第六章 18 『とある物語②』
私は追いかけた。得体の知れない巨大な異形を。
必死に、ただひたすらに。
怖いに決まっている、膝は今にも崩れ落ちそうだった。それでも走り続けた。
その巨体が向かう先にアイゼがいるからだ。
いくら走れども距離は縮まらない。
むしろ開いていく一方だった。
息も切らす頃、異形は上空で停止したように見えた。運の悪いことに、そこは私達の帰る場所だ。
──どうしてこうなった。
──私がいくら追いかけようとも、止まりもしなかったくせに。
胸が詰まった。絶望の色が私を侵蝕する。
停止した巨体が何をしようとしているか、直感で理解できた。
真っ白の世界が広がった。
音が消えた。
私は喉が切れるほど叫んだが、自分の声すら聞こえない。
視力が戻り、微かに音も聞こえるようになった頃。
廃材だらけだった少女の帰る場所。
私の大切な妹の存在。
──その全ては跡形もなく消滅していた。
アイゼがいるから、生きてこれた。
アイゼの為に、感情を押し殺して生きてきた。
その全てが、私の行きた唯一の価値が、突如現れた存在に一瞬で壊された。
押し殺していた感情が決壊する。
──許せるはずがない。
──絶対に許さない。
──憎い……憎い……憎い、憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
「──殺してやる」
出血した喉から鈍い音がした。
周囲の空気が振動する。
鉄くずを拾い、他人の食料を譲って貰わないと満足に生きていけない。そんな私が空と地上を蹂躙する異形相手に何ができると言うのか。きっと見向きもせずに外側へ行ってしまうだろう。
それでも諦めなかった。
「殺してやる……殺してやる……」
振動は次第に強くなっていく。
すると、振動を感じとったのか、強い執念を纏った言葉が通じたのか。
得体の知れない異形はゆっくりとこちらへ向く。
顔らしき部位には何も無かった。
巨大魚のような鱗に、鳥のような翼。
追いかけることに必死で、その存在をきちんと認識したのは今が初めてだった。
そして、無いはずの眼差しがこちらへ向けられた時。
本能的な恐怖が押し寄せた。
身体が硬直して動かなかった。
異形は身体に生える大量の不気味な手足と触手をバタバタと動かすと、無き顔を中心に白き光を収束させる。
神様は力なき者に恩恵を与えると聞いたことがある。
とある童話では、その恩恵を授かった騎士達が、あらゆる悪を討ち、世界を守った。
私が眺めていた神樹の方角に、そんな理想郷があると信じていた。
慈悲深い神様は、こんな私のことも見ていてくれてるのかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
──それでも、
「……私の世界に神様はいないらしい」
収束した光は放たれる。
アイゼを消滅させた光だ。
このまま全てが終わるなら、それも良いかもしれない。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
──アイゼ、ごめんね。
暖かい光が肌を包むように。
肌に伝わる温度は徐々に上昇する。私の全てが消える刹那のこと。
肌に感じる温度は一瞬で下がった。瞼越しに分かるほどの光量さえ今は感じない。
瞼を開くと、目の前には一人の女騎士が立っていた。
その先に存在したはずの巨大な異形は、中心で両断されたまま消滅しながら落下する。
女騎士はこちらを振り向くと、ゆっくりと歩み寄る。私を見る瞳は蔑みの目でも、哀れみの目でもなかった。その真剣な透き通った蒼色の眼差しは、優しく私に向いていた。
「大丈夫? 怪我はない?」
女騎士はイメージとは少し異なる様子で問いかける。少し焦っているようだった。
「大丈夫……です。助けて頂きありがとうございます」
「良かった……こんな遠方の土地でこんなことになるなんて……君の他に周囲に人はいなかった?」
「……妹が……い……ました……」
「そう……だったんだね……ごめんなさい。私がもっと早く気づいていれば……本当にごめんなさい」
女騎士は申し訳なさそうに謝る。言葉とは裏腹に、僅かに噛んだ唇からは血が溢れた。本気で後悔しているようだった。
身に着けている装備を見ればわかる。この女騎士は、神樹の栄える土地からやってきたのだろう。
一体どれ程の距離があるのか、追いついてきただけでも異常と言える所業だ。
「あなたは全く悪くありません。私が弱いから、私が妹を、アイゼを守れなかったから。私の責任です」
「君は弱くなんてないよ。誰よりも強い。私なんかよりも、よっぽどね」
「……嘘です。あなたは脅威を打ち砕き、私を救いました」
「……こんなのは、本当の強さじゃない。できることをするのは、本当の強さなんかじゃないんだ。だからこそ、私は君の妹も救わなければならなかった」
返す言葉が見つからなかった。
彼女は彼女で、きっと大きな何かを抱えているのだろう。
「……っと、ごめんごめん、困らせちゃったね。話は変わるけれど、ここの土地もこんなになっちゃったし、もし君が良ければ、私のところに来ない?」
「……私なんかに無理ですよ、ここで鉄くずを拾って、何も出来なくて。食料さえ恵んで貰わなければ生きることもできない、そんな人間なんです」
「断言する。君にはできるよ。今日ここに、君一人が立っていた。それが何よりも証明だ。ま、このままここに置いても餓死するだけだから、どちらにしても連れていくつもりだけれどね」
「そ、そんな……」
「君には時間もある。考える時間だってある。だからおいで」
女騎士は笑顔でパッと両手を広げた。
私はゆっくりと近づくと、優しく抱きしめられた。
人に甘えることも出来なかった。
他人から向けられる好意が、ここまであたたかいものだと知らなかった。
枯れてしまったはずの涙が溢れ出す。
私は長い間、彼女の胸の中で声を枯らすほど泣いた。
「落ち着いた? そう言えば君の名前を聞いていなかったね。教えてくれる?」
彼女の胸から離れた少女は一呼吸置くと、紫紺の瞳を微かに揺らし、彼女の目を見据える。
「──私の名前はオルナ。これからよろしくお願いします」
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その後もしばらく物語は続いた。
オルナという少女が、かつて自分を救った女騎士を超え、歴史に名を刻む。そんな物語だった。




