第一章 1 『下界の守護者』
──灰が降っていた。
燃えるような血の匂い。焦げた肉片の残骸。崩れた建物の隙間から覗くくすんだ空が、まるで世界が呼吸を止めたように、沈黙を降らせていた。
少女は、立ち尽くしていた。
息をするたび、胸がきしむ。焼けつくような痛みと、氷のような重苦しさが肺を締めつける。視界に転がるのは、もう動かない仲間たち。命という名の熱を失った肉体が、静かに地に伏している。
少女は──リアは、歯を食いしばりながら、ただ祈った。
もし、普通に戦って。普通に死ねる世界だったなら。
こんなにも、苦しまなくて済んだのだろうか。
けれど──
──それでも、私達は戦う。
世界を守る為に。
世界を守ることがクラリアスの宿命だから。
それがクラリアスの宿命だから。
世界を守るために、壊れながらも剣を振るうのが、私たちの存在理由。
鉛色の空の下。砂塵と瓦礫にまみれた大地に、少女がひとり立っていた。
風に揺れる桃色の髪が、ほんのわずかに光を含んで煌めく。
その姿はまるで、荒野に咲いた一輪の桜のようだった。
だが、花弁のように柔らかだったはずのその瞳は、生物らしからぬ無機質さで、目前の異形を見据えていた。
──それは、ゼノンと呼ばれる化け物。
人の形を模したようで、しかし何かが決定的に違う。肉が歪に膨張したようなその身体は、腕というにはあまりに太く、武器を振り回すその様は、まるで怒りと飢えの塊だった。
無数の口が咆哮を放ち、耳をつんざく轟音が空を裂く。
背には不恰好な肉の翼。表面には目なのか、ただの腫瘍なのか判別できない器官が蠢いている。
死してもなお、魂を失わずこの世に留まった忌むべき存在──それがゼノン。
『心を失った肉の器』。あるいは『心の残滓』。
存在自体が呪いであり、世界にとっての異端。
リアは、そんなゼノンと対峙していた。
「──リア!!」
叫び声が鼓膜を震わせた。
反射的に視線を逸らし、剣を構える。直後、凄まじい風圧と共にゼノンの打撃が襲いかかる。
地面がめり込み、瓦礫が砕け、砂煙が舞い上がった。
だが──
リアの剣は折れなかった。
薄氷のように透明な刀身が光の粒子を撒き散らしながら、ゼノンの攻撃を真正面から受け止めていた。
「なにぼーっとしてるのよ!! あんたが倒れたら、街が終わっちゃうんだから!!」
声の主──少女、ルミナがリアの背後から叫ぶ。
彼女の髪は夜の空を思わせる青紫で、瞳はリアと酷似していた。
「ごめん……。そう、だよね。私たちがやらなきゃ……。こんな思い、もう誰にもさせないために」
リアは息を整え、ゼノンから距離をとる。胸の奥にわだかまる覚悟を、強く握りしめる。
「行くよ、ルミナ!」
「任せて!」
二人のクラリアスは、廃墟と化した街を背に、同時に地を蹴った。
「──テラ・グラキエス!」
リアが放ったのは、巨大な氷塊。
ゼノンの目と思しき器官に直撃し、周囲を凍てつかせる。
地面に突き刺さる氷が白く光り、辺りの温度が一気に下がる。
ゼノンは咆哮した。だが、明らかに動きが鈍る。
「よっと。ちょいと失礼──っと!」
ルミナがゼノンの背を駆け、瞬時に無数のナイフを突き立てる。
リアの攻撃で凍結した視界が回復するよりも早く、ゼノンの身体には40本近いナイフが突き刺さっていた。
「ルミナ!! もうもたない!!」
「了解──っ、ヴァレ・エレクリアット!!」
ルミナの詠唱に反応し、ナイフを伝って雷が迸る。
雷鳴が轟き、焼け焦げた肉が爆ぜ、ゼノンの腕が千切れ飛ぶ。
それでも──奴は動きを止めなかった。
「うげ……っ、まだ生きてる……」
ゼノンが呻くように咆哮し、暴れる。その一撃が、ルミナの腹部を直撃した。
「ルミナ!!」
リアの叫びが響く。ルミナの身体は空中を舞い、瓦礫へと叩きつけられる。
だが、その叫びは、心配や恐怖によるものではなかった。
怒りでもない。悲しみでもない。
それはただ──戦場に立つ者の「本能」だった。
──“倒せ”
ゼノンの動きは単調になっていた。方向感覚も狂っている。
今なら──届く。
リアは地面を蹴った。前傾姿勢のまま、剣を握りしめる。風が、彼女の体表を裂くように吹き抜ける。
「──ゼノ・エクスクァト!!」
閃光の如き突撃。
リアの剣がゼノンの胸を貫いた。瞬間、爆発したかのように肉が裂け、巨大な穴が穿たれる。
ゼノンは断末魔すらあげず、黒い煤を巻き上げながら崩れ落ちた。
「……終わった」
リアは膝をつく。呼吸が乱れ、視界が歪む。全てを出し尽くした。
そのとき──
「っ……あー、痛った……。相変わらず無茶するんだから……」
瓦礫の山から、ボロボロの姿でルミナが這い出してきた。
片足を引きずりながらも、彼女は笑って手を振っていた。
「ルミナ……」
リアの胸がじんわりと温かくなる。けれど、その直後、彼女の視界には再び戦場の現実が映る。
──仲間たちの、砕けた身体。
血で濡れた制服。剥がれた肌。砕けた骨。止まったままの時間。
なぜ──これが正しいのか、わからなかった。
「なに黙ってんの? また考え込んでるでしょ」
ルミナが歩み寄り、リアの顔を覗き込んでくる。
「……これで良かったのかなって、ふと思って」
「え? 何言ってんの。リアのおかげで街には被害が出てないし、私たちが止めなきゃもっとひどいことになってたかもじゃん。クラリアスとして、ちゃんと役目果たしてるよ」
ルミナは笑う。その顔には、疑いの色は一切なかった。
──そうじゃない。
リアは、思う。
確かに私たちは役目を果たしている。
けれど、この戦い方は──本当に正しいの?
私たちが壊れても、倒れても、それでも前に進み続けるのが“正義”なら。
私は、もう正義なんて信じられない。
クラリアスは戦う。
それが、使命であり、存在意義であり、呪い。
何かを守るために、何かを壊すしかないなら──
この世界に、“救い”なんて、あるはずがない。
──風が吹いた。
戦場を通り抜けるそれは、まるで終わりの鐘のように、静かに、冷たく響いていた。




