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22/22

未来へ


「美月さん!」


鏡越しに私を見つけ、パッと振り向いたはるかさんの顔は、まさしく幸せな花嫁そのものだった。


「今日は来て下さってありがとうございます」


「あら、順序が逆になっちゃったわね。

こちらこそお招きありがとう。

本当に綺麗よ、はるかさん、おめでとう」


「美月さ…ん」



どうやら既に彼女の涙腺は崩壊寸前だったらしい。

パチパチと瞬きをしてやり過ごそうとするものの、堪えきれなかった涙が一筋頬を伝って零れ落ちた。


「やだ…私ったら、ごめんなさい」


謝罪の言葉を口にしながらも微笑むはるかさんは、とても幸せそうだった。


そこにはもう、あの頃の諦めや哀しみの影は見当たらない。



「幸せなのね」


「…えぇ、幸せすぎて怖いくらい。

だって、あの玲が人が変わったみたいに優しくて」



確かに。

新郎の、いつも眉間に皺を寄せているような仏頂面を思い出し、私は笑みを噛み殺した。


「それだけはるかさんを大切に思ってくれている、という事ね。

もちろん、貴女だけじゃないのでしょうけれど、彼の大切な人は」



彼女の隣には、2人の絆の証がすやすやと眠っている。

そんな我が子をはるかさんはこの上なく愛しげにみつめ、そして思い出したようにクスクス笑い出した。


「そういえばこの子が生まれた時、玲ったら大変だったんですよ。

男の子だって聞いていたのに、実際に生まれてみたら女の子で。

名前だって男の子のしか考えていなかったものだから、女の子って分かった途端、ものすごく動揺しちゃって」



今から嫁には出さんとか、本気で言い出したらどうしましょう?と真顔で心配するはるかさんの言葉に、思わず笑い出してしまう。


もっと色々な話をしたかったのだけど。

私だけが幸せな花嫁を独占していられる筈もなく。

彼女をそっと抱きしめると、次から次へとやってくる訪問客と入れ替わりに控え室を出た。



* * *



結局、神崎グループは関連企業を含むその大半を失った。


それでもあの一筋縄でいかない連中にとってでさえ、神崎グループは手に余るターゲットであったらしい。

内部のかなり深い所まで食い込み、取り崩す事には成功したものの、完全に奪いつくすには至らなかった。


それでも、グループ内のいくつかの業種は藍沢コーポレーションに飲み込まれ、また本社のいくつかの部署は規模の縮小、あるいは撤退という事態に追い込まれた。


閉鎖せざるをえない施設も多数売却され、実質聡一郎さんの手元に残ったのは神崎ホテルだけであった。


飴に群がる蟻のように、聡一郎さんの周りにいた人達も彼の元を離れていき、神崎グループという後ろ盾を失った聡一郎さんは、急激に人々の関心を失いつつあった。


ただの1企業となってしまった今、神崎のネームバリューはかつてほどの意味を持たなくなったのだ。


けれどその事実を、聡一郎さんはすっきりとした表情で受け止めた。

その表情には、少なくとも一点の曇りも感じられなかった。



もっとも…そんな事を気にしている余裕など、なかったという方が正しいのかもしれない。


グループ全体の縮小に伴いリストラを余儀なくされ、そんな関係者の為にこの1年、聡一郎さんは死に物狂いで頑張ってきた。

彼がすべき事は文字通り山のようにあった。

おそらくは身体も、そして心も休まる事のない毎日であった事だろう。


それでも彼の父親が守ろうとしていた物を守る為、寝る間も惜しんで奔走し手を尽くした。



しかし、毎日のその繁忙さからは信じられない位、彼は生き生きとしていた。

実際、かつての聡一郎さんの信じられないくらい窮屈な、報われない日々を知っている私から見ても、今の彼は多忙を極めながらも充実した毎日を送っているように見える。



あの時、聡一郎さんは最後の肉親である父親も、富も名誉もプライドも権力も全てを失った。


けれどその代わりに得た物も、確かにあった。


彼を信じ、ついてきてくれた今の社員達。

彼の力となり、支えてくれた仲間達。

そして長い事、彼の父親代わりとして共に過ごしてきた木嶋さんも、最後まで彼を見捨てるような事はしなかった。


彼らの協力のおかげもあってグループを失って1年がたった今、何とかかつての関係者に対する償いも終える事が出来た。

同時に、神崎ホテルの経営はようやく軌道に乗り始めた。



そんな聡一郎さんの為に私ができる事は…思う以上に少なかった。

不規則になりがちなというか、不規則の見本のような生活を送る彼にせめてバランスのよい食事を採らせる事。


可能な限り身体を休ませる事。


けれど、そんな当たり前の事でさえも彼は後回しにしがちで、その度に私は自分の非力さを思い知らされた。

彼の身体を案ずるあまり、口論になる事もしばしばだった。


もっとも…口論の後は大抵、疲れている聡一郎さんを労わるどころか責める様な事を言ってしまった事を、深く後悔したのだけど。


それでも彼は私の気持ちを汲んで、出来るだけ規則正しい食事を心がけてくれたし、私の言い分にも耳を傾けてくれた。



でも…だからこそ。

このままでは駄目だと思うようになっていた。


本気で彼の傍に在り続けたいと願うのなら、ただ守られ傍にいるだけでは…いつか彼の負担になってしまう。


プライベートにおいても、そしてビジネスの上でも彼を助け支え寄り添っていきたい。

その為には今のままでは駄目なのだ。


かつて彼の傍らで、秘書として勤めていた事がある。

けれど専門的な知識も技能もない私にとって、どんなに一生懸命こなしていたとしても、あくまで真似事のような物だった。


木嶋さんが影でフォローして下さったから、何とかやってこれたのだ。



その事を相談すると、木嶋さんは


「ならばきちんと学び、正式な秘書の資格を取って彼を支えてあげなさい」


と背中を押してくれた。

木嶋さんの言葉に、私は秘書として、また妻として聡一郎さんと共に歩む決心がついた。


そしてその事は、勿論聡一郎さんも賛成してくれた。


おかげで今ではプライベートにおいてもビジネスにおいても、彼と足並みを揃えパートナーとして、いつも傍にいる事が出来る。

 


* * *



夕方から始まる披露宴が、夜遅くまで終わらないのを見越して、聡一郎さんはあらかじめホテルの1室を予約しておいてくれた。


最初、私が予約をしようと思っていたのだけど。

「いいから任せて」

とやけに爽やかな笑顔で押し切られ、彼にお願いしたのだ。


そして私達は仲間から、今回の披露宴を含め3日間の休みをいただいていた。


それは聡一郎さんにとって、1年ぶりに手にした休日で、この日の為に彼は色々と計画を立てていた。

勿論その詳細は、一切教えてはもらえなかったけれど。



二次会もお開きとなり、私達は彼が予約してくれた部屋へと戻った。

何気なくドアを開けた途端、私は言葉を失った。


1番最初にこの部屋に入った時には、まだ明るかったせいもあって気付かなかったけど、大きな窓の向こうに見える夜景に思わず息を呑んだ。

灯りをつけずに歩み寄り、煌めく光の海をうっとりと見つめる。



「美月?」


後ろからやんわりと抱きすくめられ、不意に忘れてしまっていた彼の存在を思い出した。


「綺麗ね」


「美月の次くらいには、ね」


身体を預けるように寄り添った私のむき出しの肩に、不意に彼の唇が触れた。


「っ!」


振り向くと、聡一郎さんが真剣な眼差しで私を見つめていた。

彼の瞳の奥に宿る、紛れもない焔に背筋がぞくりと震える。

これから起こるであろう事態を予測した途端、今まで素晴らしいと思っていた夜景が、急激に色褪せて見えた。



この1年間、彼とそういった関係にはならなかった。

彼が忙しすぎたのが最大の理由だったのだけど。

彼は時間をかけてゆっくりと、私が彼の傍らに在るのが自然であると、周囲にそして私自身に認め受け入れさせてくれた。



「美月…」


言葉にならない声に促され目を閉じると、掠めるようなキスが落とされた。

けれど、それはすぐに息も出来ないほど情熱的なものに変わる。



「っ…んぅ…」


甘い痺れが全身を駆け巡り、思わず彼の服に縋りつく。


「美月ったら可愛い。

そんな可愛い声出されると、俺もう我慢できなくなっちゃうよ?」


スッと目を細めた仕草にドキリと胸が高鳴る。


「んっ…聡一郎、さん」


「じゃなくて、聡一郎」


重ねられた唇の間から漏れ出る吐息のような無声音。



けれど絶対的な力を秘めた声色に、身体が支配されていく。


「聡、一郎」


よく出来ました、といわんばかりに優しいキスの雨が降る。


もう言葉なんて必要なかった。

ただ欲するまま、互いを求めあい時を重ねるだけで…。




めくるめく嵐のような一時が過ぎた後。


お互いに呼吸が落ち着くと、聡一郎は私の頭の下に腕を差し入れ、優しく包み込んでくれた。

そのまま何度も頭を撫ぜてくれる。

まだ少し汗ばんでいる彼の胸に頭を押付け、大好きな人の腕に抱かれながら私はうっとりと目を閉じていた。



「美月?」


低い、心持ち掠れた声に顔をあげると


「これで名実ともに、美月は俺のモノだからな」


と宣言し、聡一郎は満足そうに私の額に口づけた。


そんな男の所有欲丸出しの発言にさえも、幸せになれてしまうなんて。

けれど「これで」という部分に引っかかりを感じ


「あの…聡一郎、これでって…?」

と訊ねてみる。


彼の言うのが「身」も「心」も、という意味ならば…確かスキー場の1件後、再会したあの夜に。



「あぁ、今まで我慢に我慢を重ねてきたけれど、やっと美月と1つになれた訳だし」



——は…い?

って、えぇっ!?



「だって…あの時」


思わずまじまじと見つめてしまった。


「もしかして、あの時の事を気にしてるのか?

だってあの時は、君途中で寝ちゃったから。

いくらなんでも、腕の中であぁまで無防備に寝られちゃ、手は出せないだろ?」


「じゃあ…最初から何もなかったというの?」



あの晩の事は、彼にとっても私にとっても、出来ればなかった事にしてしまいたい過ちだと……ずっとそう思ってきた。

彼の好意を感じつつ素直になれなかったのも、神崎の名に慄いたせいでもあったのだけど、あの晩のせいでもあったのだ。


それが…何もなかった、だなんて。

口をパクパクさせている私を聡一郎は、意外にも真摯な表情で見つめた。


「じゃあ、私が勘違いしてるって…」


「うん、それはわかってた。

でも…ごめん。

それで君を繋ぎとめておけるなら、と卑怯な事を考えた。

君に仕事を紹介したのだって、秘書にしたのだって今思えばただ一緒にいたかったからだ。 

だけど最初にあんな事があったから、君は仕方なく俺に従ってくれているのかとも思っていた」



突然の告白に、頭の中が真っ白になる。


「…騙すつもりじゃなかったんだ。

いや、結果的に騙してしまった事は素直に認めるし、この通り謝るよ。

だけど、あの時には既に君に惹かれていたから。

だから1回や2回抱けた所でそれっきりなんて、それじゃ意味のない事だし。

まぁ成り行きにかなり流されそうになった事は認めるけど、俺としては理性を総動員して堪えた訳。

もっとも…酔った君に手を出して、嫌われたくなかったっていうのもあるんだけどな。


でも…怒っているよな?

ホント、ごめん今更で。

君が怒るのも無理はない。

今だって、君を抱く前にきちんと話をしなければならない事だったのに、俺はそうはしなかった。

君との絆を確かな物にしたかった。

卑怯だと分かっていたのに、そうして外堀を埋めてからでないと、君に告げる勇気が無かったんだ。


俺は…君に嫌われたって仕方のない事を、俺はしたんだ」


「ちょっ…ちょっと待って」



突如始まってしまった聡一郎の懺悔に押し流され、話が妙な方向へ逸れていきそうになるのを、必死で押し留める。


「私、あなたを嫌ってなんかいない。

それにあなたが私を放り出せなかったのだって、てっきり……責任を感じて面倒を見てくれているのかと。

いえ、あなたの気持ちを疑っている訳じゃないのよ。

でもあんな始まり方だったし」


私の言葉に眉を下げ、まるで叱られた子どものように情けない表情を浮かべると、彼はもう1度


「ごめん」

と囁いた。



「怒っている訳じゃないのよ。

だってあなた、一生黙っている事だって出来た筈でしょう。

けれどそうしなかったという事は、それだけ真剣だから、本当に私を愛してくれているから、嘘をつきたくなかったと、そういう事なのでしょう?」



必死に言い募る私を、唖然とした顔で見つめていた聡一郎だったけれど…。

ややあって、少しホッとしたようにクスクスと笑い出した。


「なんか、お互い告白タイム?」


彼の心底嬉しそうな様子に、私は自分がどれだけ恥ずかしい事を言ったのか思い出し、顔から火を噴きそうになる。


「…あ、あの…ね」


「ありがとう、美月」


口を開いた私を制するように、聡一郎はもう1度私をきつく抱きしめた。


「ホント、ごめん。

もう2度と君に嘘をつかないと誓うよ」


「…ありがとう、あなたの言葉を信じるわ」



突然、分かった気がした。


この人も普通の男性なんだ。

そう、私以外の人には決して見せはしないだろうけど。


日頃の自信に満ちた態度の裏で、やはり迷いもするし不安にもなる。

そんな当たり前の事実に今更ながら気付かされ、その事に安堵感さえ感じていた。



これでやっと…本当のスタートラインに立てたのだ。


そんな気がして、私は彼の顔を見上げにっこりと微笑んだ。


「これからもよろしくね、旦那様」


「美月…!」


絶句したまま、私の顔を穴が開くくらい見つめていた聡一郎は感極まったように私を抱きしめた。



「苦労かけるぜ」


「あなたとならどんな苦労だって楽しいです、きっと」


「逃げ出したり隠れたりしたくなるかもしれない」


「その時はあなたの背中に隠れるわ」


「贅沢だって当分出来そうにない」


「贅沢したくてあなたを選んだ訳じゃ、ありませんから」


「結婚式…ちゃんと挙げさせてやれない」


「今は無理でも落ち着いたら、内輪でしましょう。

その為にも今は頑張らないと」


「…君ってホント、いい女だな」


「あら、今頃気付いたんですか?」



優しいキスの合間に、笑いながら言葉を交わす。



「あの頃、俺は『変わる』事を期待していた。

ただ待っているだけだった。


でも今なら分かる。

変わる事を、ただ待っていちゃダメなんだって。

本当に変えたいのなら、自分から変えていかなくちゃならないってな」


「あなたとなら、一緒に変わっていくのも楽しそうね」



見つめる瞳はとろけそうな程優しいのに、思わず嫌な予感がよぎる。



「ちょっ…聡一郎!」


「大丈夫、夜は長いんだから」


明確な目的を持って動き出す手に、唇に、またしても体中の熱が高められていく。


「やぁ…っ!」


「美月の気持ちも聞いたし、もう遠慮しないから」


「遠慮…してたの?」



だから今日までは、お行儀よくキスまでで我慢していただろ?と嘯かれ。


先刻までのしおらしさが嘘のような強引さで事を進めていく聡一郎に、なす術もなく流されていく。




そしてその後は…。

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