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新しい風



「名前で呼んでも?」


「え?えぇ…」


「じゃあ、美月…」


狼狽と困惑と羞恥が絶妙にブレンドされた、なんともいえない表情。


「…さん」


ニヤリと笑って見せると、彼女はもう!と心持ち頬を膨らませた。


「俺ばっかり名前で呼んでちゃフェアじゃないから、君も聡一郎って呼んでくれていいぜ。

もちろん公私の別はつけるから」

 


 ~聡一郎~



前の会社で借り上げていたアパートを追い出されてしまった彼女を、半ば強引に我が家に連れ帰り、何だかんだと口実をつけて半同棲状態に持ち込んで1ヶ月。


とはいえ広い屋敷のどこにいても、2人きりになれる事はまずなかった。

爺を筆頭に住込みの家政婦やら運転手やら、監視の目には事欠かない。


社長である俺が、間違っても「愚かな過ち」を犯さない為に。


親父からそう厳命されているのかもしれない。

別に俺としても彼女と今以上の関係になるつもりは(今の所)なかったので、それはそれで一向に構わなかったが。



美月は予想以上に良い秘書になりそうだ。

素直で飲み込みも早く、同じ質問を何度もしないし応用もきく。


大人な受け答えをして見せたかと思うと、はにかんだように微笑み、時に手厳しく意見を述べる。



——彼女の怒った顔もまた可愛いんだよな。

等と考えながら適当に返事をしたり、懲りずにちょっかいを出したり。


そのたびに、彼女は呆れたように溜息をついた。

そんな呆れたような困った表情が見たくて同じ事を繰り返すのだから、始末が悪い。

けれど本気で怒っている訳でもなさそうなので、まぁいいかと思っていたりする。


概ね家の者も社の人間も、彼女を受け入れ新しい生活が始まろうとしていた。



…とはいえ、問題が全くない訳ではない。


「こちらの方が本城さんですね」


初めて彼女を伴って社へ向かうと、社長室には爺が待ち構えていた。

前もって連絡しておいたので、余計な事は何も口にしなかったが…控えめながら値踏みするような視線は、なかなか容赦がなかった。


「君の直接の上司になる木嶋 謙介だ。

わからない事はなんでも彼に聞くといい」


「初めまして、本城 美月です。

どうぞよろしくお願いいたします」


ペコリと頭を下げた葵を爺はギロリと睨みつけただけだった。



——どこの馬の骨?


そう思っているであろう事は、長い付き合いで手に取るように分かる。

どうせちょっと「可愛がって」やればすぐに逃げ出すだろう、くらいに高を括っている事も。


しかし意外にも、というべきか。

美月は逃げ出すどころか弱音1つ吐かなかった。

砂地に水が染み込んでいくように教えられた事を吸収し、前向きに受け止め決してへこたれない。

1を聞いて2も3も理解し、先を読んで確実に業務をこなす。


予想以上に、そして嬉しい事に彼女は優秀な人材だった。



けれど俺は知っている。


彼女はとても口では言い表せないような努力をしているという事を。

そしてそれを決して表には出さないという事も。


我が社の企業としてのデータは勿論、主だった部署や幹部。

そして必要とあればその個人的なデータも、彼女は3日目には空で言えるようになっていた。

国内でも有数の大企業と言われるわが社の、膨大な従業員をだ。


その上、秘書検定の勉強まで始めているとか。

実務経験の無さをカバーする為なのだろうが、正直頑張り過ぎだ。



——一体いつ、寝ているのだろう?


夜中に目が覚めて、何気なく彼女の部屋の前を通りかかった時、ドアの隙間から部屋の灯りが漏れ出るのに気が付いたのはまさしく偶然だった。


「美月…?」


3時は回っていただろう。

消し忘れかと思いつつノックしたが、返事はなかった。


「開けるぞ」


一応断ってから扉をそっと開けて中に入ると、美月は備付けのデスクに突っ伏して眠っていた。


デスクの上には膨大な資料が山積み。

慣れない仕事で疲れているだろうに、その上こんなに「宿題」を出されて。

秘書として彼女が覚えなければならない事は文字通り山ほどあって、それは彼女の仕事であって俺が気に病む必要など、どこにもないのだが。


無防備な寝顔に色濃く写る疲労の陰。

こんな所で寝てちゃ疲れも取れないだろう、とも思ったがよく眠っているのに起こすのも忍びないので、着ていたガウンを肩に掛けそっと部屋を出た。





 ~美月~



「別に好意を抱いてなくとも知り合いの、特に妙齢の女性が困っていたとしたら普通、手を差し伸べるだろ?

男として当然」


「だとしたら、社内の全女性社員を助けて回らなきゃならない訳ですし、とてもお忙しい事でしょうね」


嫌味のつもりはなかった。

けれど自分でも持て余すような訳の分からない感情のまま、口にする。


「いやぁ、それほどでも」


しかしあっさりと流され、余計にイライラが募った。


「けどさ、本城がもし俺の助けを必要としてくれていたら、何があっても何を差し置いてでも駆けつけるぜ」


綺麗に片目を瞑ってみせる目の前の男性に、正直空いた口が塞がらない。


「あ、今ロクでもない男って思っただろ?」


まさに図星だったが、さすがに肯定も出来ず黙って目を逸らすと「つれないなぁ」と神崎さんは苦笑した。



ここに来て1ヶ月。


ほぼ丸1日彼の傍にいて、分かった事がある。


彼がとてもフェミニストだという事。

そしてご自分の会社のみならず、関連企業を含めた神崎グループのほぼ全女性社員から憧れられている存在だという事。


そりゃ社のトップなんだから、彼の顔も名前も知られていて当然なのだけど…。

彼の醸し出すオーラというかフェロモンのような物は、それはすごい効き目なのだ。


そりゃ背も高く文句なしにカッコいい爽やかな2枚目で、優しくて。

加えて大企業の若社長ともなれば、玉の輿を狙ってみたくなるのも無理はない事だと思う。


そして彼も自分がどう見えるか、どう振舞えば喜ばれるか知り尽くし十ニ分に意識しながら、理想の若社長像を演じている。

…そんな気がしてならない。



何だか…そう、あの時ゲレンデで私を助けてくれた彼と、今私の目の前にいる彼があまりにもかけ離れているような。

そんな気さえしてくるのだ。


そりゃ彼の何を知っているのかと言われれば、私は何も知らないと言う他はない。

それでも、どこか無理をしているようにも見える彼が痛々しくて。

何か私に出来る事があれば…とそんな事ばかり考えるようになっていた。



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