悪魔の報酬
ヒロシはその日、全くついていなかった。
今日は日曜日だという夢を見て、すっかり寝過ごしてしまった。
みそ汁で御飯をかき込むようにして飲み込み、靴下も片方しか履かずに家を飛び出した。
学校までわずか5分であるが、車の通りの激しい道路が通学の途中にあるので、信号が青になるのを惜しむようにしてヒロシは道路を横断した。
当然彼は右から来たトラックに轢かれそうになり、運転手に怒鳴られた。
学校に着いてみると、始業ベルはとうの昔に鳴り終わっており、彼はホームルームの真っ只中に教室に辿り着いた。
彼は先生に怒られ、友達には片足が裸足なのを笑われた。その上、カバンの中身は金曜日の時間割のものしか入っておらず、英語の時間、彼は教科書を家に取りに行かされた。
家に帰ったヒロシは母親に忘れ物をした事を叱られた。彼は舌打ちしながら学校に戻った。
そしてお昼休み。
ヒロシは弁当箱が入っていない事に気づき、購買で何か買おうと思ったが、金も持っていなかった。彼は親友のマサオに金を借りてパンを2個と牛乳を買ったが、途中で階段から転げ落ち、パンはグチャグチャ、牛乳はパックが潰れて中身が全部流れ出てしまった。
下校時。
ヒロシはマサオと話しながら帰路についていた。
「全く、今日は朝からずっとロクな事がないぜ」
「ホントだな。お前、一体どうしたっていうんだろうな」
マサオは同情するような口ぶりだが、顔は笑っていた。ヒロシはムッとして、
「他人事だと思って笑いやがって。これでもう、俺、完全に期末試験ガタガタだよ」
「まァそう落ち込むなよ。お前の事だ、明日になればきれいさっぱり忘れてるって」
ヒロシはしばらく俯いて黙っていたが、
「ダメだよ。忘れられそうにないよ。ドジは毎度の事だから慣れっこだけど、あの子にまで笑われちまったもんなァ・・・」
「あの子って、菅原美樹子か?」
「ああ。もう俺、立ち直れないよ」
菅原美樹子とは、ヒロシのクラスのマドンナ的存在で、ヒロシの憧れの女性である。
「そうだな。でもあの女も冷たいよな。声こそ小さかったけど、随分いつまでも笑ってたぜ」
「ええっ!? ホントかよ?」
ヒロシは悲痛そうな目でマサオを見た。マサオは頷いて、
「ホントさ。嘘ついてどうするんだよ」
「ああ・・・。俺、何だか何もする気がなくなって来た・・・」
「どうしても立ち直れないか?」
「ああ。今日という日が取り戻せない限りはね」
ヒロシのその言葉にマサオはニヤリとした。そして、
「今日という日を取り戻せるとしたらどうする?」
と尋ねた。ヒロシは仰天してマサオを見た。
「できるのか、そんな事が?」
「ああ、できるとも。合わせ鏡って知ってるか?」
「合わせ鏡? 何だ、そりゃ?」
2人は立ち止まって道の端に寄った。マサオは辺りを窺うように見回してから、
「夜中の12時きっかりに合わせ鏡をすると、魔界と人間界が繋がって悪魔が現れるんだ」
と囁くように言った。ヒロシはまたムッとした。
「何だよ、真剣になって聞いたら、そんな事かよ」
「まァ怒るなよ。気晴らしだと思ってもう少し聞けよ」
マサオは笑いながら言った。ヒロシはそれでもムッとしたままだ。マサオは構わず話を続けた。
「それでな、悪魔が現れたら、願い事を言うんだ」
「フーン」
ヒロシは半ば呆れ顔で聞いていた。
「でも悪魔は必ず報酬を要求する。命とか、若さとかな」
「ああ」
「その代わり報酬を約束すれば、悪魔は必ず願いを叶えてくれる。下手な神社より効果があるぞ」
「うーん」
ヒロシはすでに藁にも縋る思いになっていた。嘘でもいいから試してみようと考え始めていた。するとマサオは大笑いして、
「おいおい、そんなに本気にするなよ。悪魔なんている訳ないだろ? さ、帰ろうぜ」
「あ、ああ・・・」
2人はまた歩き出した。
ヒロシは家に帰ると只今も言わずに二階の自分の部屋に行き、マサオの言った合わせ鏡の事を考えた。
( ホントに悪魔がいるのなら、今日という日が取り戻せるのになァ )
彼はボンヤリと窓の外を見た。
やがて夕食もすみ、ヒロシは部屋に戻って宿題に取りかかった。しかし、合わせ鏡の事がどうしても頭から離れない。
( 畜生、俺は一体何を考えてるんだ? 悪魔なんている訳がないっていうのに・・・ )
しかし、ヒロシは悪魔の存在を否定する自分と肯定する自分がいるのに気づき、訳が分からなくなっていた。
「迷うくらいならやってみた方がすっきりするか・・・」
彼はそう結論を出して合わせ鏡をしてみる事にした。
そういう決断をしてから、12時までは長く感じられた。
「・・・」
彼は母親の化粧台から持ち出した2枚の手鏡を見た。
時計の秒針が刻む時。ヒロシは思わず唾を呑んだ。
「今だ」
彼は12時ジャストに鏡を顔の前と後ろに手鏡を持って来た。
ヒロシは何故か腋の下や手の平にジットリと汗をかいていた。
「?」
鏡の中に自分の顔の連続が見えた。
秒針の音が部屋に響いた。何も起こった様子はなかった。
「バカだな、俺・・・。そんな事ある訳ないのにな」
「何がある訳ないのかね?」
誰かがヒロシの後ろで言った。ヒロシは背筋に悪寒が走った。それくらいその声は不気味な響きを持っていた。
「だ、誰だ!?」
ヒロシは恐怖に震えながらも振り向いた。
そこには天井に届くくらいの大きな男が立っていた。
男の身体は黒いマントで覆われており、顔は蒼白く、口は耳元まで裂け、目は鋭く吊り上がり、鼻は鷲の嘴のように尖っていた。
「ま、まさか・・・」
ヒロシはやっと声に出した。男は右膝を着いてヒロシに顔を近づけ、
「誰だとはご挨拶だな。たった今お前が私を呼んだのだろう?」
ヒロシはギョッとした。
「じゃ、じゃあ、悪魔なのか、あんた?」
「そのとおりだ」
男はニヤリとして立ち上がった。ヒロシは男を見上げて、
「で、でも角がない・・・。尻尾もない・・・」
「それは人間が考え出した悪魔だよ。本物はそんな姿はしていない」
男の声はまたヒロシを身震いさせるような響きだった。悪魔はフッと笑い、
「で、私を呼んだのは何のためだ?」
「願い事を聞いてもらうためだ」
ヒロシは絞り出すようにして言った。悪魔は厳しい表情で、
「良かろう。言ってみるがいい」
ヒロシは生唾を呑み込んで、
「今日を取り戻したい。今日をやり直したいんだ」
「そうか。正確にはもう昨日だな。いいだろう。但し、条件がある」
悪魔がそう言うと、ヒロシは慌てて、
「わかってるよ。報酬だろう? もちろん、報酬は払うさ。でも、命と若さはダメだ。他の何かにして欲しいんだ」
悪魔は暫くヒロシをジッと見ていたが、ニヤリとして、
「わかった。命と若さ以外のもの、だな?」
「そうだよ」
ヒロシは悪魔に拒否されると思ったが、そうならないようなのでホッとしていた。
「よし、報酬はそれでいい。さァ、もう眠れ。目覚めたらまた昨日の朝になっている」
悪魔はそう言うと姿を消した。ヒロシは呆然としたままベッドに入り、そのまま眠りに落ちた。
ヒロシは母親が階段を駆け上がって来る音で目を覚ました。
「ヒロシ、いつまで寝てるんだい? 日曜は昨日だったんだよ! 早く起きな!」
部屋のドアの向こうから大声が聞こえた。ヒロシは喜びに沸いて飛び起きた。
( やったぞ! あれは夢じゃなかったんだ! 俺はまた月曜にいるんだ! )
彼は急いで着替えをすませ、朝食も食べ、弁当も持って余裕をもって出かけた。
( へへへ。全てがうまくいってるぞ。良かった。これであの子にも笑われないですむ )
彼は得々として学校へ向かった。
遅刻をしなかったので先生には怒られなかったし、靴下を履いていたので友達にも笑われる事はなかった。
( そうだ。時間割は会わせて来なかったな。英語の教科書は隣のクラスの奴に借りるか )
こうしてヒロシはやり直した「今日」を無難に過ごし、大恥をかかずにすんだ。
そして帰り道。やはりヒロシはマサオと一緒だった。
「今日はついてたなァ。英語の教科書を忘れたのを思い出して、すぐに借りに行ってうまく切り抜けたし、あの子とも話ができたし・・・」
「あの子って、菅原美樹子か?」
「ああ」
ヒロシはニコニコしながら応えた。マサオは鼻で笑って、
「そんなに嬉しいのかよ、あんな女と話を出来た事がさ」
「何だよ、その言い方は? お前はあの子の事、嫌いなのか?」
「別に取り立てて好きって訳じゃないな」
マサオはすました顔で言った。ヒロシはその時、
( こいつが教えてくれたんだっけ。礼を言わないとな )
と思い出し、
「お前のおかげでうまくいったんだ。感謝してるよ」
「えっ? 何言ってんの? 大丈夫か、頭?」
マサオはヘラヘラ笑いながら尋ねた。ヒロシはハッとして、
( そうか、こいつはあの事を知らないマサオなんだ )
と気づき、
「あ、いや、何でもないよ。勘違いしたんだ」
「お前はドジだからなァ。今日ドジらなかったのが不思議なくらいだ」
マサオの言葉にヒロシは苦笑いした。
( そうさ。俺にとって「今日」はやり直している「今日」なんだ。ドジってたまるかよ )
そして夜になり、ヒロシは心ウキウキでベッドに入り、眠った。
翌朝・・・のはすだった。ヒロシは母親が階段を駆け上がって来る音で目を覚ました。
「ヒロシ、いつまで寝てるんだい!? 日曜は昨日だったんだよ! 早く起きな!」
ヒロシは驚愕して飛び起きた。
( バカな・・・。今日はもう火曜のはずだ。火曜だ・・・。今日は火曜のはずなんだ! )
ヒロシはベッドから出て、階段を駆け下り、母親を捕まえて、
「今日は何曜日? 火曜日だろ?」
すると母親は呆れて、
「何寝ぼけてるんだい? 今日は月曜! しっかり顔洗って目ェ覚ましな」
「そ、そんな・・・。そんな事って・・・」
ヒロシは目眩を起こしてその場に倒れてしまった。
「ヒロシ! ヒロシ! どうしたんだい?」
叫ぶ母親の顔がいくつもにも見え、グルグル回り出した。やがて彼は気を失った。
ヒロシは真っ暗な空間で気がついた。彼は頭を左右に振り、ボンヤリとした眼をこすり、辺りを見回した。しかし見えるのは暗闇だけだった。
「ここは・・・?」
ヒロシがそう呟いた。するとその時、遥か前方から蝋燭の明かりが近づいて来た。光はやがてその持ち主の姿をくっきりと映し出した。それはヒロシが呼び出した悪魔だった。ヒロシは恐怖より先に怒りが湧き、悪魔を睨みつけて、
「酷いじゃないか! また月曜日だなんて・・・。やり直しの今日は1日だけでいいんだ。早く何とかしてくれ」
と言い放った。すると悪魔はニヤリとして、
「私はお前の提示した報酬を貰っただけだ。その結果、こういう事になったのだ」
「何だって? 一体どういう事なんだよ?」
ヒロシには何が何だかさっぱりわからなかった。悪魔は蝋燭の明かりをヒロシに近づけて、
「お前は、命と若さを奪うなと言った。命も若さも奪ってはいけないのなら、お前を一定の時間内に留めるしかなかろう」
「そ、そんな・・・」
ヒロシは自分が言った事が原因になっていると知って、頭をガンと殴られたような衝撃を受けた。
「私はお前の要求を呑み、報酬をもらった。私とお前との契約はこれで完了した。後はお前がどうするか考えろ」
悪魔はそう言うと、高笑いをして闇の彼方に消えてしまった。
「お、俺は取り返しのつかない事をしてしまったのか・・・?」
ヒロシの耳にまた母親が階段を駆け上がる音が聞こえて来た。そしてヒロシは目を覚ました。彼はベッドの中にいた。
「ヒロシ、いつまで寝てるんだい!? 日曜は昨日だったんだよ! 早く起きな!」
母親の声が聞こえた。ヒロシは布団を被った。
( 今日は水曜だ! 水曜のはずだ! )
それはヒロシの断末魔にも思えた。