三十五番:穂塚跳
家出した、兄であり親友でもある相手から手紙が届いた話。
夏休みも半ば過ぎたの八月のある日、その手紙は届いた。
白くて面長の、コンビニやスーパーで売られている一般的な封筒。指先から伝わる厚みからして、中身は便箋ニ、三枚程度だろう。切手の上に押された赤い判には“宇和野”という見知らぬ地名が印されている。つまりそれは、投函された場所が麻生学院のあるこの村主市とは別の場所であることを示唆していた。
“穂塚跳様”。まるでペン習字の手本を思わせるような丁寧な字で、寮の住所と僕への宛名が記されている。裏を返してみたが、差出人の住所はおろか名前さえ書かれていなかった。
はらう所ははらい、撥ねる所は撥ねる字癖。それに封筒から仄かに漂う、白檀の香り。
……誰から送られてきたのかは、封を切らずとも見当が付いた。
「弾君、凄いわねぇ。夏休みに作った図工の作品、全国に出品された上、金賞ですって?」
「そうなんですよ〜。もう家族皆で興奮してはしゃいじゃって。跳も学校内では賞を頂いたんですけどねぇ」
「まぁ。跳君にも才能があるのねぇ」
母親が近所の小母さん相手に自慢話しているのを傍で聞きながら、僕は弾に向けられた賞賛をまるで自分のことのように捉え、誇らしく胸を張っていた。弾のついでと言わんばかりの僕の評価など、取るに足らぬこと。それは僕自身、認めていた。
自分に賞賛の目が向けられるよりも、弾が褒められることの方が嬉しいという辺り、どれだけ昔から弾という存在に依存していたのか……呆れを通り越して、苦笑しか出てこない。
弾というのは、三つ年の離れた兄。平々凡々の顔立ちをした両親のどちらとも似ておらず、かといって端麗でもない、素朴な顔立ち。それに華美でない服装を好むからか、第一印象は「影が薄い」と言われることが多かったらしい。しかし頭の回転が速く、即決力もあって、誰にでも隔たりなく愛想を振り撒く好印象からか、委員長や班長なんかに推薦され、重圧に負けることなく周囲の期待に応えていた。
尊敬される人柄だというのは、誰の目から見ても明らかだった。
僕は親よりも弾の背を見て育った。弾が親の手伝いをすればそれに倣い、勉強すれば隣で真似をし、外で遊べば親鳥を追う雛のように後をついて行った。
“ブラコン”と友達や従兄弟の語にからかわれても、大好きな兄に反発するなんてことはしなかったし、弾も誰かに揶揄されても、僕を邪険に扱うような真似はしなかった。
兄の背中を追いかけるだけの僕だったけれど、その意識が良い意味で覆されたのは、弾が小学校を卒業した後。家に届いた中学の制服に袖を通した姿を目の当たりにしたときだった。
小学生と中学生の壁。どう足掻いても埋まることのない年の差。それを見せつけられた瞬間だった。
このときになってようやく、自分が弾と同等になりたかったことを悟ったのだ。
制服姿の弾の前に立ちはだかり、宣言していた。
「僕、弾の隣に立つ人間になりたい。弾と対等になりたい」
このときから僕は弾のことを“兄ちゃん”と呼ばずに“弾”と名前で呼ぶようになった。
そんな僕に動じることもなく、弾はいつも見せる優しく見守るような笑みを消し、僕がそう口にするのを待ち望んでいたと言わんばかりの好奇の色を双眸に浮かべて、初めて挑戦的に笑って見せた。
それからというもの、僕は弾にタメ口を利くようになった。弾も最初のうちは今までの癖が抜けきれず、以前同様の態度をとっていたけれど、次第に今まで吐いたことのない愚痴を零すようになって、やがて本当に同い年のような感覚になっていた。
「なーんか、学校の友達と話すより、弾と喋ってる方が自分を表せるなぁ」
「俺達、兄弟っていうよりはホントのマブダチっぽいな」
兄弟だけど、親友。僕が弾と同じ位置に立つのは、意外に早かった。
……しかしそれは、思い上がりだったのかもしれない。
「合格おめでと、跳」
自分がつい最近卒業した麻生学院大付属高校に合格した弟に、弾はハンドルを握りながら祝いの言葉を口にした。高校に進学したときから付けるようになった白檀の香水は、このときも弾の肌に、服に纏い、車内にも甘い芳香と共に爽やかさを漂わせていた。
「サンキュ〜。でも寂しいよなぁ。弾、てっきり麻生学院大に行くと思ってたのに、違うとこ行くんだし」
弾は去年の内に国立大に推薦合格して、春からそこへ通うことになっていた。もっとも、高校より近い場所なので自宅通いだが。
「……あのさ、お前、大学はどこに行こうと思ってる?」
「気、早くない?僕、たった今高校に合格したばかりなんだけど」
「いいから」
抑揚な口調にも関わらず、少し硬質さを感じさせる弾の声に訝しみながらも、素直に答えた。
「せっかくエスカレーターで上がれる学校合格したんだし、そのまま麻生学院大行こうと考えてるけど……何?」
「……跳。俺、お前を家に送った後、行く所があるから」
話をはぐらかし、それっきり、弾は黙り込んでしまった。
……質問の答えを聞かなかったことは、今でも後悔している。何故ならそれが、僕が目にした弾の最後だったから。
弾が初めて無断外泊した翌日、弾の部屋で一通の手紙を見つけた。それには自分が家を出ること、大学の入学を辞退することだけが書かれていて、行き先など一切記されていなかった。
手紙を両親に見せると、二人は半信半疑で大学に問い合わせをし、確認をとっていた。警察に捜索願を出したのはそれからだ。
わざわざそんなことをせずとも、手紙を読んだ時点で僕には分かっていた。弾が大学に入学取り消しの手続きをしたことも、貯金が全額下ろされていることも、既にこの街から姿を消していることも。……誰よりも弾に近かったからだろうか、手に取るように分かった。
騒ぐ両親をリビングに残し、僕は再び弾の部屋へと足を運び、ベッドの上で両膝を抱えた。
……僕は本当に、弾と同じ位置に立っていた――――?
何も言わず姿を消した弾のことがショックで困惑する胸中、ベッドに染み込んだ白檀の香りを吸い込みながら、僕は弾の後姿を追う白昼夢を見ていた。
弾が謎の失踪を遂げたことを切っ掛けに母親が精神を患い、田舎で療養することになった。父親も付き添う形で住居を離れ、以前住んでいた家は、現在売りに出されている。
従兄弟の語も麻生学院大付属高校に通うことが決まり、吉野家に住むことを勧められたけれど、断った。その為、今は寮で生活している。
だから弾は、僕が寮通いしていることなど知らないはずだ。
それでも弾でないはずがないという確信を持ちながら、冷や汗が背筋に伝うのを感じつつ、微かに震える指先で封を千切った。




