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エウクライドを目前として、俺は事前情報で得て疑問に思っていたものの一つ、毒沼。その答えが目の前にあった。俺は納得の毒沼と対峙していた。これは毒沼です。
観測地帯の時点で、水が臭いとは思っていた。血とも違うが赤い、有機的な、モリモリとしたどう見ても有害な何かがぼこぼことあちこちから吹き出ている。見ているだけで吐きそう、というか、至る所にある水たまり自体が吐瀉物のようになっているというか……。物凄く帰りたい。
そして、エウクライドが未踏の地であるのには毒沼以外にも理由があった。観測地帯から数分歩いたところで、天から、いきなり光線が降ってきたのだ。観測地帯の面々はむしろこちらがどのような条件で発生するのかを研究している人員が主であるようだった。
光線自体は魔法兵器との戦闘で見慣れたものだったが、照射対象の座標予測がかなりの正確さで、走り抜けようとして2回ほど死んだ。一度目は足に光線が掠って、そのまま避けられず直撃、二度目はもっとひどかった。
エンデの助言によれば、索敵魔法に引っかかっているため天からの光線……(サテライトルクスというらしい)に射抜かれているのだそうで、索敵魔法さえ避けられれば問題はないのだそうだが。肝心の俺が索敵魔法を感知できないために避けようがなく、その後3回死んでコツをつかんだ結果、光線の照射を確認後、ほんの少し後ろに避けるのが一番効果的であると結論付けた。予測は、速度の急な変化に弱いようだった。照射タイミングが一定であることと、魔法が俺の動きを学習しないことが救いだった。
不死ゆえ、色々試せるから気楽なものだ。連続死している状況で、戻るまでに夢を経由しなければならないのが鬱陶しいが、急に戻るよりは心構えができて良いのかもしれない。
死に戻りを含めずに10分ほど、天の光線と足元のグロテスクな毒沼と格闘した結果、俺はようやく巨大な、継ぎ目のない白い繭のような丸い何かの前にたどり着いた。これが、エウクライドを守る魔力防壁だそうだ。監視拠点の望遠鏡を貸してもらって見たときとは、表面の質感の情報が加わって印象が変わった。表面には細かな幾何学的とも、有機的ともつかない妙な模様が彫られているように見えた。触ってみると、窪みがないため、光の反射の仕方が違うことで模様があるように見えるのだろう。不思議な材質だ。
魔力防壁は途中からずっと見えていたが、見渡す限りの死地に、滑らかで異質な巨大な繭。異様、の一言だった。
その繭の壁にエンデから預かった風鳴りの音がする腕を、握手するように握って腕部を思いっきり叩きつけた。
何度も叩きつけているが、ベチベチと音がするのみで、本当に効果があるのか不安になってきた。これは本当に合図になっているのだろうか……。
――無心で人の腕を叩きつけていると正気を失いそうであるため、なぜこんなことをしているのか説明しよう。
まず、エウクライドに行きたいのは、俺、エンデ、そして情報屋改めルキである。エウクライドへの道を阻んでいる要素はおおきく3つ。毒沼、サテライトルクス、魔法防壁である。
ルキはエンデのような戦闘能力は皆無であり、魔法防壁を破ることはできない。また、サテライトルクスを避けるのもまあ不可能である。さらに探知魔法の圏内にいると魔力を吸われて行動不能になる。
エンデは魔法防壁を破ることが出来るが、ルキと同じく探知魔法の圏内に入るとサテライトルクスに魔力を吸われるらしく、動きが鈍くなり、姿も消せなくなる。さらに悪いことに彼がいると光線の威力が極端に上がってしまう。遠くからでは魔法防壁の位置がわからず、それを破る魔法をピンポイントで当てられるかわからない。
俺は、魔法防壁はどうにもならないが、サテライトルクスを避けることが出来る。毒沼も何とかなる。
ということで、俺の役目は魔法防壁に近づいて、エンデにその位置を知らせることだ。方法はエンデが感覚を有している彼の腕を痛めつけるという、あまり納得のいかないものなのだが。体から離れている位置で痛みが生じて、それがどこで発生しているのか、わかるのか?というのが正直な感想だ。いまいち想像つかない。
まあ、あいつは人間じゃないし……。「巻き込まれたら死ぬから、気を付けて。」
と、頭の中に声が響いて、はるか地平の先、厳密には俺が歩いてきた方向に空が暗くなったんじゃないかと錯覚するほどの光が既に瞬いていた。合図が遅い。
轟音が近づいてくるのは中々に焦りを掻き立て、本能的な恐怖を刺激する。到達まで余裕があり、まだ感じないはずの熱を背中に予想してしまう。
必死に走った先で身を屈めた。幸い繭の近くにはサテライトルクスは落ちないようだった。魔法は地面を削り取りながら直進し、さっきまで俺がいた地点を正確にぶち抜いた。直視しないように目を腕で守ったが、それでも痛みを感じる眩さだ。少し遅れて生ぬるい風が吹き荒れ、パリパリ、と卵の殻に衝撃を加えた時のような、何かが壊れる音が聞こえる。
ぱきん!とひと際大きな音がした。魔法防壁が割れたのだろう。
しばらくして魔法の余波が消えたあと、恐る恐る割れた部分から中を覗き込む。繭の中には、何もなかった。違う、『何もない』がある。薄膜が張られているように空間が歪んでいて、先に何があるのか認知できない。だが、『何か』はある。銀色にも、極彩色にも無色にも見えるその膜に手を伸ばした。ぬるり、と俺の指を包んだ。
久々に何かを触った感覚を得た衝撃で思わず手を引っ込めた。反射的に親指で手のひらを撫でる。やはり触覚はない。指先に何か付着しているわけでもない。
エンデは俺が死んだときに見る中庭の夢を介して、俺がいるどこにでも出現できるらしい。だから、エウクライドの中へ最初に入るのは俺だと決まっている。ルキはエウクライドの中にいるだろうサテライトルクスの主をどうにかしてから合流予定だ。
気味が悪いが、覚悟を決めるか……。
この禍々しい繭の中に何があるんだろうか……。せめて倒せる敵であってくれよ、と念じて目をつぶり、勢いよく駆け込んだ。
ドプン、と透明の何かに漬け込まれたような感覚が全身を包んで、息が詰まる。だが、少しして、息ができることに気が付いた。むしろ呼吸はいつもよりずっと楽だ。暖かく、どこか心地がいい。満たされるような、仄暗い幸福感が瞼を重くした。
眠気に抗うように手探りで2,3歩先に進むとキイキイ、カラカラという聞いたことのない音が聞こえてきた。それと、喧騒にも似た、日常的な雑音を耳が拾った。恐々と目を開ける。眠りに落ちる寸前のような温かさを振り切って、意識は急激に冷えて浮上し、ぐらぐらしつつも視界は明瞭になった。
予想だにしなかった光景が目に飛び込んだ。
そこには、美しい白の都市があった。
他のどの文明圏とも違う、まるでおとぎ話のようなそれが、その秘密を微笑んで守りながら、俺だけに幕をあげて手招きしている。まだ見ぬ領域、知り得ぬ領域に対して俺たちが抱く、憧れ、あるいは畏怖。フロンティアの先、未来や、はるか遠い過去をも対象とする、俺たちの閉じた世界を超越する何かがあるのではないかという期待。
ああ、ここにあったのか。と思わず笑ってしまうほど、この都市は美しく、理解を超えて、悠然と佇んでいた。好みだ。
都市の中心には大穴が空いていて、そこに城か、柱か神殿ともつかない白の建築物が浮いている。街はその神殿と橋によって繋がれて、円形に広がっている。
空の模様は相変わらず白んだ水色をしているが、街は活気に満ちている。むしろその色のない空が繭と同じ、継ぎ目のない白い素材によって形成されたすべての建築物に柔く反射していて良い。色としては漆喰に近いが、それよりもずっと滑らかだ。
背後、低い塀の先には確かに毒沼が広がって見えるのだが、張り巡らされた水路を行く水は清らかで清涼感がある。魔法のせいなのか、魔法防壁は内側からは見えなかった。何より目を引くのが空中に浮遊した白い庭園だ。庭園には小さな滝が作られ、水が流れ落ちている。浮遊庭園と中央の神殿を除けば高低差の少ない平坦な都市だ。
俺の耳に入ったのは、水門についている小さな水車の回る音だったようだ。
そして、よく見れば周りを歩いている人間も特殊だった。皆、若草のような緑の髪に、耳を覆うように伸びた金細工のような角を備えている。神竜の一族というやつなのではないかと検討を付けたが、彼らはエウクライドともども大闇に呑まれて滅びたはずである。これは一体。人知れず再興していたのだろうか。
「勇者くん、……本当に魔法耐性高いね……。」
と、よろよろ歩いてきたエンデが俺のちょっと前でずしゃり、と地面に崩れた。
――寝ているらしい。たぶん。……息をしていないので、あるいは死んでいるのかもしれないが、魔法兵器は呼吸しないらしく判別がつかない。
エンデを小脇に抱えて、あてどなく歩みを進めた。




