二十九番:氷室秀
親友に辟易する少年の話。
今日が今年一番の冷え込みになると言っていたのは、気象予報士だったか。母親だったか。はたまた、隣を歩く親友だったか。
セーターの上にコートを羽織り、手には手袋、首にはマフラー、足下はロングブーツ、さらには頭に毛糸の編み帽子。とりあえず防寒対策は完璧だ。でも顔だけは別。さすがに顔にカイロを貼って歩くわけにも行かないので、冷たい風がやってくるたび、冬将軍に嬲られているような感覚に陥る。
おまけにさっきまでの拷問……。断言しよう、俺は風邪をひき始めている。
「ぶぇっきしゅん!」
寒さに震える俺を嘲笑うかのように星が煌く夜空の下で、近所迷惑なほど大きなくしゃみが出てしまった。
「ううぅ……何で冬はこんな寒ぃんだよ、こんちきしょうめ」
「寒いから冬なんだろうが。つーか、冬がなくなったら日本はもう終わりだ。温暖化反対。ノストラダムスの大予言だ」
コートの襟の間をかき寄せる俺の横で、親友の鷺沼が鼻息荒く勇む。
前半はともかく、最後の言葉、意味解んねぇ。ノストラダムスなんてとっくの昔の人間だろ。ていうか、実在の人物だったのか?一九九九の年はとっくに過ぎてるだろ。時代は既に二十一世紀だぜ?……大して変化してないけど。
「俺が冬駄目なの知ってるだろ?」
「あぁ、全く駄目だな。毎年風邪やインフルエンザにかかって「俺、もう死ぬかも〜」なんて毎回のようにほざくヘボヘボのヨロヨロ。そういう奴に限ってしぶとく長生きするんだよな」
こいつの言ってることはまぁ事実だけど、あまりの言いように思わず拳が出る。が、鷺沼はそれを見越していたようで、ひらりとかわしてケケケと笑った。
「そんなでかい図体して、何で風邪ひくかねぇ?」
「馬鹿じゃない証拠だろ」
「おつむの弱い風邪ひきがここに一人」
再び掌をグーにするが、今度は「冗談です、冗談」と下手に出たので、とりあえず殴るのは止めてやった。
「ぶぇっきしゅん!」
うぉ!今度は鼻水まで噴き出しかけた。
「おいおい、俺にまでうつすなよ」
親友が差し出したポケットティッシュを有難く頂戴し、鼻をかんでから文句を言う。
「誰の所為だと思ってやがる!部室内とはいえ、俺をすっ裸にした挙句、マッチョポーズを三十分もさせやがって!」
遡ること一時間半前。顧問の急な用事と風邪による多人数の部員の欠員、おまけに雪の影響で部活が中止となった。本当はミーティング後解散のはずだったが、副部長の突発案“男だけの王様ゲーム”に鷺沼をはじめとする奴らが悪乗りし、結局つい先程まで巻き込まれてたのだ。この時点ではくしゃみどころか咳一つしてなかった俺も、鷺沼が王様となった所為で三十分も片足を内側にくの字に曲げ、両腕も内側に曲げるというポーズをとらされ続ける破目となった。……トランクス一枚で。
「それでもストーブ付けただろ」
「マッチョポーズから解放される五分前にようやくな」
暑かろうと寒かろうと、雨の日だろうと暴風警報が出てる日だろうと、部活をして常に鍛えていたからだろうか。悪質な風邪に負けず募った硬式テニス部の男達はミーティングが始まってから一時間半、室温十度に何も厭うことなかった。てか、俺がストーブを言い出すまで誰もがその存在を忘れていたに違いない。
大体部室にストーブがあるの、俺今日初めて知ったし。
「でもお前のおかげで次のイベント用に描く内容、思い浮かんだぜ。タイトルは“ゴリラ、草食動物に食われる”」
誰の影響か、鷺沼はオタクだかマニアだか、そんな風に敬称される、どこか一般人には理解しがたい趣向に走りつつあった。
自分じゃなく他人の嗜好だから、とやかく言わない。でもこいつの将来、不安要素が多すぎる。
「……何だよ、そりゃ」
つーか、ありえねぇだろ。おそらくジャンルはギャグなんだろうけど、傍から聞くとサバイバルだぞ。つーかキモイ。俺ら、夕飯前だろうが。
こいつの手によって描かれる草食動物に、思わず同情しちまう。
「バナナよりもライオンの肉を好むゴリラは、コスモを束ねる女王ツンツルピカの愛用芳香剤に惑わされる。その影響で体内の細胞組織が組み替えられ、脅威の強さを得た反面、草食動物が好む草なんかよりも美味い肉になってしまったという――――」
「もういい、やめろ、喋るな」
何も食ってねぇのに胸やけがする。ギャグストーリーだって分かってるから、突っ込むのも馬鹿馬鹿しい。
鷺沼に時々借りるノートには、必ず変な落書きがされている。こいつの頭の中には虫が湧いているに違いないとは思ってたが、まさかここまで酷いとは思ってなかった。こいつとは親友同士だから付き合い長くて、ある程度理解してるつもりだったんだが……俺もまだまだだな。
ふと、鷺沼の妹である亜沙子の存在が頭の中に過ぎる。気性は激しいが、こいつに比べたら明らかに人間味のある普通の子だ。
「秀君お願い、あの馬鹿兄貴の変態妄想癖をどうにかして!でないといつかきっと、変質者で逮捕されかねないから!」
……ごめん亜沙子。俺如きがこいつの妄想癖をどうにかできるわけがない。世間から見ればこいつはそれなりに学力がある方だろうけど、相当頭のネジがぶっ飛んだ奇人だ。凡人の俺にどうにかできるような人間じゃない。
この親友が何を考えてるのかはさっぱり分からない。
だがこいつといれば退屈はしない。暇をもてなすこともない。理解はできないが、こいつといれば気楽だと思えることに最近気付いた。
自分の妄想をベラベラ喋る鷺沼の横を歩き、俺はこれから食べるファミレスのメニューを脳裏に描いた。現実逃避と言い換えても構わない。




