二十六番:長谷雄亮
恋愛未満の話。
吐き出された紫煙が、空気に溶け込むようにして消える。それを見届け、俺は隣に立っている一人の女を見遣った。
「毎日同じ風景見てて楽しいか?」
呆れる俺に、彼女は顔だけをこちらに向けて薄く笑みを浮かべた。それが肯定を意味していると気付いたのは、つい数ヶ月前だ。眼鏡の奥にある黒い瞳は、相変わらず本心から笑っているようには見えないけれど。
相沢若葉は中三のときのクラスメイトだった。但し、当時俺達は学校で接触したことなど一度たりともなかった。
――――中学の三年間、彼女が不登校児だったからだ。
「昼間も来りゃいいのに。どうせ誰も屋上になんか上がってこねぇだろうし」
“家が金持ちで家庭教師を雇っているから、学校に来る必要がない”、“親から虐待を受けてて外に出られない”、“小学生の頃のイジメを引き摺っている”、“通り魔に襲われたショックで気が狂った”……。
同級生は様々な憶測を口にしていたが、真実は謎に包まれたまま。担任も何度か家を訪ねたらしいが、両親と会合できたことはなかったらしい。
「この学校は私服だし、バレねぇって。あぁでも、女子は一年だけだから絶対とは言えねぇか。……帽子被ればどうだろうな」
煙草を持ってない右手で若葉の長い三つ編みを弄びながら、左手で灰を落とし、再びニコチンを求める。
「なぁ、何で髪切んねぇの?」
若葉と初めて言葉を交わしたのは、中学の卒業式翌日。相沢家は地区内では珍しい洋館で、誰もがその蔓屋敷的外観を知っていた。
友達の家からの帰り、カラスが鳴く夕焼け空が映える時刻に、俺は相沢家の前を通り過ぎようとした。そのとき、普段は人気さえ感じさせない不気味な鉄ゲートの奥から、靴と石畳が擦れる音がしたのだ。
ギョッとして顔を上げた俺と、中から出てきた少女の双眸とが交差した。
「髪は女の命っていうよな。こんだけ長いと髪洗うの、面倒じゃねぇ?」
三つ編みを束ねている紺のゴムを解き、改めて若葉の髪の長さを確認する。痛んでいるとはいえ、その長さは腰まで届いていた。
一年前「相沢若葉は長髪が良く似合う知的な感じの、思わず守りたくなるような華奢な美少女に違いない」なんて勝手な妄想を膨らましてた友達がいたけど、長髪で知的な雰囲気はともかくとして、普通……というより目立たない容姿をしていた。
手入れしているのか疑わしい、ボサボサで痛んだ長い黒髪。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡。一重で横に細い小さな目と低い鼻。所々頬にはニキビの痕が残り、体型も華奢ではなくむしろポッチャリしていた。
「願掛けとか、失恋したら切るつもり、ってか?」
街の景色を見下ろしていた女は、体ごと俺の方に向き直った。
『相沢若葉?』
突然質問した俺に動じることなく、彼女は一つ頷いた。
そのときの俺は初めて目にする相沢若葉に驚きすぎて、如何かしていたに違いない。……けれども、あのときの行動に後悔はない。
『デートしよう』
相手の返事も待たずに、俺は若葉の手を握って歩き出した。若葉はというと、何も言わずされるがままといった状態だった。慌てる様子もなければ、拒む様子さえ見られなかった。
辿り着いたのは、四月から入学することになっていた麻生学院大付属高校。受験以来、初めて入る校舎内に緊張しながらも、俺は彼女を屋上に連れて行った。
思い返せば、屋上なんて立ち入り禁止で閉まっていてもおかしくないのに。
『……何でここに連れてきたんだ、俺。女と歩くなら普通、繁華街とか、賑やかな場所が妥当だろうが』
勝手に動いていた己の足と、それを指図していた脳みそに呆れて、鬱屈した胸の内を吐き出すように嘆息した。
そんな俺に気にかけることなく、ただ袖を引っ張って、若葉は街の景色を見渡すよう促した。
『このような景色を見せてくれたこと、感謝する』
「私がこの時間帯に来るのは、雄亮と一緒にこの景色を見たいからだ」
ニヤリと笑ったその顔は、半年前にこの景色を見て、初めて若葉が喋ったときと重なった。
入学式の日の夕方、友達と別れて屋上で一服していた俺は、突然開いた扉に狼狽し、煙草の火を消しながら恐る恐る後方を振り返り――――現れた人物に目を瞠った。
二日前と服装しか変わってない若葉は、淡々とした様子で俺の隣に寄り、街の景色を見下ろした。
若葉は何も言わず、俺も特に語らなかった。
俺達はその日から、雨の日以外の平日はこうして放課後、二人きりで街の景色を眺めるようになった。
「雄亮にフラれたら、髪は切ることにしよう」
俺はその言葉に笑って、若葉の髪を一房、自分の指に絡ませた。……最小限に抑えた照れ隠しだ。
この景色をこれからもずっと、見られるわけじゃない。俺はまだ、若葉のことを全然知らないし、若葉もきっと、俺がどんな人間なのか知る由もないだろう。
だからこの三年間、じっくり時間をかけて少しずつ歩み寄っていこうと思う。




