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お茶の効能


待っているという言葉を思い出すまで、しばらくかかってしまった。

やや熱めの湯を頭から浴び、隅々まで身体を清める。


幸い…といっていいのか、印はそれ以外見つからなかった。


髪を乾かし身支度を整えて、クリーニングに出していたらしい清潔な服に袖を通すと、リビングとやらのドアを開ける。


同時にこちらに背を向けて座っていた神崎さんが、振り向きざまホッとしたような笑みを浮かべた。

その子供のように邪気のない笑顔に見とれかけ、そんな場合ではなかったのだと気を引き締める。


「待ってるって言ったけれど、時間かかったみたいだし。

大丈夫か?美月」



——美月…?


何でいきなり、名前なんですか?

しかも呼び捨て。


まじまじと見つめる私の視線を物ともせず、全開の笑顔で


「おはようのキス」

なんて言いながら顔を寄せてくるものだから、慌てて両腕を突っ張る。


「ちょっ…待って!

待ってください、神崎さん?」


「美月?」

訝しげな低い声が耳元を掠め、いつの間にか腰に回されていた腕の力が僅かに緩む。

その隙に何とか身を捩って抜け出すと、一気にドアの所まで後ずさった。


「あのっ…申し訳ないんですけど、私、何も覚えていなくて…」


恥ずかしい!

穴があったら入りたいとは、まさしくこの事だわ。

酔った勢いで男の人と…なんて、何たる大失態。

しかもそれを覚えていない、なんて。


「覚えて、いない?」


きょとんと見つめる神崎さんと、どうしても目を合わせる事が出来ない。



「えぇ。なので…その、私…?」


断片的な問いかけ、しかも何を聞きたいのかすら分からない言葉の羅列でしかなかったというのに。


あぁ、というように1つ頷くと神崎さんは真顔で尋ねてきた。


「挨拶代わりのキスでもダメ?」


トントンとほっぺたを指でさす彼の仕草に、頭の中が真っ白になる。

どうも話が噛み合わない、なんて冷静に考えている余裕、ある訳がなかった。


「え…と、あまりそういうスキンシップは…しないというか。

そのぅ…しなくもないんですけど、恥ずかしいというか」


しどろもどろになりながら、何とか言葉を紡ぐ私の隙を突いて、ふわりと空気が動いた。


触れるだけの優しいキス。


「あのっ…」


「ホントは、こっちが良かったんだけど」

唇に人差し指が軽く押し当てられる。


「神崎さんっ!」


それでなくても朝っぱらから、動揺しまくりだというのに。

きっと耳まで真っ赤に違いない…。


恨みがましい視線を向けると、神崎さんはとりなすように


「じゃあ状況確認を含めて朝食にしよう。

大丈夫、そんな顔しなくても取って食いやしないから」

と笑った。



ほら、と指し示された先には美味しそうな朝食がずらり。


「モーニングを頼んでおいたんだ」


食パンの入った籠には、数種類のジャムとバターが添えられている。

サラダボウルにはたっぷりのレタスに、綺麗に飾り切りされたきゅうりとセロリ、プチトマトと数種類のビーンズ。

メインは柔らかそうなオムレツとカリカリに焼いてあるベーコン、グラッセされたニンジンとポテトサラダ。

デザートには何種類ものフルーツとヨーグルト。


そして人数分用意された茶器。

現金なもので美味しそうな匂いに食欲が刺激される。


食べ物でごまかされるなんて…甚だ不本意ではあるけれど、沸き起こってきた欲求の前になす術もなかった。


「さぁ、どうぞ」


促されるまま席に着く。

椅子を引いてもらうなんて、初めてかも。


「コーヒー?紅茶?」


「あ、私入れます」


「いいの、お客様は座ってて」


慌てて立てあがろうとする私を片手で制し、器用に片目だけ瞑ってみせる。

そんな仕草がまた、いかにもというほど決まっていて…。


「じゃあ紅茶を、お願いします」


「了解」


言いながら、慣れた手つきで茶葉をポットに入れ、沸騰したての湯を注ぐ。

その流れるような無駄のない仕草は、思わず溜息が出るほど優雅だった。


何気ない仕草が洗練されていて、立ち居振る舞いの全てに隙がなくて…この人は一体どういう人なんだろう?


「お先にどうぞ」


見とれていたのに気付いたのか、嬉しそうに目を細めパンを取り分けてくれる。

食べながら話をするうちに途切れ途切れではあったれど、昨晩の事を思い出してきた。



* * *



昨日の晩はかなりお酒が過ぎてしまったようだ。


けれど嫌な事は全部忘れてしまうくらい、神崎さんと過ごす時間はとても楽しかった。

初対面なのに気の置けない、昔からの友達のように打ち解けた空気が心地良い。


軽薄にならないぎりぎりの人懐っこさも、そうと悟られないように、けれど実は計算されている気遣いも、時折見せる鷹揚さも。

全ていつもなら鼻持ちならない類の物と敬遠してきたものだけど。

でも彼がやると不思議と嫌味にならなかった。


それに堅苦し過ぎず、かといって下世話でもない話題と、人を飽きさせない話術。


時間なんてすぐに忘れてしまっていた。

その上、事の顛末を聞いた彼は仕事を失った私に新しい仕事を紹介してくれたのだった。


神崎グループの若社長…つまり自分の秘書、として。




「どうして、こんなに良くして下さるんですか?

殆ど初対面の、特に親しくもない私に」


言いながら、嫌な考えが頭の隅を掠めた。

いや、でもまさか…。

とっさに浮かんだ考えを打ち消しながらも身構えていると


「君の淹れてくれたお茶がおいしかったから」


「……は?」


思いもよらない答えに頭の中が真っ白になる。


「お茶…ですか?」



——いつ、どこで?

全く思い出せないんですけど?


訝しげな表情に気付いたのか、くすりと笑いながら


「昨日の晩、喉が渇いたと言ったら君が淹れてくれたんだ」


と神崎さんは教えてくれた。


「美味い茶を淹れられるような細やかな心配りが出来る人なら、どんな仕事を任せてもまず大丈夫だから」


味の善し悪しなんかどうでもいいと、ただ飲めりゃいいと言われた事はあっても、美味しいと褒められた事は前の社では1度もなかった。


それでもお客様に、そして同僚達に少しでもホッと一息ついてもらえたら。

そう思ってと湯温や茶葉の量、蒸らし時間等を工夫したのがこんな形で認められるなんて、夢にも思わなかった。



——私の過ごしてきた3年が無駄ではなかったのだ。


暗にそう言われた気がして、嬉しくてホッとして不意に目の奥がジンとした。

瞬きをしながら目に力を込めて、涙が溢れ出るのを堪える。


同時に先ほどの浅はかな考えがとても恥ずかしくて、私は視線を手元のカップに落とした。



「思い出した?」


「え、いえ、…でも、本当に?」


おずおずと顔を上げると


「こんな美人と仕事出来るんだったら、俺バリバリ頑張っちゃうぜ?」


鮮やかにウィンクを1つ決め、神崎さんは手を差し出した。



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