プロローグ 『崩壊の音色』
世界の根源──そう呼ばれる神樹がある。
空に突き刺さるように聳え立ち、雲の流れを変え、風の巡りさえも支配しているかのようだった。
幹はあまりに太く、山よりも大きい。見上げれば視界の果てまで覆い、頂が見えることはない。
──それはまるで、天上へと通じる門だった。
──七神。
創造神クロノスがこの世界に授けた“秩序の守護者”たち。
人の枠を超え、神器をもって世界の秩序を正す存在。
神器『マルミアドワーズ』、『エクスカリバー』を振るう、剣の王──アルトリウス。
二振りの剣を許された唯一の王。
《マルミアドワーズ》──大地をも断ち割る一閃
《エクスカリバー》──聖以外すべてを葬る聖断の刃
神器『オートクレール』の光を宿す、白銀の騎士──ランスロット。
正義を力へ変える高潔な騎士。
《オートクレール》──信ずる正義を力へ変える誓約の剣
神器『ダインスレイフ』の血を啜りし、狂戦の刃──モルドレッド。
血を糧に力を増す呪いの剣士。
《ダインスレイフ》──血を糧に進化する呪縛の大剣
神器『ミスティルテイン』を掲げる、静かなる竜──サグラモール。
絶対不壊の剣を持つ誓約の竜。
《ミスティルテイン》──世界が斬れずとも、世界を斬る絶対の刃
神器『モルデュール』を振るう、精霊王の剣姫──グィネヴィア。
全属性を操る魔剣の姫君。
《モルデュール》──全属性を纏い、精霊と響く断罪の刃
神器『クリュセリオン』を握る、価値を求めし賢者──ユーウェイン。
黄金を探し求める遍歴の知者。
《クリュセリオン》──価値の根源を司る黄金の支配剣
そして、神器『アスカロン』をもって闇を祓う、最後の希望──パーシヴァル。
闇を払う光を宿す聖槍の勇者。
《アスカロン》──次元を超える聖なる光の大槍
そのいずれもが、神と人の境に立つ存在であり、“世界の秩序を守る”ために在る。
神樹の根元に建つ白亜の城は、石でできていながら冷たさを感じさせず、むしろ“静か”だった。
音が籠もるのではない。音そのものが許されていないような、凍てついた静寂。
壁も柱も、見る者を拒むかのように冷たく美しく、空気は薄く、重い。
そこに人の気配はなく、ただ“神意”だけが漂っているようだった。
この城は、神に選ばれた勇者の本拠であり、世界の守護を担う組織──グレスティアの拠点でもある。
──最上階。
神に最も近く、地上から最も遠いこの部屋に、一人の少年が佇んでいた。
レナ・アステル。十六歳。
世界に選ばれし勇者。
神樹の祝福を受けし唯一の者。
深紅の瞳──それは七神に勇者と認められし証。
存在そのものが奇跡と讃えられ、その力は歴代最強と謳われる。
だが──そのレナが、沈黙していた。
何かに耐えるように。
何かを見透かそうとするように。
壁際の窓に背を向け、静かに思考に沈んでいる。
「……静かだな」
独り言は、空気に溶けて消えた。
この城に勇者の側近はいない。守りという概念が、そもそも不要だからだ。
城内には百名を超えるグレスティアの兵が常駐しているはずだった。
だが今、その足音すら聞こえない。
壁の裏にも、階下にも、誰の気配もなかった。
それは“違和感”を超えていた。
まるでこの場所だけが、すでに世界から切り離されてしまったかのような孤立。
重苦しさが肩にのしかかる。
誰かが──あるいは何かが、目に見えぬ形でこの場所を支配している。
レナは立ち上がると、窓へと歩を進めた。
床を踏む足音すら、この空間では異質に感じられる。
何かを破るような、小さな音。
窓の外──
そこに広がっていたのは、濁った空だった。
雲は低く、色は灰を濃くしたような鈍い鉛。
日差しは見えず、空気に湿り気があった。
降るかどうか迷うような空が、神樹の枝葉に引っかかって揺れていた。
「雨か……」
そっと窓を開ける。
冷たい風が頬を撫で、細かな水滴が指先を濡らす。
その冷たさが、不意に胸を突いた。
──何かが、起こる。
ただの予感ではない。
勇者としての感覚が、確かな警告を告げていた。
そのとき──地平線に影が揺れた。
数などどうでもいい。ただ、それが軍列だとすぐに分かった。
整然と武装し、秩序を保ちながら進軍してくる。
敵か? ──否。
雨の中ではためく旗は見覚えのあるもの。
それは、グレスティアの軍勢だった。
本拠地であるこの城に、武装した自軍の兵が進軍してくる。
ありえない事態だった。
緊急招集もなければ、報告もない。
敵が迫っているのなら、自分に連絡がないはずがない。
これは──異常だ。
足元の石床を蹴る。
躊躇はなかった。
レナは窓枠を飛び越え、外壁に沿って落下する。
何の足場もない垂直の壁を、滑るように降りていく。
風が鳴く。雨がぶつかる。
だが、どれもレナの動きを止めはしない。
着地により、足元の石がひび割れる。
そのまま、濡れた庭を駆け抜ける。
呼吸を乱さぬまま、グレスティアの軍勢の先頭、一人の男の元へと至る。
その男の名は──オルカ・アストレア。
剣聖。
世界における最強の剣士。
そして、レナが兄のように慕った男。
その彼が、今──剣に手をかけていた。
それは、敵意。
あるいは、それに近しい何か。
レナは一歩、歩み寄る。
濡れた白髪が顔をはらい、視線がオルカを射抜いた。
「……オルカ、何があった?」
沈黙。
その沈黙は、言葉以上に雄弁だった。
まるで、何かが既に──壊れてしまっていることを示していた。
レナの問いかけに、オルカはすぐに答えなかった。
降り始めた雨が、鎧を濡らし、剣の鞘に音を立てて滴る。
その無言こそが、答えだった。
レナの眼がオルカの手元を捉える。
柄に添えられたその手は、震えていた。
「……オルカ?」
「……レナ」
重たく沈んだ声だった。
風にかき消されそうなほど小さく、それでも決意の滲んだ声音。
「受け入れ難い話だと思うが──こちら側につく気はないか」
言葉は、冷えた鉄のように無機質で。
そこに宿る感情だけが、痛いほどに濃かった。
レナの喉が鳴った。
「……こちら側?」
「……そうだ」
「……何の……話をしてる?」
雨の音が増す。
言葉に重ねて、空が泣いているかのようだった。
「この人数を引き連れて神樹へ来た理由──まさか、分からないわけじゃないだろう」
レナは息を吸う。
「……七神に、刃を向けるのか」
「“その神樹で傍観しているだけのクロノ”を……俺たちは排除する。この神に支配された世界を──俺たちの手に取り戻すために」
オルカの目が、剣のように鋭くなった。
狂気ではない。
正気だった。
だからこそ、余計に“恐ろしい”。
「……何を言っているのか分かっているのか? 神樹から授けられた力で、その神樹の主に牙を剥くつもりか?」
「分かっている。だが、レナ──お前は神に近づきすぎた。故に、もう見えていないんだ。俺たちの“心”が」
レナの周囲を包む空気が、ひときわ冷たくなる。
まるで空そのものが凍りはじめたかのような錯覚。
「……お前たちは……この景色を、望んだのか……?」
答えはなかった。
だが、わずかに震えるオルカの手がすべてを語っていた。
レナは、答えを探して視線を巡らせる。
そして──ある名を呼んだ。
「ルキナは……どこだ?」
──沈黙。
雨の音が、無慈悲に空白を満たす。
オルカの背後から、もう一人の男が前へ出た。
ミハイル・ヘルヴェティア。
数少ない信頼できる仲間のひとり。
──だったはずの男は、今、レナを睨んでいた。
「ルキナは死んだよ」
その言葉は、刃よりも鋭く。
レナの胸を、一瞬で貫いた。
「……嘘だ」
「嘘じゃない。レナ……お前が殺したんだ」
「……俺が……ルキナを……?」
思考が追いつかない。
心臓の音すら聴こえない。
ミハイルは、静かに話し出す。
「最初は、説得しようとした。何度も。でもルキナは、最後までお前につくって言ってきかなかった。──だから、少し強引に“説得”しようとしたんだ」
その“強引”が、何を意味するのか。
レナに説明はいらなかった。
「……その時、彼女は俺たちに刃を向けた。契約に背いた精霊使いの末路は──咎人としての崩壊」
レナの世界が、そこで音を失った。
身体が揺れる。
心が軋む。
膝が、力を失った。
ミハイルのせいでは無い
──ルキナが崩壊したのは、レナの“せい”だった。
世界最強の精霊使い──ルキナ・エルステラ。
彼女が咎を受けるということは、契約に背いたということ。
レナだけが知っていた。
彼女の精霊契約の内容を。
『──もしも、世界のすべてがレナの敵になったとしても、たとえ私が消えることになっても、私はレナの味方だから』
その言葉が、現実になっていた。
ルキナは、世界に背を向けた。
──レナを、守るために。
その行為は契約違反。
世界の維持に背き、精霊との契約を破った。
そして彼女は、咎人として──崩壊した。
「……そん……な……」
守るべきものを失ったその瞬間、勇者は──ただの少年に戻った。
戦う理由を失った。
立ち上がる理由も。
雨が肩を濡らす。
冷たさだけが、今の自分の“現実”だった。
──そして、その冷たささえ、徐々に消えていった。
◇◇◇◇◇◇◇
どれだけの時が流れたのか。
わからない。
──時間という概念が、ここにはなかった。
浮遊する意識だけが、かすかに“自分”という存在を留めていた。
感覚は希薄で、視界は曖昧。
けれど、完全な無ではなかった。
微かな音が、どこかから聞こえる。
──カラン……カラン……
まるでガラス片が落ちて砕けるような音。
否、それはもっと抽象的なものだった。
記憶、思考、感情。
自分という構造物が、音を立てて崩れていく──その音。
「……なにを……守ろうとしてた……?」
声が出たのか、思考が零れたのか、それさえも曖昧だった。
足場はない。空もない。
“上”も“下”も消え失せた空間に、ただ音と光が漂っていた。
──破片。
それは色彩だった。
誰かの笑顔の色、炎の色、血の色、空の色、涙の音。
──自分の人生の残滓。
それらが、ゆっくりと、音を立てて崩れていく。
伸ばしたい。
けれど、手がない。
意志だけが残り、肉体も記憶も、風化していく。
「……大事なもの……なんだった……?」
ひとつ、またひとつ。
想いが、指の隙間からこぼれ落ちていく。
──その時。
『……レ……ナ』
誰かが、呼んだ。
『レナ』
明瞭な声だった。
水面を打つ音のように、意識を揺らす。
『……ねぇ、起きてよ、レナ』
それは、どこまでもやわらかく、優しい声だった。
ゆっくりと、視界がひらく。
色が反転し、ぼやけた像が浮かぶ。
そこに、ひとりの少女がいた。
桃色の髪がゆるく揺れ、深く澄んだ蒼の瞳がこちらを見ていた。
「ああ……」
言葉にならない声が、喉奥で震えた。
「自我、かなり崩れてるね。でも、まだ話せそうでよかった」
その声は懐かしくて、どこか痛かった。
「……君は……」
「私のこと、覚えてない?」
少女は少し首をかしげたが、すぐにやわらかく笑う。
「そっか。まぁ、そうだよね。もうここは、“全部が崩れた後”だから」
レナは何かを言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
思い出せない。
名前も、過去も、少女との関係も──
「気にしなくていいよ。全部思い出す必要なんてないから」
少女は一歩近づく。
その動きすら幻想的で、まるで世界の“残光”そのもののようだった。
「ここは、世界の終わり。あらゆる秩序が壊れて、形を失った場所。でもね、レナの中だけは、まだ崩れきってなかった」
「……オレの……中……?」
「うん。レナの器は特別だから。だから私は、レナの意識に繋がってこれたの」
レナは問いかけようとする。
けれど、少女はそれを制した。
「いろいろ言いたいことはあると思うけど……ごめんね。長くはいられない。ここ、もうすぐ消えちゃうから」
そのとき、遠くでまた──パリン、と音がした。
世界の欠片が、またひとつ崩れた音。
「私たちは、間に合わなかった。守りたかったけど、守れなかった。でも、最後に……レナとだけは話したくて」
言葉はやわらかく、それでいて真っすぐだった。
少女は、レナの前まで歩み寄る。
その瞳の奥に、静かな炎のような意志があった。
「レナは、ほんとによくやったよ。誰よりも、世界のために戦った。私なんかより、ずっとずっと」
「……オレは…………」
声にならなかった。
泣きたかったのか。怒りたかったのか。
それすらも、もうよく分からない。
少女は静かに手を伸ばし、レナの頬に触れた。
その手は、確かに“温かかった”。
「だから、ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
レナの心の奥が、ひび割れる。
崩壊ではない。
その言葉は、確かに“救い”だった。
少女の指先が、そっと動く。
「ほんとはね、もっとたくさん話したかった。笑って、一緒に並んで歩いて……そういう未来があったらよかったのに」
少女は何も言わなかった。
ただ、そっとレナを包み込んだ。
その温もりの中で、すべてが許されていくようだった。
まるで深い眠りに落ちるように。
そして、わずかに顔を上げた少女が、唇を近づけた。
触れたのはほんの一瞬。
なのに、すべての感情がそこに込められていた。
パリン──
また、世界が割れた。
それが、最後の音だった。
少女の声が、静かに残る。
『ありがとう』
『世界を守ってくれてありがとう』
『世界を守れなくてごめんなさい』
『──さようなら』
──音が鳴り止んだ。
──そして世界は崩壊した。