霧
都市国家アシュハイムの名は17年前の政変以前に代々その地域を支配していたアシュハイム家に由来する。干拓とともに栄えた都市は、帝国時代からの歴史ある交易の要地でもある。大闇によって多くの交易相手が失われた後も文芸の中心地として栄え続けた。政変後は中央の管轄下、共和政が取られている。
事前に収集した情報ではこうだ。
アシュハイムが近づくにつれて、町全体を霧が包んでいることがわかった。仕事で訪れているとは言え、観光都市の景観に期待がなかったかというと嘘になる。風情のある霧ならばそれは良かったが、一寸先も見えないようでは少しがっかりした気持ちになるのも致し方ないだろう。波止場からは海岸線に様々な商店が立ち並んでいるのが見えるほか、大通りらしき道も見える。事前情報によれば、あの通りの先は都市の中心となる広場だろう。
目的地は船頭の予想通り、クジラ座である。あれだけピンポイントに依頼主が当たったのだから、俺が依頼を受ける前から機関とクジラ座にやり取りがあったのかもしれない。俺はこの歌劇座の座長から、町の裏手の用水路に魔物が出たので調査せよという依頼を受けている。
しかしクジラ座の具体的な所在地を知っている訳でもない。尖塔が目印らしいが、観光がてら探すにも霧が酷い。誰かに道を聞こうにも外出者が少ないようで、大通りは閑散としていた。時期的に原則渡航禁止ということは聞いていたが、それにしても人がいない。依頼には近日中に訪れるという返答を行っているため、急がず、一度宿をとって霧が晴れてから訪問するでも問題はないように思う。波止場付近に宿を確認したことを思い出し、いつの間にかかなり通りを進んでいたのか、少し先に広場の影が見えるが一度引き返すことにした。
「こんにちは」
矢先に声をかけられた。方向転換したとたんに背後から声がしたもので、突然現れたという印象が強い。おそらく脇道から現れたのだろう。待ち伏せだろうか?何のために。耳に心地の良い声に振り返ると、霧の中、淡い水色の髪をした女性が立っていた。
「どうも」
胸までの長さの艶の良い髪、シンプルな深緑のワンピースと大きな赤い目のコントラスト。どこを切り取っても絵になる女性だ。修辞を尽くして語りたいが、己の語彙ではせいぜい「静かな夜明けのような美女」程度が限界だった。ぜひ彫刻のモデルにしたい。美を表現する手段を持っていることをこれほど感謝した日はない。美しいぶん、気になるのは、腕に包帯が巻かれていて、少し血が滲んでいることだ。見る限り最近の怪我だろう。
「アシュハイムは初めて?よければ目的地まで案内するわ」
無表情に言葉を紡ぐ彼女に一抹の不安を抱きながらも、提案を受けない理由はなかった。詐欺の類の疑いはあるが、機関の人間を見分けられないような輩の行う詐欺はたかが知れている。リスクはほとんどないと言って良いだろう。
「霧が続くようであれば是非。」
「では行きましょう。数日は晴れないもの」
彼女はワンピースの裾を翻して、広場に向かって歩き出した。どこに行くにも一度広場を経由したほうが確実に辿り着けるらしい。確かに少し横道に目をやると、非常に狭く入り組んでいることがわかる。迷ってもおかしくないだろう。歩き始めた彼女に目的地がクジラ座であることを告げると彼女はごく僅かに表情を動かした。
「劇を観にきたのなら運が悪いわ。今は公演休止しているの」
何があったかはわからないが、船頭への土産の調達が困難になっただけだ。俺は公演を見に来たわけではない。
「問題ない。座長のカテリーナに用があるだけだ」
「……そう」
妙な間があったので、顔色を窺った。相変わらず無表情だったが、さっきのはどこか動揺の色が見える返事で間違いなかった。何か知っていそうだ。身分を明かして情報提供を求めるべきか。機関の人間を危難信号ととらえる人間も多い。ここで身分を明かすと混乱を招く可能性もあるか。もうすこし探りを入れてから判断しよう。
「だが、残念だ。公演休止の理由は?」
「わからないわ。張り紙がしてあるだけ。数日前から様子がおかしくて、役者は住み込みだから劇団内にいるはずなのに門は閉め切られているし、応答もないわ。カテリーナに会うのも難しいのじゃないかしら。」
それは困る。俺が対応を許可されているのは魔物の処理だけで、内政や人間同士のもめごとへの介入は避けたい。どうしたものか。
「張り紙をしたのが誰か知っているか」
「議会よ。二日前は公演が予定されていたの。だから大混乱になって」
事態の収拾のために政府が動いたというわけだ。劇団を訪ねるより先に、議会に立ち寄った方が良いだろうか。そうこうしている内、広場についた。相変わらず霧が深いものの通りが扇状に広がっていることが辛うじてわかった。
「ここからだと劇団と議会はどっちが近い」
「どっこいどっこいかしら。議会はあの丘の上、劇場はあっち。尖塔が目印よ」
一応彼女が指さす方を見てみるが、霧が深いだけで全く丘も劇場も見えない。これでは魔物の処理も困難だ。広場の噴水に刺さっているオブジェがあるが、これがこの都市の釘だろうか。状態はいい。これなら町の中に魔物が出ることは無いだろう。
「カテリーナも議員よ。彼に用があるなら先に、議会に行くのがいいかもしれないわ」
「そうか。議会までの案内を頼めるか」
「ええ。よろこんで」
この人は相変わらず無表情だが、感情が乏しいというわけではないようだ。そして、ここまで親切にされている理由はわからないが、あとで何か礼をしなければならないだろう。茶なんか奢るのは良くないだろうか。このあたりは相手の提案に任せた方が良いだろう。法外な金額の謎の食事屋などに連れていかれない限り美女見物料ですべての元が取れるような気さえする。
「あなた、どこから来たの」
道は長いようで、会話の内容が雑談に移った。道はやや傾斜がきつくなりはじめた。
「中央だ」
「やっぱりヴェルギリアね。こんな時期に来る人はみんなそこの人よ」
「人がいないのは霧のせいか?」
彼女が一瞬固まった。何か言ってはいけないことを言っただろうか。なんにせよ渡航禁止や外出者の異様な少なさは霧のせいではないようだ。
「歌狩りを知っている?」
わざわざ振り返ってこちらを見ている彼女には悪いが、歌狩りの事は知らない。「いや」と返答する。
「そう。ならいいわ」
彼女は歩みを速めた。歌狩りについて聞くべきか?いや、色々加味すると「ヴェルギリアからこんな時期に来る人間」はおそらく機関の人間だ。こんな時期というのは歌狩りと関係するのだろう。つまり機関と歌狩りには何らかの関係性がある。だが、依頼主と俺の間を最高執政官が仲介している重要そうな依頼にも関わらず、俺は何も聞かされていない。つまり首を突っ込むなということか、もしくは機関側に何か目論見があるか。
少しの間無言が続いた。日が落ちたのか、世界が暮色から瞬く間に青黒く変わった。
「夜の間は危険よ、屋内にいるといいわ」
「追剥か狩人でも出るのか?」
それとなく注意に警戒を払って、装備している剣を確認した。
「追剥ならあなたなんとかできるでしょう」
「まあ、そうかもしれないが」
「あれが議会よ。……あなた、勇者よね。そのうち知ることになるわ」
「何を」
「色々」
彼女はくるりと方向転換し、私はこれで、と霧の向こうへと去って行った。案内の礼がしたいことを大声で伝えてみる。反応はない。意味深なことを言われたし、かっこよく正体を明かす機会を盗られた。
ただ、俺の仕事は魔物を倒すことだ。何にもまったく関わらずにここを離れるかもしれない。彼女はがっかりするだろうか。