悩ませる海
まず焦点を当てるのはカニである。
彼には悩みがあった。上手く泳げないのだ。彼は海中をてくてくと歩きながら移動するが、そんなまどろっこしいことをしているようなやつは周りには1匹とていない。
「君は歩けて良いなあ、海の外に行けるじゃないか」
歩いていると魚にそう声をかけられた。何という名前の魚か知らないが、茶色っぽい、縞っぽい魚である。颯爽と泳ぎながらそんなことを言われるとさながら嫌味に聞こえる。
「外ったって砂浜じゃないか。大したところじゃないやい。それより僕は格好良く泳ぎたいんだ」
「それはないものねだりというものだよ」
泳げるやつにそんな風に説教されると腹が立つ。魚に何が分かるというのだ。地べたを這いつくばってから物を言うべきである。
魚は言うだけ言うとささっとどこかへ泳いでいってしまった。カニは恨めしそうにその後ろ姿を眺めるのであった。
この魚は結局のところアオハタなのだが、アオハタにはアオハタの悩みがある。彼は歩けないのだ。
海の外には水がないので、泳ぐという行為がままならない。そこを歩けさえすれば、海の外の世界というのを垣間見れるのではないか。
その点カニはどうだろう。カニは歩けるのだ。歩けるという利点に比べれば、上手く泳げないという弱点は些細なものに感じる。海の外を歩ける生き物が海の中に幾種類いるだろうか。アオハタからすれば、カニはむしろ特権階級なのだ。
先程カニを見かけたとき、アオハタは心底羨ましかった。先の台詞は本心からだったが、カニにはどうも嫌味に聞こえたらしい。
「せっかく歩けるというのに、更にないものねだりをしちゃあバチが当たるってもんよ」
世の中はバランスなのだ。余りに色んなものをねだると分不相応として淘汰されてしまう。カニにはそこが分からないらしい。
「そうは思わないかい、クラゲくん」
アオハタは何かを思い付く度にそこらにいる生き物に喋りかけて自分の心中を吐き出したがる癖があった。次に巻き込まれたのはクラゲである。
「えっ? ああ、うん、そうだね」
突然話しかけられたクラゲはアオハタの独り言なぞ聞いていたわけもなかったが、勢いに負けて訳も分からず相槌を打ってしまった。
「クラゲくんも海の外の世界を垣間見たいと思わないかい?」
「それは海の上じゃなくて、地上ってことかい?」
「そう! そう!」
アオハタは熱っぽく頷くが、クラゲには正直そこまで地上に興味はなかった。クラゲからすれば地面そのものが縁遠いもので、地上よりまず海底が見たいくらいだ。それにクラゲは泳げない。地上に近づくのは良いがそうなると海に戻れない。
「僕は良いかなあ。危ないしねえ」
「えー、そうかなあ。夢がないなあ」
「安全に生き延びる方が僕にとっては大事なんだよ」
ふよふよと漂いながら、クラゲはそう言った。これもまた本心である。
「それぞれ考え方が違うもんだねえ」
アオハタは勝手に納得して、そのままどこかへ行ってしまった。
クラゲはカニと同じく上手く泳げない生き物だが、それが悩みの種というわけではなかった。クラゲの悩みは退屈であった。
泳げないのは良いのだが、そのくせ歩けもしないクラゲは、波に漂ってふよふよと移動するばかりで望むところに行けるわけではなかった。海面付近をふらふらと流されていても、景色はあまり変わり映えしない。
景色に期待できない以上、暇潰しは俄然生き物観察頼みになる。先程のアオハタのようなやつでも、退屈凌ぎには丁度良いまであった。ただやはり海の上の方をさ迷っているので、出会う生き物は限られてくる。たまには海の下の方のことを知りたいものだ。
そんなクラゲの気持ちを汲んだように、図ったように海が揺れた。
「おお、丁度良いところに」
クラゲは、いやクラゲでなくとも、クジラの来訪は波で分かる。クジラは良い。クジラはクラゲの知らないことをあれこれ知っている。
「日を浴びに来たのかい、クジラくん」
「ああ、これはクラゲか。また暇潰しに話をしろと言うのだろう。いつ会っても同じことを言うな」
「しょうがないじゃないか、暇には違いないんだよ。君みたいにあちこち行けないのさ」
「泳げたって、行くところは限られるぞ。そんなに話の種になるような場所は出てこない」
「僕からすれば、海底の方のなんてことのない話がとても新鮮なんだけどね。それに君は長生きじゃないか。ちょっとした古い海の話も、僕にはとても貴重なんだよ」
「長生きもそんなに良いもんじゃないけどな」
クラゲは溜め息をついた。クラゲの溜め息は海を揺らす。
「長く生きれば生きるほど、周りは死んだり生まれたり目まぐるしく変わっていく。俺はある意味置いてけぼりだ」
「その変化を楽しめたりはしないのかい?」
「簡単に言うな。ついていくので精一杯だ」
自分だけ長生きというのはえてして孤独である。死んでいく友、変わりゆく景色、ついていけない自身…。長く生きれば生きるほど悩みは多くなる。
「クラゲに悩み相談をしてもしょうがないな」
「悩み相談はさすがに僕では力不足かな。申し訳ないけど、それよりも何か面白い話をしておくれよ」
クラゲはとことん呑気に言った。
ここで登場するのはポセイドンである。彼は海底深くで常に静かに座っている。何をするでもなく、じっと海を見守っているのだ。
基本的に喋りかけてもほとんど受け答えをしないので話しかけようという生き物はほとんどいないのだが、たまに物好きや物知らずがふらふらと寄ってくる。今回の物好きはクジラだった。
「この悩みを相談できるのはあなただけだ」
海の神ポセイドンの歴史に比べれば、クジラの生涯なぞ刹那に等しい。クジラは長生きの孤独さ、煩雑さを存分にポセイドンに説いた。ポセイドンは相槌も打たず黙って聞いていた。
「あなたは孤独を感じたりはしないのですか」
クジラはポセイドンに尋ねた。ポセイドンからすればあまりに愚問だったもので、彼は思わず答えた。
「そんな感情は数億年前に通りすぎた」
半年ぶりに喋ったなと、答えてからすごくどうでも良いことが頭を掠めた。彼は要しないので喋らないが、別に高潔な脳内をしているわけではなかった。
「あなたに悩みはないのですか」
珍しく話してもらったクジラは、ここぞとばかりに質問を重ねた。これこそ、クジラが以前から抱いていた疑問だった。
無視しても良かったが、せっかく気が向いたので答えてやろうかとポセイドンは考えた。悩みは常に1つだった。
「海の行く末だけだ」
我が子のような、という表現すら合わない。正真正銘我が子である海は、いつどのようにして滅ぶのか。
「数億年も先、星と共に海が滅ぶ未来がある」
「そんな未来があるものなんですか?」
クジラからすれば、こんなにも広大な海が滅ぶという現象がそもそも想像できない。今ある海の果てですら考え付かないのだ。この海にクジラやクラゲと同じように終わってしまうということがあり得るのか、彼からすれば疑問に思えた。
しかしポセイドンには確信がある。未来を予知できるわけではない。だが彼は海の神。説明できない機微を、彼は確かに感じ取っている。
「想像もできないですねえ。見てみたい気もするなあ」
先程まで自身の長寿について愚痴っていたクジラは、一転そんないい加減な相槌を打った。悩みなどその程度のもので、一通り愚痴ったら一旦忘れるし、反転無責任なことも平然と言える。
ポセイドンはふと意地の悪いことを思いついてしまった。あまりに可哀想かとは思ったが、ゆくゆく泣きついてくれば戻してやれば良いかとも思った。彼は海の神。クジラの命ひとつ弄ぶのに、何の造作もないことだった。
「見てみたいか? 海の行く末」
「え? ええ、まあ。僕の想像も及ばないものなので」
これを言質と呼ぶにはあまりに卑劣な気がしたが、思えば他の神々の連中は言質などという発想もなく問答無用で他の生き物を振り回してきた。久々に神っぽいことをする気になって、ポセイドンは少しだけ楽しくなった。
陸に悩みが溢れかえるように、海にも同様に悩みが渦巻いている。
これはそんな悩みの深層の話。
海の神に不老不死にされ、苦悩に溺れるクジラの前日談である。