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「待ってくれ」
扉を開けて飛び出した。灯りで明るくなった街を混乱のどよめきが満たしている。フェルミは既に長い道の曲がり角に差し掛かっていた。俺の声が聞こえたのかこちらを一瞥したが、そのまま歩いて行ってしまった。突き放されたように感じて、思わず駆け出した。
それほど距離はない。フェルミが走らなければすぐに追いつけるだろうと自分に言い聞かせて速度を緩めた。外の様子を見ようと路地に出てくる人を避けながら角を曲がると、フェルミが怪訝そうに立ち止まっているのと目が合った。
「……なんだ」
「俺も一緒に行く。休みをくれるんだろ?俺の自由にしていいはずだ。」
「あの女はどうした。放って出てきたんじゃないだろうな。」
フェルミは俺の後方に視線を配った。
「エルトアが居たから頼んで見てもらっている。彼女なら文句ないだろ」
俺の言葉を聞くなり予想通りだと言いたげにしばらく俺を睨みつけてからフェルミはわざとらしい、深いため息を付いた。
「貴様の甲斐性なしはよく知っているつもりでいたが、ここまでとは。流石にあり得ん。私が視界を捧げた意味はなんだ。お前にとってその程度のことか?だったら協力なぞしなければよかったな。」
「なんだ。先生でもしているつもりか?というか、お前……見えてない割には平気そうだな」
フェルミは正確にこちらをとらえている。昨日の午前中に顔を合わせた時よりも調子がよさそうだ。背負わなければならない事態の深刻さが少しやわらいだように思えて、許されたような邪な安堵が顔をのぞかせた。
「……魔法具だ。役に立つとは思ってはいなかったが、おかげで視界は却って前よりも良好。お前もどうだ」
とうなじを左手で押さえて含み笑いを見せた。
「背中のあれか?冗談よせ、俺ではゴミになるだけだ。ゴミを埋め込みたくはない。……それ本当に大丈夫か?汚染で何か悪いことになったりしなかったか?」
「まあ、声が聞こえ続けること以外に支障ねえな。幻聴はよくある。心配不要だ」
「……。」
口を開きかけたが、言葉が出なかった。本人がそういうのなら、それを信じるしかない。どうしても得体のしれない何かが友人を蝕んでいるような気がしてならなかった。エンデには悪いが、俺の中で魔法は依然としてよくわからない恐ろしいものであり続けている。
フェルミは俺の沈黙を笑うと、表情をやわらげた。
「魔力で周囲を検知しているらしいが、何もない空間があるんだ。なんだかわかるか」
「どうせ俺だろ。何度か言われたことがある」
俺の返答を聞いてつまらなさそうに鼻をならした。知っていたのが不服なのだろう。
「いつもと見え方が違うのは悪くない。貴様の顔が見えないのは惜しいがな」
フェルミが俺の頬を撫でて、こちらに背を向けて歩き始めた。追いかけて横に並ぶ。
「なんだ気持ち悪い、やめてくれ。……そんなことより。ローレンツ殿への疑いの意味を不承知ではあるまい。本気なのか?」
「ローレンツを執政官に推したゲールクリフへの疑いについてか?当然だ。」
フェルミの表情をうかがうのが怖かった。こいつは勘が当たらない代わりに推測の精度が高い。一連の疑いが勘に由来する早とちりであることを切に願った。
仮に魔法部門の最高執政官に何かしらの疑いがかかるとすれば、彼に協力しているゲールクリフや事態をあいまいのまま許した機関を疑わないのはむしろ不自然だ。彼に研究設備などを不当に提供したのはゲールで、成果が出てからその事実が公表され、罪は功績によって不問となってしまったらしいのだから。
もっとも、ローレンツ殿を疑わなければ済む話だ。だがどうにも、絶対に違うと否定できなかった。
俺はゲールクリフの、彼の直属の部下でありながら肝心なことからは遠ざけられてきた。振り返ってみると知らないことが多い。フェルミのほうが俺よりもずっと優秀で、必然的にフェルミのほうが仕事を任されることも多かった。
仮にこの事件にゲールクリフが関わっていたのだとして、俺は何も知らされなかったのだ。彼の途方もない裏切りの可能性に行き当たって、憤りよりも先に自分が彼のなんでもなかったかもしれないことに足が竦んだ。
……もし、何も知らされていないのが俺だけだったら。
視界の端に映るくすんだ金色の癖毛がどこか遠くに見えるように思えてならなかった。かぶりを振る。事前に何か知っていたのであれば、フェルミはもっとうまくやっている。
「お前は何か協力でも持ち掛けられたか。その、疑うに足るような」
なんとなく声が震えているような気がした。
「いや。まったく。」
フェルミはまるで普段と変わらない調子で答えた。それを聞いて安堵する自分が恐ろしく思える。胸の中で渦巻いている何か不快な感情のせいで叫びだしそうだった。とりあえずフェルミが味方だという事実に安心するのは当然だ、何もおかしなことはない。
「貴様は、私だけがあいつのお気に入りだったとして、私が貴様を裏切るとでも思っているのか?」
それはないと言おうとして、不意に疑問が瞬いたように思った。
「いや、お前は、……お気に入り?」
口を閉ざして考えを巡らせてようやく何が違和感を生んでいるのかようやく理解した。フェルミはこちらを見ず、前を向いたままだ。彼の言葉を反芻する。長くエンデと行動を共にしていたせいで、口に出していない要素で会話が進むことに慣れてしまっていた。
「前から俺が何を考えているのかに敏かったが、今のは異常だろう。……なあ、何が聞こえてるんだ。」
縋るように肩をつかんだ。
「フン。愚図が。貴様は何か詮索しようというときに声が震えすぎだ。」
「頼む、勘弁してくれよ。俺の声だけ聴いてくれ。それじゃあまるで……」
魔法兵器だ。思考を覗いたり、魔力で周囲を感知するなんて、人間のすることじゃない。俺の手を振り払ってこちらに向き直ったフェルミは片側の口角だけあげて笑っていた。血の気が引いた。
「化け物と言いたいんだろう?筒抜けだ。うるさくて敵わん。そうか、奴らもこんな風に聞こえているのか。それは、……不憫だな。」
目元に落ちた灯りの影が寂しそうに見えて、ひどく後悔した。何もかもが遠くに、自分の手の届かない場所で悪いほうに滑り落ちて行っている。
「……違う。いや、違わないな。いくら口で否定しても無駄だ。いつからだ。視覚聴覚以外は?何がどうなってる。全部教えろ。頼む、置いていかないでくれ。」
両腕をつかんでそのままずるずるとうずくまった。道行くの人間の、極力俺たちを視界に入れたくないが、しかし何が起きるかわからないから視界に収めておこうとしている腫物に触るような視線が突き刺さった。寝不足からくるだるさが呼気すらも億劫にさせている。
「置いていくなだと?いつから私たちが同等になった?はは……立て、みっともない。せいぜいそうやって私のいつもの気苦労を味わっていろ」
冷ややかな視線とともに一蹴されてしまった。
「それにしたって、人の愛着を気にするなど、珍しいな。」
「……父親のように思ってたんだ。」
「私に言うな。聞こえる分、貴様の心中を察するほどの余裕はない。あ~……そもそもローレンツは今消息不明で、きっと全部私の考えすぎだ。幻聴のせいでよくないほう傾いているに違いない。貴様は私の考えに与しすぎず中立でいてくれればいい。」
再び背を向ける前に、心配そうに眉を下げて俺を見たのが目に焼き付いて離れなかった。どうして無傷の俺が心配されているんだろうか。
「悪い。」
謝るので精一杯だった。
「おい。……その目治る、よな。」
「前例はねえな。」
息が詰まった。
ようやく、足元が真っ暗に塗りつぶされたと思えた。むしろ遅すぎただろう。喉元まで出かかった耐えきれないという叫びは人間性が追いかけて沈め、汚泥のようにへばりつき、ただの白い息になった。
「どこ行くんだ。」
「技研だ。重要な封鎖扉を修復する。貴様がうろつき終わるまでと、歌の効果の下では問題ないと奴らを説き伏せて、私たちが破壊した扉の修復は待ってもらっていた。今の警備では何が城に入り込むかわからない。汚染の収拾が知られる前に終わらせなければ。せめて認証の回復を……」
小声で話しながらすたすたと歩みを速めたフェルミを慌てて引き留めた。
「全部砂にしてしまった。」
「は?」
「扉、全部粉状になってる。」
「……は!?ふざけんじゃねえ。何してくれてんだボケカス!クレフ・レインハイム!ボケ!……ゴミが!」




