四十二番:渡辺泰平
野球に依存する少年の話。
毎日が楽しかった。
日の出前に起き上がり、ランニングをした後は朝食を済ませ、身支度したら幼馴染の八重子を起こしに馬場家に向かう。二人でダッシュさながらのスピードで学校の校門を潜るとそれぞれの部室へ直行し、朝練を終えたら授業。そして放課後、また存分に野球を楽しんで、最後にスパイクで踏み荒らした土を均したら、八重子と共に帰宅する。
繰り返される日常。それでも同じ韻を踏まない一日。傍にいてくれる幼馴染や友達。そして自分の生活の一部となった、野球。
当たり前に存在するその全てに、俺は感謝していた。
何の変哲もない日々に崩壊の兆しが現れたのは、中二年の夏。全国大会への切符を手にしたその日、肘に痛みがはしってすぐさまコーチの指示で病院へと連れて行かされた。
医者はしばらくの絶対安静を言い渡した。その結果を聞いたコーチをはじめ、野球部の仲間や応援してくれてた親、友達は落胆の色を見せたけど、三年になったら練習を再開できることを告げると、まるで自分のことのように安堵してくれた。
それから半年間、俺は下半身を重視したトレーニングを行うことにした。
部に顔を出していても、ボールを投げられない。そんな日々が続き、俺は不完全燃焼だった。
精神的にも参っていたそんなとき、同級生で、担当医の同僚の娘でもある犬飼に呼び出された。
彼女は俺の親友である響弥に執着心を持ち、度の過ぎた付き纏い方をしていた。響弥に関することなら断固拒否と決めていたが、彼女の用件は俺にとって、喉から手が出るほどに望んでいたものだった。
「渡辺君、本当はもう前みたいな練習していいんだよ。あのお医者さん、以前患者さんの体をちょっと駄目にしちゃってから心配性なの。その患者さんはお年だったから仕方がなかったけど、渡辺君はまだ成長期の段階だし、おそらく大丈夫だろうって」
欲していた言葉に、気分が高揚していくのが分かった。練習を渇望していた俺に、彼女は更なる甘い言葉で俺を惑わせた。
野球がしたいかという問いに、俺は躊躇いもなく首を縦に振った。
過激な運動禁止を言い渡されている為、人目に付かないように練習するべきだと言った犬飼は、場所を提供してくれた。
野球ができるということに喜んでいた俺は、医者の娘だというだけで彼女を信用し、冷静な判断力に欠けていた。だからひたすら、今までの練習の遅れを取り戻そうと、躍起になってボールを投げ、バットを振り続けた。
桜の花びらが散ろうとしていた三年の春、かつてない激痛が肘と肩にはしり、すぐさま救急車で運ばれた。病院へ運ばれる最中、俺は痛みのあまり意識を手放した。
……心の奥底では、まだ練習を再開しちゃいけないことに気付いていた。それでも無理矢理、気持ちに蓋をしていたのだ。何故、練習を再開したのか。それはきっと、自分の能力の衰退を恐れていたに過ぎない。
三年になったら完治すると診断されたが、治らなかったらどうしよう。前みたいに投げられなくなって、皆の足を引っ張ったらどうしよう。……色んな不安が自分を取り巻いていた。
しかしこんな状態になってようやく、どうすることが自分と周りの人達を失望に陥れるかを悟った。自業自得という言葉が脳裏を何度も駆け巡った。
ふと瞼を上げる。ボンヤリとした意識の中で、その情景が夢か現実かの判断はできなかった。「野球がしたい」、「さっき打った球はどのくらい飛んだ?」など、他にも色々夢うつつで呟いていた気がする。
医師を罵る八重子。噛み付かんばかりの八重子を必死で抑える、八重子の親友の明良。三人の傍らには、両手の拳を握り締め、鋭い眼差しでリノリウムの床を睨みつける響弥の姿。緊迫した空気に、ようやく状況が呑み込めた。どうやら俺は無意識の内に全てぶちまけていたらしい。
怒りの矛先が誰に向くのかは、想像に難くない。すぐにでも起き上がり、弁解したかった。「違うんだ。こんなことになった原因は俺にある。疑いもせずに鵜呑みにした俺が馬鹿だったんだ」と。
しかし鎮静剤か睡眠薬でも投与されていたらしく、俺は起き上がることもできずに再び気を失ってしまった。
後日、俺は響弥に停学処分が下ったことを八重子から聞いた。意識が虚ろだった俺から真実を聞かされた響弥は、その足で学校に向かい、犬飼に暴力を振るったらしい。
重くなる雰囲気に堪えられず「普段大人しい奴がキレたら怖いな」と苦笑したら、眉を吊り上げた八重子に「響弥君がやらなきゃ、あたしか明良が殴っていた!」と、大声で怒鳴られた。
それから数日後、学校に復帰した俺を、学校の皆は浮かない顔をしながら、しかしホッとした様子で迎えてくれた。必要以上に構われることに自責の念を覚え、それでも心配されているということには、素直に感謝した。
犬飼は響弥に殴られた日から登校を拒否し、そして知らぬ間に街から姿を消していた。
「……物分り良すぎると思う、渡辺って」
話し終えた俺に、響弥の彼女である佐伯がそう口にした。
「とんだピエロだろ」
「それは自分を卑下し過ぎ。体に障害を残して野球を挫折させられたのに、それでもマネージャーとして野球にしがみ付いてる。才能があるってだけでチヤホヤされる人なんかより、よっぽど凄いよ」
そんな言い方をされて、俺は照れくささを誤魔化すため後頭部を掻いた。
八重子をはじめ周囲の人間は同情からか、いつの間にか俺の前で犬飼のことを口にしなくなった。
響弥に振り向いてもらうために周りの人をいなくさせようと動いた彼女の行動は、確かに自己中だ。でも、野球をしたい欲求を耐え切れずに自分で足を引っ張った俺もまた、自己中な人間でしかない。
後悔先に立たず。複雑な思いを胸に残しつつも、佐伯に言われたことに嫌な感じはしなかった。
麻生学院大付属高校一年一組、これで終了です。
何名か、別タイトルで続編を書く予定です。




