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先程フェルミがエンデのことを気にかけていたのは、彼がこの状況に対して他の誰とも違う視点を持ち得る存在だからだろう。彼の助けが得られれば、カイエを探すのも容易かもしれない。
「……エンデ。聞こえているんだろう。何故答えない。」
エンデの導きが得られないので、まずはフェルミたちが探せなかった動力プール周辺を捜索することにした。しかし、危険の中心地に行くような行動を魔法が見えるカイエがとるかは疑問が残る。先行隊も恐らく危険性と彼女がいる可能性の低さを踏まえて捜索を行わなかったのだろう。だが、とにかくやれることをやらなければ正気ではいられそうもなかった。
城内は静まり返っている。先行隊が仕留めそこなったのだろう発狂者がその辺りをウロウロして白い何か粘性の液体をまき散らしている。歌の影響で狂暴性を削がれているうちに砕いてしまう方が良いだろうと、道を塞いでいる個体だけでも頭を跳ね飛ばして進んだ。下げている剣が、辛うじて形を保っている制服が、もしかしたら知り合いだったかもしれないことを示しているが、誰なのかはもうわからない。白化して肥大化した発狂者は、そのうち勝手に死ぬのだが、その期間に個体差がある。リスクは少ない方がいいだろう。
その他は比較的人間のままの段階で始末されたのだろう遺体があちこちに散乱している。ずっと息を止めていることは出来なかった。血と腐敗臭と垂れ流された排泄物の匂いが混じって、肺をかき回した。口の中いっぱいに酸っぱさが広がった。吐き気をこらえてえずいているうちに慣れた。どこもかしこも、同じように空気は淀んでいた。
外傷が少なく、死因は刃物による致命傷だろうと推測される遺体が多かった。城内はそれほど荒れていない。恐慌状態に陥って恐怖の中で死んでいった人間は少ないらしい。冬場だからか、あるいは汚染が深刻だからか、思ったほど虫が湧いていないし、腐敗もそれほど進んでいない。だが、あまりにも死が溢れている。
無個性に、死という情報だけが記号的に襲い来る。誰も彼も、同じように呆けた顔で死んでいた。稀に、苦悶の表情を浮かべている者もいた。彼らの多くは酷い傷を受けていた。爪の間には搔きむしった血肉が詰まって乾いていた。
「エンデ……」
何故こんなことに。ここは三階で、他の棟からすると4階だったり、2階だったりするが、だから「三階」と呼ばれていて、他棟への移動が簡単で、人通りが多い場所だった。特に約束もなく顔見知りでもない予定の会っただけの連中が街に繰り出す算段を付けているのを良く見かけた。「三階」ですでにへべれけの連中も結構いた。
あのプールが漏洩するなどあり得ないのではなかったのか。
「……」
渡り廊下から別棟に移動する。窓から風が吹き込んでいて冷え込んだ。廊下の先に扉が設置されているのが見える、こじ開けられた痕跡があるから、このまま進んで問題ないだろう。
すべてのプールが漏洩したらしい。最初に都市の主たる動力を担うものが、次に魔法部門や技術部門の実験などのために別に用意されているそれが、そして予備のそれが。次々に壊れた。誰が壊したのか。どうやって、何のために。
こじ開けられた封鎖扉の隙間を、身を縮めて進んだ。封鎖扉の内側ではおびただしい数の死体が扉に押し寄せて山積みになっていた。山の内側から白い粘性の液体が漏れている。中に発狂者が埋もれているらしい。
どうして彼女は生きているのに姿を見せないのか。後先考えずに行動したにしても、自分が戻らないことが何を起こすか思い当たらないほど考えなしではないだろう。それとも、誰も彼女を気にかけないとでも思ったのだろうか?かぶりを振る。
「そんなはずないだろう。」
やはり、もう発狂していて、だから。白化したあれの中のどれかがそうなら。どれかを選んで殺して、魔法が解けたら、許せない。全てが許せない。俺がこんなところに連れてきたせいで。
きっと違う。彼女は足をくじいて動けなくなっているだけだ。大袈裟に考えるべきじゃない。早く見つけてやらないと。きっと帰りたがっている。こんな寒い城で、怖い思いをしているだろう。
廊下が終わって、階段と昇降機のためのちょっとした広場に出た。この階は魔法部門と政治部門の共有地であり、城の地下にある動力プールに直結する昇降機がある。プールに直結する扉を迂回するようにあちこちの壁に先行隊の残した合図が刻まれていた。上階には15人が進んで、3人は帰らなかったようだ。下りの階段の方には3人進んで、3人とも戻ったらしい。この棟の最上階には鐘とその音の増幅器がある。カイエを探す以外の仕事、例えば都市を覆った魔法の分析などだろう、が必要だったために、上階の探索隊の人数が多いのだろう。
プールに続く昇降機広場への扉は封鎖されたままだった。先行隊は魔法で扉にかけられている魔法を壊してから物理的にこじ開けたようだが、俺には魔法を解除する手段がない。
そう思った途端、扉が砂のように崩れ落ちた。伸ばしていた指先にはらはらと灰のような粒子が乗った。唖然として、数秒間口を開いたり閉じたりすることしかできなかった。
振り返ると、通ってきた廊下を封鎖していた扉も崩れて消えたことが分かった。窓から吹き込んでいる風に粒子が踊っている。封鎖扉を魔法ごと消し去る芸当が出来る人物……。
「どうして何も言ってくれない。……出来ないのか?」
動力プールにオルストネストが飛び込んだ時、エンデはいち早く反応した。プールの主成分は魔法兵器で、彼らは意識を共有している。もしかしたら、この状況が彼に不調を与えているのかもしれない。それならば、完全にエンデが完全に壊れてしまったわけではないということが分かった。正直なところ心配していたのだ。ほんの少し心が落ち着いて、深く息を吐いた。
崩れた扉の先にもう一枚扉がある。開くと、奥に昇降機があるだけの広間に5体の既に完全に白化した汚染の被害者がいた。
「カイエ。」
何となく呼ぶと、あちこちから視線が飛んできた。光に群がる蛾のように、ゆっくり死んだ暗い目が、白く肥大化した体を伴ってゆっくりこちらに歩いてくる。
「流石に冗談はよせ。お前は違う。お前の返事はいらない。」
……待てよ?いつ封鎖扉の魔法が発動した?
プールの近くにいるせいか、靄がかかったように、煩雑な何かが思い浮かんでは消えて、思考の邪魔をする。耳がパチパチと鳴るようになってきた。鼓膜が痙攣しているような不快感を伴う。
ここは彼女の歌よりも強く汚染の影響が出ているようだ。これまでの蹌踉めくだけの発狂者たちとは異なり、目の前の5体は明確に攻撃の意思を持っている。効くのか試したくて盟約の剣を抜いて進んだ。
「……。」
急に頭痛がひどくなった。目の奥に何かが刺さっているように痛んで、目を開けているのが難しくなった。貧血の時の気分が悪くなる頭痛を何倍もひどくしたような痛みが脳内を支配し、注意を奪われてまともに動けない。あと数歩というところまで発狂者に近づかれてようやく、マズったと気が付いた。逃げようと足を動かした。視界が暗く回っている。呼吸が浅い。
足がもつれて上手く動かない、後ろから組み付かれてしまった。まさか今、俺は敵に背を向けていたのか?おかしい、いつもならこんなミスは……。血の気が引いた。俺の頭よりずっと高い位置に落ち窪んだ目があって、それがじっとこちらを見ている。巻き付いている白い腕が俺の胴を、骨が歪むかと思うほど締め付けた。肋骨の保護を受けられない内蔵が圧迫されて、何かが咽頭を刺激した。
「は……」
それなりの質量のありそうな赤黒い物が床に落ちて広がるのが揺れる視界に映った。口の端を生暖かいものが伝っている。内臓が口から出たのかと思ったが、ただの血の塊のようだ。だが体が動かない。頭が重い。
急に腕が引っ張られた。何が起きたのか何とか視線をあげて確認すると、組み付いている巨体が2体に増えていて、新しいやつが剣を持っている右腕を引きちぎろうと引っ張っていた。体は動かない。そのほかの3体は潰されそうになっている俺を無感情に眺めている。
唐突にねとねとした、水に溶いた粘土のような重く冷たい何かが後頭部に降ってきた。発狂者がまき散らしているあれだろう。首に流れたそれの冷たさに身震いする。
数年前の、プールに落ちた人間を引き上げた時に起きたことがフラッシュバックした。こんなのが体の中に入ってはもうほとんど発狂したも同然だ。目と口を必死に閉じてこの時間が終わるのをただ祈った。
なんだかわからないが、顔をベタベタ触られている。冷たくて大きい手が俺の顔にぬとぬとを塗りたくりながらだんだん首の方に下がっていく。気持ちが悪い。引っ張られていた腕が痺れてとうとう剣を握っていられなくなった。切っ先が床に衝いて耳に痛い、高い音が響いた。
2本の腕が俺の胴を締めていて、2本が俺の腕を引っ張っている。そして俺の顔にぬとぬとを塗り付けている手が2個。1体増えたなと、うんざりした。耳の裏に手を沿わせて包み込むように化け物の手が俺の頭を撫でている。握りつぶされるのではないか、何をしようとしているのか全く分かなくて目を強くつぶった。抵抗はもはやそれしかできなかった。胴を締め付けている奴がさらに力を込めた。足が宙に浮く。せりあがってきたものに耐え切れずえずいた拍子に、口に指?手?を突っ込まれて急に天井を向かされた。
「……!……、いやだ、」
口の中に留まっていたどろっとした血の塊が喉の奥に当たって反射的に咳き込むが、上を向かされているせいで一向に状況が改善しない。
息が、出来ない。
「は、離゛せッ、ゲホッ、……」
咳き込みの反射で口が閉じられなくなった焦りで足をばたつかせたが、むなしく、ぬとついた変なのが顔面に降ってきて、冷たい液体が口の中にぽたぽた落ちてきた。咳き込みの間に何とか息を吸おうと、喉が奇妙な音を立てている。ぐずぐずと、鼻にも流れ込んでくる。
「ぇ゛……ッ。は、」
もう全部が最悪だ。意外にも思考は晴れていて、どうしようもない自分の無様さを眺めていた。無味の何かが歯列や舌の裏側を伝って口いっぱいに広がっていく。口の中に入れられていた手からは解放された。頭が重くて、首の力で支えられない。酸欠で口が閉じられない。
嘔吐反射と咳き込みで、丸まろうとする背を締めている腕が邪魔をする。もはや体は反射で動いているだけで、意識して動かせる部分なんて一つもないように思えた。
ぬとぬとが流れ落ちてぼやぼやした視界に、こちらを眺めている目が映った。ぜーとか、ひゅーとか言う自分の呼吸音がうるさい。面白がられている。全部最悪だ。焦点が定まらない。抵抗できない。迂闊だった。死んで当然だ。発狂したら当分死ねないのか。カイエが、こんな目に遭っていないと良い。




