫様、お気をつけて。よそ見をしては落ちますよ」


 ハラハラしている叔をよそに紫羽は初めての乗馬にもう有頂天になって上機嫌だ。その高揚した上機嫌のまま馬の耳に口を寄せて言ってみた。


「お前は天馬のように美しい、天翔ける白馬よ。お前は空を飛べるわ。飛べる。きっと飛べるわ」


 次の瞬間、馬に付いてきていた男童たちが一斉に驚きの声をあげて口々に叫びたてた。


「見ろ、馬が飛んだぞ!」


 馬屋番の男も馬の足元を覗き込む。

 男童たちは大興奮で騒ぎ立てた。


「飛んだ、飛んだ、見ろ、足が地から浮いてるぞ!」


「姫様ぁ、ほら、姫様が言ったら馬が飛びました。飛んでいます!」


「何を言っているの。お前たちも乗りたいのね」


 紫羽は笑いながら叔を見た。

 叔は目を見開き、顔色を失って固まっていた。


「何もそんなに怖がらなくても私なら大丈夫よ。落ちたりしないから」


 紫羽は機嫌よく叔に笑う。

 その頃、中央の寝殿の一室で権大納言の北の方、麗華が孔雀明王が描かれた掛け軸の前で一心に祈りを捧げていた。


「オン・マユラギ・ランティ・ソワカ・オン・マユラギランティ・ソワカ……」


「失礼致します」という声と共に返事も待たずに叔が御簾の中へ飛び込んで来た。

 そして叔はへたへたと腰が砕けたように座り込む。


「北の方様、麗華様……」


 北の方は孔雀明王の真言を止めて振り返った。

 その北の方の瞳は薄く澄んだ青色で、その青が北の方の美しさを際立たせている。


「まあ、叔、その顔色、一体どうしたのです?」


 叔はまだ震えている拳を更に握りしめて気力を振り絞る。


「紫羽様が術を使われました」


「え?」と北の方はその意味を掴めずに首を傾げた。


「姫様ご本人は気付かれているご様子ではありせんが、馬にお前は天馬だ、飛べるとおっしゃると、馬が飛んだのです。見たのです。本当に飛びました」


 聞いた北の方の顔色が変わった。


「そんな……」


「あれは雀王様の力、いえ、天から授かった力の発露かと……」


 北の方は手をついて崩れかけた体を支える。


「叔……」


「麗華様……」


 二人は呆然と言葉を失った。

 その時、邸内に伴の者の知らせの声が響き渡った。


「殿様のお帰りでございます」


 二人はハッと顔を見合わせ出迎えに立ち上がる。

 権大納言藤原宣綱、正三位。夜明け前に大内裏に出仕して数々働き、午後の早い時間には退出、帰って来るという貴族官僚である。

 正装である幾重にも重ねた衣を一枚又一枚と脱ぎながら、権大納言はそれを手伝う北の方にいつも通りの事を聞いた。


「姫にあれはきたか?」


「いえ、いまだにきておりませぬ」


「まだか。なぜだ、遅い、遅い!」


 権大納言は不機嫌になって着替えをしながら癇癪を起した。


「中納言の姫は十二できたというぞ。うちの姫は十五になってもなぜこぬ。いつまで待たせるのだ!」


「申し訳ございません」


「そなたが詫びてどうなるものでもないわ!」


「申し訳ございません」


「申し訳ないと思うのなら何とかせい!」


 権大納言は子供のようにプンとして横を向いた。


「申し訳ございません」


 馬が飛んだという叔の一報にもう頭が真っ白になっている北の方は、他の言葉を忘れたかのように繰り返した。


「申し訳ございません」


 貴族にとって美しい娘は家の宝だ。大人の女になった娘を参内させ、主上の子、それも男子を産めば次期天子の外戚として権力を得られる。貴族たちはそれを期待しているのである。飛び切り美しい娘を持っている権大納言も然り。

 その夜更けのことだった。

 権大納言邸は、軒に下がっている釣り灯籠の明かりの他は闇の中に沈んでいた。

 北の対屋にある自室で眠っていた紫羽は胸苦しさに意識が覚めた。重い。どうしてこんなに重いの? と、そこで目が覚めた。

 誰かが体の上に乗っている。それも強く抱き締められている。

 声を上げようとした瞬間、片手で口を塞がれた。

 紫羽のうめき声が洩れる。

 紫羽は思い切り体を横に向けて倒し、口を塞いでいる者の体勢を崩した。上に乗っている者がたじろいだ隙に相手を見極める。

 相手は覆面をしていた。


「賊か!」


 賊は低く声を発した。


「抱いてみれば男か女かくらい判るものだと言うのは本当だな」


「何を言っている?」


 紫羽は意味が判らず眉根を寄せる。

 その時、常に紫羽の近くの寝所で眠っている叔が飛び込んできて、賊を見るや懐剣を抜き放った。


「何者だ、無礼は許さぬ!」


 覆面の者が存外落ち着いた声で言った。


「殺しはせぬ。探ることが俺の役目よ」


 その時、紫羽が一瞬の隙を狙って飛びかかり覆面を剝ぎ取る。

 男の顔が闇に透けて見えた。それは馬屋番の男だった。

 叔は歯ぎしりする思いでその顔を睨みつけた。


「お前は!」


「馬屋番の爺、何を探りにきたというのだ!」


 紫羽の詰問に馬屋番は目を細めた。


「すっかり騙されておったわ」


 その言葉に叔の体がびくりと震えて反応する。


「お前まさか、唐の者か」


 それに答えず馬屋番は薄く笑った。


「天の呪術を受け取るのは雀王直系の男子のみ。姫さんの(しゅ)で馬が飛んだ。ゆえに紫羽姫、あんたは男だ」


 紫羽はあまりにも唐突過ぎる言い分に唖然として男を見た。

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