想う心
救急車の中で意識を失った神崎会長は、すぐにICUに運ばれた。
そして長い検査の結果、容態は思っていた以上に深刻である事がわかった。
ICU前に集まった重役達も、10数時間にも及ぶ検査と手術の途中、何かあったら連絡するようにとの言葉を残し1人2人と減り。
最終的に、聡一郎さんと私だけとなってしまった。
手術の間、聡一郎さんは長椅子に腰を下ろし、祈るように両手を組み合わせたままピクリとも動かなかった。
焦点の合わない彼の瞳の奥に、どうしようもない不安の影が時折りよぎる。
今のこの状況で、彼の為にしてあげられる事が何1つないという事が歯痒く、又もどかしく。
あまりの痛々しさに彼の肩に手を置いた途端、向けられた縋りつくような眼差しに思わず手を差し伸べていた。
「美月…」
震える声に胸が締め付けられるようにキリキリと痛む。
「…大丈夫。聡一郎さん、大丈夫だから」
長い間、彼を守るように抱きしめていた。
彼の父親が助かるように。
彼とまたちゃんと話が出来るように。
ただそれだけを祈りながら。
手術中のランプがフッと消えた瞬間、聡一郎さんの体が小さく震えた。
中から出てきた医師がゆっくりと歩み寄ってくるのを、半ば呆然と見つめている。
「親父は…?」
「手術は上手く行きました。
詳細は後ほど説明に窺います」
手術は上手く行ったとの言葉に、涙が出そうなくらい安堵する。
けれど医師の固い表情に、聡一郎さんは顔を強張らせたままだった。
そして、ICUに移された会長は手術が成功したとはいえ、意識も戻らず未だ危険な状態である事に変わりはなかった。
とりあえずここ数日が山という説明に、聡一郎さんは表情を曇らせた。
「頭部の血管は細く複雑に入り組んでいます。
しかも今回出血の場所が非常に悪かったのです。
幸いにも、手術により出血を止める事には成功しました。
しかし他の箇所からいつ又出血するかわからない状態でして…」
「…父を、よろしくお願いします」
絞り出すように言い頭を下げる聡一郎さんを、医師は同情の篭った眼差しで見つめていた。
人気のないICU前の長椅子に、沈み込むように腰を下ろした聡一郎さんの疲れた表情に、一睡もしていないどころか食事さえしていない事を思い出し
「聡一郎さん、何か食べる物を買ってきますので少しお休みになってください」
近くのコンビニに買出しに出ようと声をかけた。
けれど財布を持った手を掴み無言で首を振る彼の様子に思い直し、再び隣に腰を下ろす。
会長が倒れてから、実に20時間が過ぎていた。
早朝の病院内はとても静かで、そして空調が効いている筈なのにどこか寒々しい。
眠気も空腹も感じないくらい聡一郎さんも、そして私も心が張り詰めていた。
その時、静かな病院内に突然携帯の振動音が鳴り響いた。
最低限の音量とはいえ、そういえば電源を落とす余裕すらなかったのだ、と思い出す。
慌てて通話ボタンを押し、声を潜めながら話す聡一郎さんの後ろ姿を見つめつつ、ふと途轍もなく嫌な予感が胸を掠めた。
「…何だって!」
押し殺された怒声に、ますます嫌な予感は膨らむ。
通話を終え振り向いた彼の顔に浮かぶ激しい怒りと焦燥に、予感の的中を悟る。
「悪いが美月はここにいて、何かあったら知らせてくれ」
「何か…あったんですね?」
「サイアクだ。
奴ら好機とばかりに、うちの株を買い占めているらしい」
——なんて酷い!
このタイミングで事を起こす藍沢コーポレーションに対し、憤りを通り越して憎しみすら覚える。
買収された役員達の持ち分を含め、筆頭株主にでもなられた暁には。
間違いなく藍沢会長や聡一郎さんを含む、現役員の殆どが更迭されるだろう。
箍を失った神崎グループは、バラバラに解体されてしまうに違いない。
険しい表情の聡一郎さんは既に策を練り始めているようだった。
「わかりました、あの……」
既に十分すぎるほど頑張ってきた彼に。
これから窮地に立たされる彼に。
これ以上、頑張れなんて言える筈もなく…。
言葉を捜す私に、分かっているという風に聡一郎さんは頷いた。
「親父の為に、うちのグループで働く皆の為に、そして何より俺自身の為にやれる事をするだけだ。
それに美月、君がいてくれるから俺は頑張れるんだ。
だからそんな顔するなって」
宥めるように頬に1つ、触れるだけのキスを落として離れていこうとする彼の腕を咄嗟に掴んでいた。
「…え?」
腕を伸ばし頭を抱え込むようにして、彼の唇を私の唇に押し付ける。
——頑張って。
でも無茶はしないで。
言葉に出来ない想いを込めて彼の目を見つめ、そして身体を離す。
* * *
予想以上に藍沢の侵攻は素早かった。
気付いた時には既に、手の打ちようもない程グループ内の奥深くに入り込まれていた。
それでも聡一郎さんは必死に踏ん張った。
最初の3日は文字通り、不眠不休で対応に追われていた。
しかし初めから不利であった神崎グループが、彼1人の奔走で持ち直すとも思えず。
会長という要を欠いたグループは一気に傾き、毎日ほんの僅かな時間であっても病室に顔を出す聡一郎さんの顔色は、日に日に悪くなっていった。
そして…その時は突然訪れた。
会長の容態が急変したのは、私が医師に呼ばれ席を外していた時だった。
バタバタと駆け込んできた看護士の言葉に一瞬、心臓が止まるかと思った。
慌てて部屋を飛び出した医師に続き、夢中で廊下を走る。
「ご家族の方に連絡をしてください」
病室に入ろうとした私を必死に押し留める看護士の言葉に、私は我に返った。
震える手で携帯を取り出し、聡一郎さんの携帯の番号を押す。
途轍もなく忙しいだろうに2コールで出た彼に大声で訴えた。
「早く来て!お父様が…!」
それ以上は、怖くてとても言葉にできなかった。
その間にも、病室内には様々な機材が運び込まれ、懸命の治療が続けられている。
喧騒をどこか遠くで聞きながら、私にはただ祈る事しか出来なかった。
胸が張り裂けそうなくらい痛くて苦しくて、聡一郎さんが間に合うようにと、それだけを祈り続けた。
——まだ逝かないで下さい。
聡一郎さんはまだ、父親と話すべき事が沢山あるんです。
どうか…どうか、お願いします。
どれくらい時間が過ぎたかわからない。
「美月!」
不意に腕を掴まれ引っ張りあげられて初めて、自分が跪いていた事を知った。
「聡一郎、さん?」
待ち望んでいた姿に、思わず涙が溢れそうになる。
けれど不安に揺れる瞳に見つめられ、私が泣いている場合ではないのだときつく唇を噛みしめる。
「ご家族の方ですね?
たった今、奇跡的に目を覚まされました。
お会いになられますか?」
「もちろん」
——神様!
看護士の言葉に私は天を仰いだ。
彼は…間に合ったのだ。
安堵感からか目の奥がツンと痛み、視界がぼやける。
グッと目に力を込め、懸命に堪えたけれど溢れ落ちる涙を止める事は、どうしてもできなかった。
これが…親子の最後の会話になるかもしれない。
そう思い遠慮しようとしたけど、私の肩を抱いたまま離さない聡一郎さんに半ば無理やり病室内に連れ込まれる。
「親父…」
躊躇いがちにかけられた声に、会長はゆっくりと目を開ける事で応えた。
憔悴した息子の姿に、会長はおおよその事態を悟ったのかもしれない。
苦しい息の下、懸命に
「何故ここにいる?」
と言葉を紡いだ。
「親父!俺は…俺はグループを…」
「そう思うのなら、今お前がすべき事をしろ」
思いがけない叱責に、聡一郎さんの蒼白な顔から表情が抜け落ちた。
「俺はいつだって、あなたから自由になりたかった」
震える唇を必死に操り、言葉を紡ぐ聡一郎さんに、会長は手を伸ばした。
いや、伸ばそうとしたが触れる前に力なく落ちた手を、彼はしっかり握り締めた。
「親父!」
「あまり、泣かせるな…」
ふと会長の視線が私に向けられ、そして又すぐに聡一郎さんに向けられた。
「私は、エレインを…守れなかっ…」
聡一郎さんのお母様が、若くして亡くなった事は聞いていた。
その早すぎる死を悔やむかの様な言葉に、思わず顔を見合わせる。
「親父…それって…?」
しかしその問いに、返事はなかった。
「すまなかっ…お前…は、自慢の…」
「おいっ!しっかりしろよ、親父!」
今まで比較的規則正しく刻まれていたモニタの波形が、急激に乱れる。
と同時に、待機していたらしい医師達が一斉に室内に入ってきた。
「申し訳ありませんが、廊下でお待ちください」
有無を言わせぬ口調で廊下へと押し出され、閉ざされた扉の向こうで慌しい気配を感じながらも、何も出来ないもどかしい時間が流れた。
「聡一郎…さん?」
唇を引き結び怖いくらい真剣な面持ちで、病室のドアを睨みつけている彼の心中を思うとかける言葉など見当たらない。
そっと手を伸ばし、彼の腕に触れる。
あなたは1人ではないのだ、と…そんな思いが伝わればいいと願いながら。
一瞬のようであり永遠とも思える時間が、唐突に終わりを告げた。
病室のドアが開くと同時に、パッと顔を上げた聡一郎さんの顔に浮かんだ期待は、沈痛な医師の表情に一瞬にして絶望と変わる。
「残念ですが…」
「そう…ですか」
どこか淡々とした様子で、聡一郎さんは出て行く医師達に頭を下げた。
病室に入ると、あんなに沢山の管に繋がれ苦しそうだった会長の姿は、もうどこにもなかった。
苦しみから解き放たれたかのような穏やかな表情で、彼の父親はそこに静かに横たわっていた。
——まるで眠っているみたい。
…本当にそうであれば、どんなに良かったか。
実感が沸かないながら、二度と目を開く事のない彼の父親をじっと見つめる。
「…最後の最後まで勝手な人だったよな」
感情の篭らない静かな声に、ハッと顔をあげる。
「自分の言いたい事だけ言ってさ…」
言葉とは裏腹に、聡一郎さんの顔は辛そうに歪められていた。
「そうね…でもお父様、きっとあなたの事を待っていてくださったのよ。
それにきちんとお話をする為に目を覚まして下さった」
「…」
「絶対そうに決まっているわ」
聡一郎さんの肩が小刻みに震えている。
「あなたの事、本当に大事に思っていらしたのよ」
歯を食い縛り両手をきつく握り締め、必死に嗚咽を堪えている聡一郎さんの背に腕を回し、優しく引き寄せる。
少なくとも…彼は間に合ったのだ。
彼の心に最後には沿ってくれたのだ、彼の父親は。
今はそう…信じたい。




