食べない翼
知性と教養を兼ね備えているという訳でもなく。
人目を引く容姿ではあるけれど、絶世の美女というほどでもなく。
あちこちに顔が利くとかそういう点がある訳でもなく。
彼女自身はどこにでもいる、凡庸といってもよいただのお嬢様。
手にしていた婚約者、野々村 はるかの写真と彼女に関する詳細な報告書を、乱暴にデスクの上に放り投げる。
実は1度だけ、お目にかかった事はあるのだ。
その時はお互いこんな事になるとは思いもしなかったので、2言3言言葉を交わしただけであったが。
大家のお嬢様だけあって身のこなしは優雅で軽やかだし、作法もしっかりしている。
それに明るく物怖じしない性格も、見た目よりずっと素直そうな所も悪くはない。
神崎家に入った後も、上手に操作する事はそう難しい事ではないだろう。
彼女の背後は勿論、そういう事も十分考慮した上での白羽の矢なのだ。
さすが親父の目に狂いはない。
といっても…俺の意思をとことん無視した上での人選なのだが。
それでもこの神崎家を継ぐ者として、拒否する事だけは出来ない今回の婚約。
今まで親父に逆らった事など、1度もなかった。
そしてまた今回も…俺は自分の気持ちすら、親父に告げられずにいた。
この婚約を到底受け入れる事は出来ない。
神崎家にとって都合のよい「花嫁」などいらない。
そう何度も言おうとした。
けれど……その度に、俺は自分自身の弱さを思い知らされた。
たかが女性1人。
けれど、これ程までに傍にいて欲しいと願った女性…いや、人を俺は知らない。
何も特別な事はしていないし、してもらった訳でもない。
目が合えば微笑みを交わし、互いを気遣い気にかけ、いつの間にかその姿を追いかけている。
ただそれだけの事だが、何の打算もなくという所が彼女とその他大勢との決定的な違いだった。
頼みもしないのに擦り寄ってきて、親切顔であれこれ指図したり、勝手に俺の中に土足で踏み込んできたり。
そういう奴は掃いて捨てるほどいた。
しかし考えてみれば…いや考えずとも、美月はそういった事は一切しなかった。
仕事の事であれば、場合によっては言いにくい事もずばっと言ってのけたが、本質的には優しくて慎み深く分をわきまえた人だった。
それに…彼女の前でなら弱音を吐く事が出来た。
神崎グループの若社長としての仮面も。
上に立つ者として過ごすうちいつしか身に付いたプライドも、自分を守るための壁も、どちらも取っ払う事が出来た。
ただの「聡一郎」として、1人の人間として対等に接し、取り留めのない…こういうと何だが、何の益にもならない他愛のない話が出来た。
彼女が傍にいるだけでフッと心が安らぎ、どれほど疲れていても、また明日から頑張ろうと思えた。
誰に対しても程度の差こそあれ、無意識に閉じていたドアを彼女にだけは進んで開いていた。
社長としての姿もプライベートも、どちらもありのままをさらけ出す事ができ、またそんな俺を受け容れてくれた。
そんなかけがえのない人を、俺は失ってしまった。
仮に彼女が嫌がったら、俺は親父に逆らってでも美月を行かせたりなんかしなかった。
何があってもどんな事になろうとも、彼女の意に沿わぬ事を強要したくはない。
けれど…行くと言い出したのは他ならぬ美月自身だった。
自惚れる訳ではないが、彼女が俺を憎からず思っていた事は間違いない。
それでも彼女は俺の許を去っていった。
恐らくは俺の幸せを願う、ただ一心で身を引いたのだ。
誰かに何か言われたのかもしれない。
もしくは…あまり考えたくない事だが、俺に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。
どちらにしても、彼女の事を思い出し考えるだけで俺の心はみっともなく揺れ動き、千々に乱れた。
傍にいたのなら、顔を見て話をする事も彼女の心を確かめる事も出来る。
けれど…彼女はもう、俺の傍にはいない。
陳腐な言い方だが彼女の居ない毎日はまるで灯の消えたようだった。
彼女の人柄そのままの柔らかい気配も、耳に心地よい低めの声も、はにかんだような笑顔も。
全てがいつしか傍らにあるのが当たり前になっていた。
誰が淹れても同じと思っていたコーヒーでさえ、彼女が淹れたのとそうでないのは雲泥の差だった。
たとえその道のプロがどんなに美味いのを淹れたとしても、美月が心を込めて淹れてくれたコーヒーには敵わないだろう。
美月がいなくなって、初めて俺は気が付いた。
彼女が俺にとってどれだけ大切な人であったのか、という事を。
彼女の、美月の傍にいたい。
俺の傍にいて欲しい。
ずっと。
彼女に会いたいという思いは日を追うごとに膨れ上がり、体中を駆け巡る。
しかしそんな今にも爆発しそうな思いを、もう一方で拒む自分がいる。
今更、美月に会ってどうする?
彼女を泣かせた俺が。
彼女を悲しませた俺が。
どの面下げて会いたいなどと言うのだ。
相反する思いにがんじがらめに縛られ、抜け出す事も身動きすら出来ず、俺はイライラと頭を掻きむしった。
視線を感じ顔をあげると、何か言いた気にこちらを見ている爺と目が合う。
心配そうにも非難しているようにも見えるその瞳に、不意にかつてないほどの破壊の衝動に駆られる。
いっそここで、大暴れの1つでもしてやれば親父も不甲斐ない俺の事なんて見限るだろうか?
目についたインクの壺を窓ガラスに叩きつけたくなり、咄嗟に伸ばしかけた手をきつく握り締める。
そして不穏な衝動を全て吐き出すように溜息をついた。
——そんな事しても、何にもならない。
けれどいくら自己嫌悪にかられていても、どれほど落ち込んでいても、イラついていても、時間は待ってはくれない。
朝が来れば自動的にベッドから抜け出し、食事をとり社へ出かけた。
心は空っぽなのに身体が勝手に動いていた。
仕事に追われている間だけは、心が真っ二つに引き裂かれるような痛みから解放された。
もう、何も考えたくはなかった。
* * *
傷心のお坊ちゃま、グダグダです。
欲しいものを欲しいと言えない。
かと言って大暴れもできない。
溜め込んでしまうタイプなのです(汗)




