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普通に催眠術を楽しむだけの日常。

作者: 熾悠

注意事項

 全年齢対象です。『催眠』と聞いてエッチなことを思い浮かべてしまう方の期待には応えられないと思います。

 催眠術の表現のため、文法を意図的に崩している箇所があります。

 読んでいる時、影響を受けてしまわないようご注意ください。例えば、脱力のシーンで体の力が抜けてしまったり、手が固まるシーンであなたの手まで固まってしまったり。世の中には当然、催眠術にかかる才能・暗示に反応する才能に優れている方もいらっしゃいますし、あなたもその一人かもしれません。何かあっても作者は責任を負いかねますので、周囲の環境には十分ご注意ください。




───────────




 とある休日、友人の家の前に立ってインターホンを鳴らす。

 一分と経たないうちにドアを開けてくれたその人に、ここに来た目的を告げた。


「催眠かーけてっ!」

「……第一声がそれなのはどうかと思うんだけど?」

「照れるなあ」

「褒めてないから。まあ良いや、入って。準備はできてるから」

「お邪魔しまーす」


 いつ来ても思うけど、家の中は丁寧に掃除がされていてとっても綺麗。

 なかなか大変だと思うんだけど、何かコツでもあるのだろうか。あとで聞いてみよう。


 綺麗なのは案内された部屋も一緒で、室温も寒くなく暑くなく丁度良い。外の景色が気にならないように窓にはカーテンもかけられている。

 もう何度もここに来ているからか、第二の我が家か部屋であるかのように感じて、もはや緊張など欠片もない。


「じゃあ、早速やろっか。好きなところで、好きな姿勢になって」


 そう言われて、部屋の中を見渡す。

 背もたれのない椅子とかはちょっと怖い。体の力が抜けてもこの人が隣に居れば支えてくれるのだが、手が届かない時に間違って落ちてしまう危険性もある。

 座るなら、倒れることがあっても優しく受け止めてくれるベッドが良い。そもそも座らずに最初から寝転んだって良いわけだし……どうしようかな。


 ……うん、決めた。ここで、こんな感じ。


「準備オッケー」

「ん。じゃあ……、始めようか」


 雰囲気が変わった。こっそり『術師モード』と呼んでいるのは秘密。


「見て」


 指を一本、近い位置で見上げる形になるように突き出される。

 これは何回も受けてるから知ってる。短時間で催眠状態にするやつだ。

 こっちもすっかりそれに慣れてしまっているので、時短のためか毎回これで始まるのだが……今日だけはあえて目を逸らす。


「……あれ?」


 術師モードが解けた。珍しく抵抗しようとしているのを見て驚いたのだろう。

 その程度で術師モードを解くとはまだまだよのう、と内心で意味もなくドヤってみる。


「何してるの?」

「いやー、今日はゆっくりの気分なのです」

「先に言っといてほしかったかな、それ」

「ごめんごめん」

「どこからやれば良いの? まさかカタレプシーとかテストから?」

「それは良いや」

「あっそう……」


 いやー、どうも指がくっつくとか振り子が揺れるとか、今更過ぎてその気になれないというか……


「それでは……」


 おっ、また術師モードですな。醸し出す雰囲気に呑まれそうになる感覚、これが地味に堪らないんだよね。

 正直何回もやってると、この部屋で二人きりで居るだけで催眠状態に入ってしまいそうだけど、今日はまだ我慢。ゆっくりって言っちゃったし、この人を置いて勝手に進むわけにはいかない。


「まずは深呼吸から。わたしの言葉に合わせて、ゆっくり吸って、すっくり吐いてね」


 深呼吸と来たか。

 準備運動の最後に行ったり、緊張する時に行ったり。そう考えると、深呼吸って体も心も落ち着けることができる簡単な魔法の儀式みたいだな、なんて思わなくもない。

 まあそんな雑念は置いといて、今は言われた通り深呼吸してみよう。


「吸ってー……


 吐いてー……


 吸ってー……


 吐いてー……


 吸ってー……

  新鮮な空気が体の中に入ってくる」


 何か付け足し始めた。言われた通りに感じてみよう。


「吐いてー……

  体の中の悪いものが外に出ていく」


 悪いものって何だろう? 毒素? 嫌な記憶?


「吸ってー……

  イメージは何となくで良い。


 吐いてー……

  あなたの心と体が落ち着いてくれれば、それで良い」


 むっ、心を読んだかのように言われてしまった。お言葉に甘えて、適当にイメージ。


「吸ってー……

  人によっては、こうやって、


 吐いてー……

  深呼吸をしてるだけで、眠くなってくるかも」


 言われてみれば、まぶたが少し重いような、そうでないような……?


「吸ってー……

  さ、次は体の力を抜いていこうか。


 吐いてー……

  わたしが言ったところの力が、


 吸ってー……

  吐く息に合わせて抜けていく。


 吐いてー……

  体の中の何かが消えるイメージをしても良いし、


 吸ってー……

  『力が抜ける』って思うだけでも良い。


 吐いてー……

  あなたの体の力が抜けてくれれば、それで良い」


 更に脱力とな。催眠じゃなくて睡眠になりそうだから、気を付けないと。


「吸ってー……

  じゃあ、まずは右足の爪先の方から。


 吐いてー……

  右足の爪先から力を抜く。


 吸ってー……

  少しずつ、力を抜く箇所を上げていこう。


 吐いてー……

  右の足首から力を抜く。


 吸ってー……

  どんどん、どんどん上げていこう。


 吐いてー……

  右のふくらはぎから力を抜く。


 吸ってー……

  力を抜くと、なんとなく動かしたくなくなる」


 うーん、動かしたくはない気がする。


「吐いてー……

  右の膝から力を抜く。


 吸ってー……

  動かしちゃったら、力を抜く意味が無いもんね」


 確かに。そう納得したら『動かしたくない』気持ちが強くなった。


「吐いてー……

  右の太ももから力を抜く。


 吸ってー……

  重いと感じるかもしれないけど、不思議と嫌ではない」


 何かが乗った重さではなく、自分の足そのものの重さを感じる。

 自分の足が嫌な人なんて、多くはないと思う。


「吐いてー……

  右足の付け根から力を抜く。


 吸ってー……

  これで、右足から力を抜くことができた。


 吐いてー……

  次は、左足」


 意識は右足から左足へ。

 つい、右と左で感覚を比べてしまい、違いが分かると右足がもっと重くなってしまったような気がした。

 左足も、今からこうなるんだ。


「吸ってー……

  じゃあ、左足も爪先の方から。


 吐いてー……

  左足の爪先から力が抜ける。


 吸ってー……

  こっちも、少しずつ力が抜ける箇所が上がっていく。


 吐いてー……

  左の足首から力が抜ける。


 吸ってー……

  どんどん、どんどん上がっていく。


 吐いてー……

  左のふくらはぎから力が抜ける。


 吸ってー……

  こっちも、力が抜けて動かしたくなくなる。


 吐いてー……

  左の膝から力が抜ける。


 吸ってー……

  左だけ動かしたいなんて、理由もなく思わないでしょ?


 吐いてー……

  左の太ももから力が抜ける。


 吸ってー……

  左足も重くなってきた。


 吐いてー……

  左足の付け根から力が抜ける。


 吸ってー……

  これで、両足から力が抜けきった」


 言われた通り、両足は完全に脱力しているし、もう動かしてなるものか、とさえ思う。


「吐いてー……

  さあ、深呼吸はおしまいにしよう。

  意識しなくても、体の状態に適した呼吸になってくれるから大丈夫」


 ようやく、深呼吸から解放された。

 長かったような、短かったような。


「深呼吸はやめても、力が抜けていく箇所はまだまだ上がっていく」


 そうだよね、足だけで終わるはずがない。まだ、全身には程遠いのだから。


「お尻の力が抜ける。


 腰の力が抜ける。


 お腹の力が抜ける。


 胸の力が抜ける」


 もうここまで来たら、早く最後まで行ってしまいたい。


「次は腕の力を抜くけど、腕の力が抜けても、必要な時にはちゃんと動かせる。

 例えば、かゆいところはかくことができるし、物を持てば落とさないでいることができる。

 必要最低限の力は残ったままで、役目を果たせばその力も抜ける」


 そういえば、かゆいのが気になってうまく催眠にかかれなかった、なんて話も聞いたことがある。

 だからそんな言い方をしてるのだろうか。


「じゃあ、左腕から。


 指先から力が抜ける。


 手首の力が抜ける。


 そのまま力は抜けていって、


 肘の力が抜ける。


 二の腕の力が抜ける。


 そして、肩の力も抜ける」


 これで左腕も脱力の仲間入り。

 確実に、力が残っている部分が減っていく。


「そして、右腕も……


 指先から力が抜ける。


 手首の力が抜ける。


 同じように力が抜けていって、


 肘の力が抜ける。


 二の腕の力が抜ける。


 肩の力も抜ける」


 これで首から下は全部力が抜けてしまった。

 まるで、体だけ眠っているみたい。


「終わりも近くなってきたね。


 あごの力が抜ける。


 頬の力が抜ける」


 口周りの力が抜けたことで、口が半開きになっていく。

 この人には見せ慣れちゃってるけど、だらしない表情に見えるんだろうなあ。


「目の力が抜ける」


 焦点が合わなくなっていく。

 視界のものが気にならなくなって、今まで以上に言葉に集中できる。

 でも、これも手と同じで、見たいものはちゃんと見ることができそう。


「頭の一番上まで力が抜けて……


 頭の中の力も抜け始める」


 うん?

 ……ああ、体じゃなくて、心の方か。


「頭の中、つまり思考が体と同じように動かしたくなくなっていく。

 ふと雑念が浮かんできても、それについて考えるのが面倒になっていく」


 よく、複雑なことを考えるのが面倒な時があるけど、そのラインが下がった感じ。

 一言にすると……って、それがもう面倒。


「全部の力が抜けても、わたしの言葉は追うことができる。

 考えるのが面倒なのだから、理解しようと思わなくても良い。

 理解しようと思わなくても、あなたの中に入れば無意識的に処理してくれる。

 ここまでわたしの言葉通りにしてきたのだから、これからだって大丈夫」


 むしろ、言葉くらいちゃんと聞いてないと、寝ちゃいそう。

 体も思考も、脱力したことで、これから眠ろうとしていると、勘違いしているみたい。


「さあ、最後の一歩。

 今から10数えるから、ゼロになったら、わたしの言葉に完全に身を預けることができるよ」


 十分、預けているような、気がするけど、まだ足りなかったようだ。

 数なんて数えずに、この一歩を早く、踏み切ってしまいたい。


「いくよ。

 10……

 9……

 8……」


 体の力が更に抜ける。

 それは最後の一歩の準備。


「7……

 6……

 5……」


 頭の中から、何かが消えていく。

 それが何かさえ、もう分からない。


「4……

 3……

 2……」


 あと少し。

 あと少しで、踏み出せる。


「1……

 さあ、おいで」


 うん、今行くよ。


「0」


 一歩、踏み出した。


 体も、

 思考も、

 全部、

 放り投げて……


 身を任せる。

 次の言葉を待つ。


「わたしに身を委ね、わたしの言葉の中を漂う。

 どう感じてるかな?

 海やプールみたい?

 雲の上というのも素敵だよね。

 無重力空間に浮かぶのも楽しそう。

 何も思い浮かばなかった人も羨ましいな。だって、好きな空間で、好きな物を選んで、囲まれることができるのだから」


 自分は、これかな……


「そんな、あなただけの、漂う感覚。

 ほとんどの人は、この感覚が好きなんじゃないかな?

 少なくとも、嫌ではないでしょ?

 だって嫌だったら、こうなってないもんね?」


 うん……


「でも、実は底の方にもっと素敵な場所があるんだ。今から行ってみようか。

 大丈夫、あなたは何もしなくて良い。わたしが、そこまで導くから。

 じゃあ……行くよ。


 漂っているあなたの周りに、下向きの流れが生まれる。

 流れに乗ったあなたは、ゆっくりと沈み始める。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 たまに、ちょっと左へ、右へ。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 ちょっと浮かんで、もっと沈む。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 また、左へ、右へ。

 漂うのも良いけど、流されるのも良いでしょ?


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 ちょっと浮かんで、もっと沈む。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 左へ、右へ。

 まるで、優しく掻き混ぜられているみたい。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 ちょっと浮かんで、もっと沈む。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 左へ、右へ。

 混ぜられて、とろけ始める。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 ちょっと浮かんで、もっと沈む。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 左へ、右へ。

 底に着く頃には、とろけきってるんだろうなあ。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 ちょっと浮かんで、もっと沈む。

 もう、沈むだけでも、とろけていくのが止まらない。


 沈む。


 沈む。


 沈む。


 もうすぐ底に着く。


 10、沈む。


 9、沈む。


 8、沈む。


 7、沈むのがゆっくりになる。


 6、頑張って沈むけど……


 5、押し返される。


 6、もう一回沈んでみる。


 5、やっぱり押し返される。


 6、一度浮かぶ。


 7、勢いをつけるために。


 8、押し返されないように。


 9、良い? 行くよ。


 10

 9

 8

 7

 6

 5

 4

 3

 2

 1

 0


 ……底に着いた。底に着いて、とろけきった。

 とろとろになっちゃったから、もう何も分からないかもしれないけど、さっきより良いところでしょ?


 さ、そろそろ一度帰ってきましょうか。

 一回辿り着いたのだから、次は『底に沈む』って言われるだけで、またここに来てとろけることができるよ。

 ゲームでいうならセーブポイント。『底に沈む』って言われるとロードする、それだけのこと。


 三つ数えるとあなたは目を覚ます。

 底から帰ってきて、とろけていたのも少しだけ元に戻るけど……、完全に戻るわけじゃないから、わたしの言葉が簡単にあなたに混ざってしまう状態。嫌だと思ったら混ざる前に弾くこともできるけど、少しでも受け入れると混ざり始め、混ざろうとしてとろけていく。

 ……混ざってしまうのだから、その通りになってしまっても仕方ないよね。そんな不思議な状態で、目を覚ますよ。


 ひとつ、ふたつ、みっつ!

 はいおはよー!」

「……おはよー」

「どう? リクエストにお応えして、結構ゆっくりやってみたけど」

「うん、ありがとー。バッチリだったよー」


 声に力が入らない。まだとろけている感じがする。

 体を少し動かしてみると別に普通に動かせるけど、やっぱり力を抜いていた方が楽だからあまり動かしたくはない。

 漂っていた間のことは、人によってどこまで覚えているか様々らしい。全部覚えてる人も居れば、寝てなかったのは分かるけど何を言われていたかは覚えてない人も居る。本当に寝ちゃってた場合に覚えてないのは仕方ないけど、寝てないけど完全に覚えてない人って居たりするのかな?


「それじゃあ、片手を出して」

「はい」

「そうそう。肘も伸ばしてね」


 あ、何かされる。

 そう思ったけど、これも醍醐味の一つだと分かっている自分としては期待が高まっていく。


「3つ数えると、この腕がマネキンになっちゃうよ。

 硬くて自分では動けないマネキンになってしまう。

 ひとつふたつみっつ!」

「んっ」


 伸ばしていた腕が、なんとなく変わったのが分かった。


「どう? 動かせないよね?」

「……動かせないです」


 軽く動かそうとしても、思うように動かせないことが分かってしまい、分かってしまうと更に硬くなっていく。しかもさっきまで脱力してた分、変化が分かりやすいおまけ付き。

 もちろん魔法とかで本当にマネキンにされているわけではないので全力を出せば動けるのは分かるけど、そんなことしても楽しくない。動けないフリをしている時よりは硬くなっているのだからそれを楽しもうじゃないか。


「で、マネキンって外から動かせるのは……分かるよね?」

「うん」


 そりゃポーズごとにマネキン作ってたら大変だろうし、店員が簡単に動かせるようになっているのは当然だろう。動かしてるところ見たことないけど。


「だから、わたしが腕を曲げ伸ばしすることもできるし、指だけ曲げることもできる。

 ほら、ピース。

 そして、そこで止まってしまって自分からはやっぱり動かせない」


 良い様に操られている。ピースサインから動くことができない。ちょっと悔しい。でもやっぱり楽しい。

 動かされる感覚としては、簡単に動く時もあれば、ギギギってちょっと抵抗を感じる時もある。人にもよるし、同じ人でもその時次第で結構変わるのがまた楽しい。


「ほら、そこだけに意識向けてて良いの?」

「えっ」


 そ、その言い方は──


「もう両足もマネキンになっちゃった」


 やられた。足が……!


「腰、お腹、背中、胸」


 あー、どんどん体がマネキンになってくー……

 息は流石にできるんだけど、つい、胸やお腹をできるだけ動かさないような呼吸になってしまう。


「そして……」

「えっ、まだ!?」

「喉。マネキンって、普通喋れないよね?」

「っ……!」


 ダメ、声が出なくなっちゃった。出そうとしても、後少しのところで踏みとどまっちゃう感じ。

 一生懸命口を動かしても、やっぱり声は出ない。出ても息の音くらい。


「さ~て、どんなポーズにしてあげようか」

「……、……!」

「冗談。三つ数えると体が元に戻るよ。

 ひとつふたつ、みっつ」

「……あー、あー」


 喋れる。体も動かして自由になっていることを確認する。


「うんうん、バッチリ反応してくれるね」

「もう、酷いよー」

「でも楽しいでしょ?」

「そりゃ、まあ……そうだけど」


 普通に生きてれば体が自分の意思に反して誰かの言う通りになってしまうことなんてない。だからこそ、こういう非日常的な現象や感覚というのは楽しいし面白い。

 それに、完全に言う通りになってしまうわけではないし。例えば……マネキンになってることを良いことに、急に変な人が突入してきて鞄から何か盗もうとするのが分かったら、即座にマネキンをやめて取り返そうとすると思う。


「ところで……『あの言葉』、覚えてるかな?」


 その先を予期し、体が反応しそうになる。さっきの感覚を思い出そうとしてしまう。


「覚えてても、覚えてなくても大丈夫。

 ちゃんと、あなたの中に『その言葉』は、しまわれているから。

 ほら……


 『底に沈む』」


 体の力が抜ける。

 考える力が抜ける。

 全てを任せて沈んでいく。

 沈んで、とろけていく。


「……ここまで戻ってきた。

 だけど、いつの間にか底が深くなっている。

 だから、もっと沈んでみよう。


 沈んで、沈んで……

 もっととろけていく。


 今度は押し返されることなく底まで辿り着けそう。


 10


 9


 8


 7


 6


 5


 4


 3


 2


 1


 0


 ……底に着いた。底に着いて、とろけきった。

 次に『底に沈む』って言われたら、今度はここまで来れそうだね。


 だから、また一度帰ってきましょうか。

 三つ数えると目を覚ますよ。

 目を覚ますけど……どういうわけだか『あ』という文字が面白く感じてしまう。『あ』という文字を見たり聞いたりすると、何故だか分からないけど面白くて面白くて、笑いが漏れてしまう。そんな不思議な状態で、目を覚ますよ。


 ひとつ、ふたつ、みっつ!

 はいおはよー!」

「……おはよー」

「これ、何でしょ~か?」

「ん?」


 何か白い紙を持っている。いつの間に用意したのだろうか?


「紙、だよね」

「そう、普通の紙だよ。そして裏は……」


 紙の裏、そこには……大きい手書きの『あ』。


「ぶふっ!」

「おや、どうしたのかな? 急に噴き出したりなんかして」


 こやつめ、ニヤけやがって。


「この『あ』がどうかしたのかな?」

「くふっ」

「ん~? 『あ』で笑ってるの?」

「ふふっ」


 我慢できない笑い声を漏らさないように口を手で押さえる。


「おっと、そんなもので我慢できるとでも? ほら、面白さが二倍」

「~~!」


 『あ』の文字は向けられたままだから、そのまま反応が大きくなってしまう。もちろん、本当に二倍になっているかなど関係ない。そもそも面白さが丁度二倍って何だ。

 そんなことは置いといて……、やばい、口を塞いでいても体が反応してしまうくらいになってきた。


「ほらほら、我慢せずに大笑いしちゃいなよ。更に倍」

「ぷっ……!」


 『あ』の文字は依然向けられたまま。

 ……ダメ、もう我慢できない!


「ぶわーっはっはっはっ!」

「それで良いんだよ。でも……」


 紙を裏返し、完全に白い面を向けてくる。


「──っはっはっはっ、はーっ、はーっ……、ふう……」

「で、また裏返す。ほら、『あ』だよー」

「あはははっ!」


 挟む一息短くない!?

 でも『あ』を見せられてると笑いが止まらない。

 というかよく考えてみたらこの笑い声……


「あははっ! あはっ、あーはっはっはっ!」

「で、また隠す」

「ひーっ! あっはっはっはっはっはっ!」

「……ん?」


 首を傾げている。どうやら文字を見せてないのに止まらないのが気になるのだろう。

 しかし真実に気付いたこちらは笑いたい限り笑うのみ!


「くふふっ、あははっ!」

「……あっ、そういうことか!」

「ぶふぉっ!」


 そこで追い打ちはずるい!


「三つ数えると体が元に戻るよ!

 ひとつふたつみっつ!」

「あははは、はは……、はーっ、はーっ……」


 あー、落ち着いてきた。

 一応なのか『あ』の文字も見せられてるけど、もう大丈夫。


「ごめん、配慮不足だったね。違う文字にするか、自分の出した音じゃ笑わないようにすれば良かったよ。笑うのに『あ』って結構含まれるよね」

「うん、『は』って子音が『あ』だって気付いちゃって」

「え?」

「え? ……あ、そっか、普通に『あはは』の最初って『あ』じゃん」


 これもまた良くあること。

 術師の思い通りに動くわけではなく、実行しているのはあくまで自分なので、解釈が違うと反応にも差が出てくる。例えば、単に『とんでみて』って言われて全員が同じ動きしたら逆に凄いと思う。高く跳ぶ人も居れば低い人も居るだろうし、連続で跳ぶ人も居るんじゃないかな? 『跳ぶ』のではなく『飛ぶ』人も居たりしてね。


「ともかく、ごめんね?」

「いや、良いよ。なんかスッキリしたし」

「なら良いんだけど……」


 でも、あのまま笑い続けてたら危なかったのかも? そう考えると止めてくれたのはありがたい。気が付かなかったのなら仕方ないけど、気付いてるのに放置するような人だと安心して催眠にかかれないからね。


「どうする? まだやる?」

「当然」

「即答!?」


 まだ時間はもうちょっとあるし、最後まで遊び尽くしたいじゃん。


「分かったよ。それじゃあ……」


 おっ、術師モードに戻った。

 雰囲気に当てられるだけで、もうあの感覚を思い出してしまう。


「『底に沈む』」


 また、全てを任せ、沈み、とろけていく。


「……ここまで戻ってきた。

 だけど、また、底が深くなっている。

 さあ、もっと沈んでみよう。


 沈んで、沈んで……

 もっととろけていく。


 もう、カウントすれば底まで辿り着ける、って知ってるよね。


 10


 9


 8


 7


 6


 5


 4


 3


 2


 1


 0


 ……底に着いた。底に着いて、とろけきった。

 こんなにとろけるのって、夢でも見てるみたいだよね。


 そう、夢。


 夢だから、沈んでいる間のことは、目を覚ましたら思い出せなくなる。

 だけど、思い出せないだけで、あなたの体にはしっかり残っている。

 混ざった言葉も残っているから、覚えてなくても、その通りになってしまう。

 そんな夢。


 そして、次に夢から覚めた時、わたしはスマホであなたをスキャンする。

 スキャン、つまり情報を読み取ることで、あなたとスマホが連動するようになってしまう。

 動作を指示すれば、あなたの体はその通りに動く。

 データを変更すれば、あなたにとってそれが事実になる。

 ちゃんと元に戻すボタンもあるから、安心してわたしのスマホと連動することができるよ。


 さあ、三つ数えて目を覚まそう。

 ひとつ、ふたつ、みっつ!

 おはよう、気分はどうかな?」

「……ふにゃ?」


 あれ? なんか沈んでたような気はするんだけど、うまく思い出せない……

 さてはそういう暗示を入れたな? ということは他にも何か埋め込まれてるはず。これから何が起きるのか楽しみだ。


「あぁそうそう。写真撮らせてもらっても良い?」

「へ? まあ、勝手に公開しないなら良いけど」


 この人なら、約束を破れば信用がなくなって催眠術師として行動できなくなるのは知ってるはずだし。


「それじゃあ……はい、チーズ」


 パシャリ。スマホのカメラ音が響く。


「だけど、どうしていきなり写真? 催眠記録とか付けてたっけ?」

「良い質問だ。そ・れ・は……これ!」


 一生懸命スマホを操作し、終わったところでその画面を見せてきた。

 まず、今撮られた写真。力が抜けていて眠そうな表情をしている。その下には、名前とか、性別、年齢、誕生日など……以前この人に教えた内容がそのまま反映されて画面外に続いている。


「何これ?」

「実は面白いアプリを入手してね。これで写真を撮ると、その人の情報を読み取ってくれるんだ」

「えぇ……」

「胡散臭そうにしないでほしいな」


 だって、ねえ?


「それに、まだ終わりじゃないよ」

「え?」


 もうスマホは元の位置に戻され、こっちからは画面が見えない。一体何が表示されているのだろうか。


「今、画面に『右手が上がる』ボタンがあるんだけど、これを押したら……どうなると思う?」

「……まさか?」

「そう、押している間、右手がゆっくり上がり続ける。離せば自由が戻っちゃうんだけどね。

 それじゃあまず十秒ほど。ポチっとな」


 その指が画面に触れるのが見え、右腕が上がり始めた。


「うそっ!?」


 止めようと思っても、下げようと思っても言うことを聞かない。

 手首から先を暴れさせても、上昇して……


 もうそろそろ十秒だと思った頃、急に下げることに成功した。

 上げるも下げるも動かさないも自由な、自分の腕。


「どう? アプリの凄さ、分かった?」

「これすっごい! どこで見つけたのこれ!?」

「うん、それは後でね」


 流されてしまった、残念。


「で、これで操作できるのは体だけじゃない」

「体だけじゃ、ってことは心も?」

「そ。試しに今から意識の電源を切ってみよう。電源を切るのは表の意識だけだから体はそのままだし、わたしの言葉も追うことができるままだよ。

 『電源オフ』




 『電源オン』」

「はっ!」


 な、なんか今、意識が一瞬飛んだような……!?


「もうすっかりスマホと同期してるね」

「え、えぇ……?」


 いや、なんかもう、語彙力が吹っ飛ぶくらいヤバい。


「体と意識を操作できるのは分かったね。だけど、まだ終わりじゃないよ」

「そ、それ以外に何があるの?」

「さっき、名前とか書いてあったでしょ? あれも変更できるんだ」

「流石にそれは……」

「嘘だと思う?」


 思いたい。思いたいのに……!


「それじゃあ試してみよう。『名前』を空欄にして……実行。

 さあ、あなたのお名前は? 口に出して自己紹介をお願いします」

「な、名前は……」


 出てこない。

 ずっと付き合ってきたはずの自分の名前が、今この場所において……完全になくなってしまった。


「あれ、お名前は? もしかして、ないの?」

「ぐ……。そ、そっちが消すからいけないんじゃん!」


 あぁそうですよ開き直りですよ!


「あはは、ごめんごめん。じゃあ新しい名前を登録しないとね」

「え!? 戻してくれないの!?」

「えーと……決めた。『名前』を『ジョン』に変更……実行。

 もう一度聞こうか。あなたのお名前は?」

「……!」


 質問されて出てきた名前。今の会話があるからそれが本当の名前でないことは分かる。でも、それが自分の中でしっくりきてしまう。自分の名前はこれだ、って心の奥底で訴えているような気がしてしまう。

 どんな名前だろうと、性別や国籍に合ってなくても、今新しく登録したのならそれが自分の名前だ。


「名前教えてくれないの? それじゃあ……『自己紹介』ボタンを押してみよう」

「あっずるい!」


 指が画面に触れる。


「お名前は?」

「ジョンです……」


 言ってしまった。言ってしまったけど、謎の安心感が心を包んでいるのが分かる。


「へえ、この辺では珍しいねえ。改めてよろしく、ジョン!」

「う、うん……」


 ああもうダメだ、直接呼ばれると更に強く意識してしまう。


「で、だけど。名前変えて終わりだと思う?」

「ですよねー……」


 次は何を変えられるのか。諦めて受け入れることにし、楽しみに待つことにする。


「でも、次は大きく変えるから、再起動が必要みたいでね。

 一旦電源を切らせてもらうよ」

「えっマジ?」

「マジ。でも、さっきも言った通りわたしの言葉を追うことはできるからね。

 じゃあ……『電源オフ』




 これから、あなたを『人間』から『犬』に変更するよ。

 もちろん飼い主はわたし。他の人だったり野良だと危ないからね。

 じゃあ、実行開始。


 時間がかかるみたいだから、その間『人間』と『犬』の違いを確認してみよう。

 言葉は当然違うよね。でも賢い犬ならわたしの言葉は分かるんだろうなぁ。

 脚は、『人間』は二本で立つけど、『犬』は四本。でも、何か持ってたら無理して四本で立たなくても良いからね。

 服は、着てる犬も居るからこのままで良いか。

 他には……って、意外と早く終わりそうだね。思考とか習性とかもあったのに。


 実行終了。

 今から再びあなたの電源をオンにするけど、『犬』になってしまったから、思考や言動が犬そのものになってしまうのは、仕方ないよね。

 そして、わたしが『リセット』ボタンを押すと『人間』に戻って『名前』も元通りになるからね。




 『電源オン』」

「……。……?」

「どうしたの?

 もどかしそうだね。ちょっと、一回前足も使って立ってみようか。


 ……うん、ちゃんと立つことができたね、偉い偉い。

 こうやって撫でられると、とっても嬉しくてもっと撫でられたくなるね。


 でもここで一旦おしまい。

 次は、名前を呼ぶから元気に返事してね。

 『ジョン』!」

「わんっ!」

「うん、良くできました、なでなで」

「わふぅ……」

「そういえば、犬って飼い主にどう甘えるんだっけ?

 わたしの中では、抱き着いて……って、ダメだよ?

 『おすわり』」

「くぅん……」

「そう、そのまま『まて』。

 もう……いきなり飛びつこうとしちゃダメでしょ?

 結構大きいんだから、潰れちゃうよ」

「きゅ~ん……」

「だから『よし』って言ったら、三回回って大きく吠えることで、アピールしてね。

 それができたら、思いっきり撫でてあげるから」

「わんっ」

「じゃあ、もうちょっとだけそのまま待っていようね。


 まだだよ。

 そのまま、撫でてほしい気持ちを膨らませていこう。


 まだ。

 だんだん我慢できなくなってくる。


 まだ。

 体が震えてきたね。


 まだ。

 でも、撫でてもらうために頑張って我慢。


 まだ。

 いつまで待っていれば良いのかな?


 まだ。

 そろそろ我慢の限界?


 まだ。

 じゃあ……


 『よし』!」

「ハッハッハッ、わおぉ~~ん!!」

「良くできましたっ!

 ほら、ご褒美になでなでー」

「わふぅん……」

「なでなでー。

 なでなでー。

 もいっちょなでなでー。


 ……で、『リセット』」

「わふっ!?」


 『人間』としての意識が戻ってくる。

 ついでに名前も元通り。もう『ジョン』ではない。


「どうだった? 犬になった気分は」

「うぁ……」


 あー、顔が熱い。

 何かになりきってた場合って記憶が曖昧になる人が少なくないらしいんだけど、その質問をされると記憶の有無に関わらず犬になってたことを知らされるわけだから恥ずかしくなってきちゃうんだよね。


「うーん、ちょっとやり過ぎちゃったかな。嫌じゃなかった?」

「へぁっ!? 全然そんなことなかったよ、楽しかったし!」

「……良かった」


 そう。恥ずかしいけど、それ以上に楽しかった気持ちが強く残っている。

 悲しそうな顔をされたら、それを正直に伝えない理由はない。


「それに、ちょっと調べてみたんだけどさ。暗示ってその人のこと信用してなかったり嫌だと思うものはダメなんでしょ? だからここで犬にされるくらいなら大丈夫なんだよ!」

「……そ、そんなことないよ?」

「あっれぇ!?」

「確かに難しいけどそれをどう反応させるかも腕次第だからね。例えば対面で『服を脱いで』って言っても大体の人には脱がないけど通話とかで体感温度上げて『暑いから服を脱ぐのは当然だよね』って言えば脱ぐ人は多くなるし、他にも──」

「もしかして、照れてる?」

「なっ!?」


 だって顔が赤いもん。目も逸らしてるし早口言葉になってるし。

 催眠術って直接かける場合は相手の細かい様子を見ながら進めるらしいんだけど、催眠術師ではない自分でも分かるレベルだから相当照れてるんだろうなぁ。


「ほ、ほら! もう時間だから完全に覚醒させるよ!」

「そうだね、もう時間だもんねー」

「もうっ!」


 完全に覚醒させる、というのは、今日の催眠術はここまで、という証。

 今、結構元気ではあるけど、やっぱりどこかとろけてるんだよね。そんな状態だと、いつどこでとろけきってしまうかも分からないし、どんな言葉が混ざってしまうかも分からない。言葉が混ざっちゃうと日常の生活に影響が出てしまうかもしれない。

 だから、もうおしまいって割り切って、とろけているのも元通りにする。それが、完全に覚醒させるということ。


「じゃあ、そのためにまず……

 『底に沈む』


 ここまで戻ってきたから、帰り道が分かるよね。

 だから、今度は逆に数えて十になったら、頭がスッキリとした状態で目を覚ますよ。


 1……、あなたに混ざっていた言葉が、全て抜けていく。


 2……、とろけていた体が、元に戻っていく。


 3……、もう言葉は混ざらない。『底に沈む』と言われても沈まない。


 4……、意識の力が戻ってくる。


 5……、体の力も戻ってくる。


 6……、もう、いつも通り物事を考えることができる。


 7……、もう、いつも通り体を動かすことができる。


 8……、頭の中が涼しくなってスッキリする。


 9……、もう大丈夫。完全に目が覚めたね。


 10!


 さ、背伸びをしよう。ぐいーって」


 ぐいー。

 うん、体も普通に動くし、眠気がなくて思考も元気。これが分かると、さっきまで一見元気でも催眠に入ってたんだなーって思う。


「大丈夫そうだね」

「うん、ありがとう!」


 最後に、次に会う約束をして玄関へ。

 もう次が楽しみだなぁ。これを糧に生きていける……のは、言い過ぎかな?


「あっ、そうそう」

「何?」

「あのアプリ、どこで手に入れたの?」

「……えっ」


 この後、部屋に連れ戻されて誤解を丁寧に解いてもらいました……

 そうだよね、そんな魔法みたいなアプリ、あるわけないよね……


 おしまい。

 最後までお読みいただきありがとうございます。万が一、眠いとか、体のどこかが重いとか感じる方は、もう一度背伸びしたり、顔を洗うなどして元気を取り戻してくださいね。

 で、なのですが。実は催眠術の勉強をしたこともなければ、満足する催眠のかかり方をしたこともほとんどありません。中途半端な知識と想像だけで書き上げました。本物の催眠術師の方や既に催眠術を楽めている方にはどう映るのでしょうね?


 それではまた、どこかでお会いしましょう。

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