神族(シンゾク)の翼
世界には、四つの種族がある。
自由に天空を飛び回り、天候を自在に操る神族。
闇を好み、魔力を持つ魔族。
地上を闊歩し、物を作り出す技術に優れた人族。
海や森にすみ、剛力を持つ獣族。
それぞれの種族は寿命、美醜、姿かたちに多少の違いがあれども、皆、人型を基調とし、意思疎通ができる。
神族は背中に大きな翼をもち、どの種族からも美しいと称賛される外見で、不老不死に近い長寿で種族の中でも無上の存在のため、他種族との交流も同種族とのなれ合いもほとんどない。
性別はあるが交配することが少なく、新たな命の誕生も滅多にない。
魔族はある程度の力を持たなければ人型になれず、魔力の強さと美しさが比例し、強く美しいものほど寿命が長い。
人族は力も持たず、寿命も短いが一番繁殖力が強く、他種族との交配が可能な唯一の種族。
獣族は動物の仲間ではあるが、一般的には人語を理解し、理性的なものを指す。
魔族同様、力の強さと外見が比例し、力の強いものほど人に近い容姿をしている。大体は二足歩行するが動物に近い姿をしている。
寿命は動物の2倍程度だが、中には人族の数倍長寿のものもいる。海に棲む獣族は魔族並みに長寿。
四種族が交流することは少なく、神族は人族以外との交流はなく、交配も滅多にない。
魔族は神族とは相反する気質があり、人族は糧として、獣族は使役の対象として見ているので、人族との混血も忌み嫌うものがいる。
人族は神族に崇拝、魔族に恐怖、獣族に友好の感情を持つものが多く、獣族は人族との交配に憧憬している。
各種族は空、闇、地上、海や山や森などに棲み分け、独自の世界と文化を持っていた。
*****
種族同士、ほどほどの距離を保ち、概ね友好に平和に暮らしているある日、神族の若い女が一人、地上に降り立った。見た目的には人族の20代に相応するが、実年齢は百歳以上だ。
滅多に地上に現れない神族。女も気まぐれと興味半分で地上に来ただけだ。深い森の奥にある、美しい湖の傍に降り立ち、彼女は湖を覗き込んだ。
湖面には、豊かな金色の髪をした、青い瞳の美女が映るが、女は自分の美しい姿より、深い水底まで見える透明度に魅了された。
「綺麗・・・。」
にっこり微笑むと、神族の女は背中の翼を折りたたむ。
銀に輝く純白の翼は、スーッと彼女の背中の中に消え入り、代わりに胸元に水晶の粒が現れる。
直径5mmほどの小さな水晶は中心が金色に光り、ペンダントのように鎖につながれていた。
彼女は一枚布でできた衣服を脱ぎ捨て、裸で湖の中に入る。
冷たい水が心地よく、一人湖の中を泳ぎ、時には水を救って空へ跳ね飛ばして遊ぶ。
きゃっきゃっとはしゃいで、彼女は時間も忘れて水と戯れる。
風がそよぎ、肌寒さを感じて、岸へ戻れば、一人の男がじっと彼女を見つめていた。
岸辺に胡坐をかいて、膝にスケッチブックを抱え、男は真剣なまなざしで何やら描いていた。
「何をしている?」
神族の女は男のすぐ傍まで泳いで、彼を見上げると、男はびっくりして、スケッチブックを投げ出す。
彼女の傍に飛んできたスケッチブックを覗き込めば、それは、水で遊んでいる彼女の姿が何枚も描かれていた。
神族は美しいものが好きで、女も人族の男が描いたその絵に一目で魅了された。
女の胸元が光り、ペンダントが体に溶け込むように消えると、彼女の背中に大きな白い翼が現れる。
「神族・・・?」
男が目を見開いた。
滅多に現れない神族。いるという話は聞いたことがあるが、見た者がほとんどいないので、半ば伝説化していた種族を初めて目の当たりにしたのだ。
ザバリと水を揺らし、女が湖から上がる。
素裸のまま、ふわりと湖面の上に立った姿の美しさに男はドキリとするが、女は肌を隠そうとはしない。
神族には羞恥心という感情がないので、誰にどんな姿を見られようと堂々とするさまは神々しいばかりで、男も女に対して欲望よりも崇拝を感じ跪く。
背中の翼が一凪すれば、女の体は一瞬で乾き、地面に落とされていた布が彼女の手元に飛んでくる。
身体に布を巻きつけると、女が男のすぐ横に降り立つ。
風が舞って、スケッチブックから、女の絵だけが彼女の手元に集まった。
「なかなかにいい腕をしているな。これらはもらっておいてやる。」
まるで自分のものにするのが当然だというような横柄な態度に、男は一瞬ムッとしたが、相手が神族ならば仕方がない。神族は種族の中でも頂点に君臨する存在なのだから。
「お、お待ちください!」
女が飛び立とうとするのを、男が慌てて呼び止めた。
「私は、もっといい絵が描けます。あなたの美しさ、神々しさを存分に表現した素晴らしいものが・・・!」
だが、女は興味のない目で男を黙って見つめた。
「今、お持ちの絵は、ただのラフ画。・・・下描きのようなものです。きちんとしたキャンバスで、色をお付けすればもっといいものになります。」
「色・・・?」
宙に浮いていた女の体が下に降りる。
興味を引けたと、男の目が輝く。
「はい。色です。空の青、森の緑。あなたそのままの色をお付けいたします。」
「面白い。色がついた絵を見てみたいな。」
女の頬がわずかに緩んだのを見て、男は彼女の足元に平伏する。
「必ずあなたのお気に召す絵を描き上げます。ですから、お願いがございます!」
「願い?」
「はい。私の5歳になる娘が、2年前から歩行困難になりまして、今では全く歩くことができなくなりました。医者に診せても難しい病気で治療ができないというのです。どうか娘が歩けるようにしていただきたい。」
神族の力には、癒しがある。重病者に奇跡を起こし、命を救った話はよく聞くし、だからこそ人族は彼らを敬愛し崇拝しているのだ。
「お願いします。娘を助けてくださるのなら、どんな絵でも、何枚でも描きます!」
男は懸命に女の足に縋りついた。彼女はしばらく男を見下ろし、やがて静かにいう。
「娘の足を完治させることはできない。だが、しばらくの間歩かせることはできるだろう。」
男はがばっと顔を上げ輝かせる。
「本当ですか!!?」
「お前が絵を描き上げるまで、娘を歩かせてやろう。」
「ありがとうございます。ありがとうございます!!」
男は額を地面に擦りつけて、何度も礼を言い、女を自宅へと招いた。
男は、この森と湖を領地に持つ若き領主で貴族だった。両親はすでに他界し、妻も娘を産むと同時に亡くなったという。大きな城に大勢の召使を従えて娘と二人で住んでいた。
さっそく女に一番上等の客室を与え、賓客として優遇する。
立派な応接室の豪華なソファに座っていると、神族の女は領主の娘に引き合わされた。
「女神様!私の足を治してくださるの!?」
上半身はふっくらしているが、小枝のように細い足をした小さな少女が車いすに乗ってきらきらと期待に満ちた目を輝かせて神族の女を見つめる。
「治せない。」
女がきっぱりいうと、少女の目に涙が浮かぶ。
父親である領主はおろおろと心配そうに娘と女を交互に見た。
女は黙って背中の翼を折りたたみ、水晶と化したペンダントを外す。
「だが、これを貸してやろう。」
女がペンダントを娘の首に掛けると、娘の体がふわりと浮いた。
娘は驚きの目のままそっと立ち上がる。水晶の羽の力で、地面からわずか数ミリだけ体が浮いている。
はた目には一人で立っているように見えるので、周りでもどよめきが起こる。
「朝から夕方まで。お前が起きている間、それを付けていれば、体重を支えられるだろう。夜には返しに来い。絵が完成するまでの間、貸してやろう。」
女の言葉に、娘は数年ぶりに立ち上がった喜びで、そこらじゅうを飛び跳ねはしゃいでおり、領主は涙を流して喜んでいる。
召使いたちは奇跡を目の当たりにして目を丸くするばかりだ。
「ありがとうございます。女神様。」
娘の無邪気な笑顔に、女の表情も明るくなる。
水晶に閉じ込めた己の翼がなければ、神族の女は力が使えなくなるのだが、気に入った人族の男と娘を喜ばせることができて満足気だった。
二人は神族の女に感謝し、絵を描く以外にも彼女の欲しがるものを与え、何でも手に入れようと奔走する。
力を使えない女は人族と同じように歩かなければならなくなった。
「体を支えるというのは、随分骨が折れるものだな。」
体重を感じ、身体が重くて少し歩くだけで息切れのする神族の女のために、領主は娘と同じように車いすを用意した。
「動かすのに苦労するし、ずっと座っていると腰が痛くなる。」
そういう女のために、柔らかいクッションを敷き詰めた豪華な椅子を作り、豪華になった分、重くなったその椅子は、頑丈な台車に固定され、それを専任の召使が押して、女を行きたいところへ連れて行くようにする。―――――神族の女は屋上に行きたがった。屋上にはエレベーターがないので、最上階から数段の階段を上らねばならないのだが、それすら女は”疲れるから”と言って嫌がる。
領主は森に棲む獣族に頼んでクマの獣人を、女の護衛として雇い入れ、彼に女を抱えて屋上に上がってもらうようにした。
二足歩行だが、顔はほとんどクマの形。手足も体も毛むくじゃらで獰猛な姿をしていた。
クマ男は力持ちで椅子に座った女を、一人で荷台ごと持ち上げてくれる。女は喜んでクマ男を傍に置き、移動の時は彼に命令した。
翼がなければ、身体も人族と同じように食物を取らねばならなくなり、肉や魚を食すことに抵抗のある神族の女は果物を好んだ。
珍しい果物も、彼女が欲しがれば国中を探し回る。
温度を感じるようになった彼女が寒がらないように、ドレスやコートを作らせ、ベッドには上質の羽根布団を何枚も用意した。
領民たちに尊敬され慕われている領主と娘が崇拝するので、召使達も皆彼女を大切に扱ったが、神族の女はそれを当たり前のように受け取る。
一日中彼女を運ぶためにそばに控えているクマ男には、数歩の距離でも荷台を動かさせ、毎日屋上への階段を上らさせるのだが、神族の女は一度も獣族の男を労うことはしなかった。一言の礼すら言ったことがない。
コートや布団は、保温を高めるために何重にも布を重ねれば、重いと文句を言うので、領主は神族の女のために家宝を売り払い、王族が使うような最上級の軽くて暖かな寝具とコートを手に入れた。
真冬のある日、神族の女がイチゴを食べたいといいだした。
「女神様。イチゴは季節外れです。春にならないと手に入りません。」
領主が申し訳なさそうにいえば、季節を知らない彼女はきょとんとする。
「なんだ?それは。今朝の朝食にイチゴジャムが出たのに、なぜイチゴが手に入らないのだ?」
「ジャムは保存がききますが、生のイチゴは長期間の保存ができません。」
領主が一生懸命説明しても、女は理解しない。
仕方なしに彼は魔族のものに頼んで魔法でイチゴを出してもらった。
「こんな偽物が食べられるか!!」
女は魔法で出したイチゴを皿ごとひっくり返してかんしゃくを起こす。
「私を謀ろうとしても誤魔化されん!お前たち人族が手ずから作り出したものと、魔族が魔法で作り出したものの違いが分からぬとでも思うのか!!」
神族の女は、人が作り出すものには、その努力と魂が込められているので、真似て出した魔法のものと根本が違うというが、領主には女の言わんとすることがわからない。
見た目も味も全く同じなのに、どう違うというのか?
あちこち探し、やっと領民の一人が温室栽培を試作しているというのを見つけ、無理を言って、試作品を譲ってもらった。
領民は平身低頭お願いする領主に恐縮して、一番出来のいいものを数個、彼に譲った。
だが、それすらも女を満足させることはできなかった。
「酸っぱいな。今日はこれで我慢してやるが、次はちゃんとしたものを用意しておくのだぞ。」
1個だけ食べて、後はいらないと、神族の女は言い放つ。
領主と、それを見ていた召使いたちの心に小さな棘が刺さる。
敬い崇拝していた神族の女が、わがままで傲慢なただの女に感じてきた。
5年10年15年。
神族の女が長くいればいるほど、周囲の人の心の棘は深く大きくなり、どす黒い感情が奥底に影を落とす。
だが、それでも、領主は娘が元気に走り回るのを見て喜び、領民たちは、そんな親子を微笑ましく思う。
神族の女は若く美しいまま外見はちっとも変わらないが、領主の容貌は衰え、幼かった娘は年頃の女性へと成長した。
やがて娘には恋をして結婚を意識する恋人ができ、昼間だけでなく、一日中いつでも彼の傍で歩き回りたいと願うようになった。
ペンダントを返す時間が遅れれば、女はクマ男を従えて娘の部屋まで取りに来る。
恋人と抱き合っていようと、時間通りに容赦なく取り上げる女に、娘は悲しい胸の奥に、別の感情が現れるのを、必死で抑え込む。
「せめて月に一度だけでも、夜もペンダントを貸していただけませんか?」
結婚した娘が夫と一夜を共に過ごしたいと願い、懇願しても、女は一顧だにしない。
「夜は寝るだけなのに、なぜ必要なのだ?何に使う?」
デリカシーのない言葉に、娘は赤面する。
神族は結婚などしない。性交渉を知らない彼女は男女の交わりにも無頓着で理解がない。そして、人族は神族のそういう習性を全く知らない。
交流がないゆえの齟齬は、娘がペンダントを返し、歩けぬ足で車いすに乗り、部屋に戻ってベッドで枕を濡らすたびに、少しずつ大きくなっていき、感情を誤魔化すのが困難になりつつあった。
薄氷を踏むような均衡は、やがて、神族の女の一言で、もろく壊れてしまう。
「そろそろ空へ帰ろうと思う。」
ある日の夕食時、食後のお茶を飲みながら女が食事途中の領主と娘に言った。
「え?」
親子は顔色を変えて目を見かわす。
女はそんな二人の様子に全く気付かず、笑顔を見せた。
「お前たち親子には世話になったな。絵も十分満足している。全部は無理だが、気に入ったものは持って帰ってやろう。」
領主が寝る間も惜しんで描いた神族の女の絵は、数十点にも上る。
治める領地と守る領民がいなければ、画家になっていた腕前の領主の作品は、どれも芸術的価値の高いものばかりだ。
「帰る・・・?空へ、ですか?いつ?」
領主が震える声で尋ね、娘は青い顔をしてペンダントを握り締める。
「今夜でもいいのだが、夜は地上の景色が見えにくい。明け方、日の出とともに、景色を見ながら帰るとしよう。・・・そういえば、娘。お前は一度でいいから夜もペンダントを貸してほしいと言っていたな。」
女が美しい笑顔を向けるが、娘は目を合わせない。じっとテーブルの一点だけを見つめている。
「今夜は特別に一晩中貸してやろう。明日の朝、ペンダントを返しに来い。」
種族の頂点として、神族の女は人族の親子に栄誉を与えたつもりだが、長年人と同じような生活をしていた女は、領主や娘にとっても、周りの者たちにとっても、自分たちと何ら変わらぬ同種に感じている。
傲慢で尊大な態度が鼻につく。
「約束が違います。あなたの絵を仕上げるまで、娘にペンダントを貸してくださるはず。今、描きかけの絵がございます。」
新しく描き始めた彼女の絵は等身大で、やっと下描きができたばかりだった。
「もう十分だ。お前の絵はどれも素晴らしいが、最初の頃のように感動することがなくなった。」
飽きたのかもしれんな。
女の言葉に、領主はカッとなる。
実際は、初めて彼女を見た時の崇拝する心がなくなったので、義務的に描く彼の絵が、神族の女の心に響かなくなっただけなのだが、誰もそのことには気づいていない。
「・・・わかりました。では、今夜はごゆっくりお休みくださいませ。」
領主が顔を伏せる。
「お父様・・・!」
娘が彼に目を向けると、領主はテーブルの下で拳を握り締め、怖い目でその手を睨み付けていた。
その目と、微かに震える父の体を見て、娘は何かを感じ取り、黙り込む。
そばに控えていたクマ男も、召使たちも、いつもと違う空気を感じ取っていたが、神族の女だけが気づかず、優雅にお茶を飲みほした。
部屋に戻り、湯あみをして、絹の夜着に着かえ、神族の女はベッドに入る。
人族の女の召使が、着替えや手入れを手伝ってくれるが、クマ男は手伝えないというので、神族の女は仕方なく、自室の中だけは自分で歩くようにした。
異性に対する恥じらいなどない女には、召使たちの言う男女の違いがまるで分らない。
夫以外の男に肌を見せてはいけないという節操を説明されても理解しようとしなかったが、クマ男が嫌がり、周りがうるさいので譲歩してやった。
ふかふかの羽根布団にくるまり、ぐっすり眠っていると、明け方近く、乱暴にドアをあけ放たれ、領主が、武装した兵士を連れて、神族の女の部屋に押し入った。
「何事だ!?」
女が飛び起き、周りを見れば、領主が一歩進み出て、その横でクマ男が腕を組んで女を見降ろしていた。
「女神様。部屋を移動していただきます。」
領主が冷たい目で女を見て言う。
「移動?何のことだ?それより娘はどうした?」
女がベッドの上に座って首を傾げていると、兵士が左右に割れ、娘が前に進み出る。
「おお、そこにいたか。さあ、ペンダントを返しておくれ。」
女が微笑んで娘に向かって手を差し伸べたが、娘は首を横に振る。
「いいえ。返しません。」
「何?」
女が驚きの目を向け、領主と娘を見つめた。
彼が顎をしゃくると、クマ男が進み出て、神族の女をベッドから引きずり出した。
「何をする!!」
獰猛な身体と違って、クマ男はいつも繊細な動作をしていた。女を運ぶ時も、壊れ物を扱うように大切に丁寧に運んでくれていた。間違っても、このような乱暴な態度をとる男ではなかった。
強い力で腕を引っ張られ、床に押さえつけられて、神族の女は何が起こったかわけがわからずにいる。
「お前は私の護衛ではないのか?私は守るべきものだろう!!」
押さえつけられる頭をひねりながら、女が抗議すれば、クマ男はにやりと笑う。
「お前など、領主の頼みでなければ誰が守るものか。俺のことを虫けらでも見るような目で見ていたくせに。獣族を蔑んでいるくせに偉そうな態度をとるな!!」
蔑む?
種族の頂点は神族だから、それにふさわしい態度を取っていたのだが、それが蔑む行為だと神族の女は知らなかった。そして、それが獣族のクマ男のプライドを傷つけていたことも・・・。
領主が片膝をつき、神族の女を見つめる。
「女神様。我々はあなたのためにあらゆる努力をしてまいりました。あなたのために時間を費やし、あなたのために散財し、あなたのために頭を下げ、多くの人の協力を得てきた。それもこれも、皆娘のため。娘の幸せのために、皆が貴女に尽くしたのに、あなたはそれを無に帰すのですか?」
「何を言っている?本来なら歩けないはずのお前の娘を歩かせてやったではないか!」
自分の命にも等しい翼を秘めた水晶のペンダントを貸してやった恩を忘れたかと、女が領主を睨み付ける。
だが、領主はそんな神族の眼差しを軽く受け流し、冷たい目を向ける。
「ずっと、生涯娘を歩かせてくれていたならば、我慢しました。一晩中夫とともにいたいという娘のささやかな願いさえも我慢させていたのに・・・。」
「昼間歩ければ十分であろう!あれは私の力の源。あれがなければ私は神族としての力が使えぬ!」
目で娘のペンダントを指す。
人族が持っていても、せいぜい体重を支えるくらいしかできないが、神族は翼を得て空を駆け巡り、天候を操作する。
女は夜の間に領地を飛び回り、日照りや水害が起こらぬように、雲の動きを変えていたのだが、彼女が内緒にしているので誰も知らない。
神族にとって、自分のいる領地を守護するのは当たり前のことなので、言わなくても知っていると思っていた。
「それではあなたも力を戻すのは夜の間だけでも十分でしょう!娘のためにも、娘の寿命が尽きるまで、ペンダントを御貸し願いたい。」
普通の状態なら、神族の女も、その願いを叶えたかもしれない。だが、クマ男に押さえつけられ、地面に顔を擦りつけられているこの姿で、人族の願いを叶えてやれるだけの器量を女は持ち合わせてはいなかった。
「断る!もう地面に這いつくばる生活はウンザリだ!私は空へ帰る!」
地面に這いつくばる生活。
その一言は、地上に住む人族も獣族も、魔族でさえも侮辱されたと受け止めた。
魔族も翼を持つものがいる。
だが、空高く飛べても天空で生活できるのは神族のみ。魔族は月夜であっても天空まで飛べず、ましてや日の光の中で、雲の上に棲めるわけがない。
神族以外のものは、地面に這いつくばって生活するしかないのだった。
「返せ!私の翼を返せ!!」
神族の女が叫ぶと、娘の胸に掲げた水晶の粒がふわりと浮き上がる。
ペンダントが首から外れるのを、娘は両手で握り絞めて阻止する。
「嫌!!返しません、返しません!!」
娘は水晶の粒をつかむと、それを口に含み、飲み下した。
「!!!?」
神族の女は目を見開いて、娘を凝視する。
周囲の者も、娘の突然の行動に驚いた表情をした。
「私の物です。もう、私の物です!絶対に返しません!!」
娘が泣き叫び、女は呆然と彼女を見つめる。
人族が持っていても、何の力も発揮しないそのペンダントをそうまでして欲しがる娘の気持ちがわからないのだ。
「なぜだ?お前は歩けなくても、運んでくれる召使いがたくさんいるではないか。彼らに命令すればどこへでも連れて行ってくれるのだろう?」
女の言葉に、みんなが冷たい目を向ける。
領主はため息をついて頭を振り、娘は涙に濡れた目で彼女を見た。
「空を飛べるのに、わからないのですか?他人の手を煩わせず、自分の力で自由に好きなところへ行くことの喜びが。」
「重い体を支えるのが嬉しいのか?命令すれば・・・。」
「命令、命令!命令!!」
娘が女の言葉を遮る。
「上の者が下の者を従えさせるのに、命令だけではだめなこともわからないのですか!!今、この場であなたの命令を聞くものがいると思っているのですか!?」
神族の女ははっとする。この場で一番上位である自分が、下位である獣族に押さえつけられ、人族の前で床に突っ伏している。
「は、離せ・・・!」
女が命令しても、クマ男の力は緩まない。
「離せ、離せ!離せぇ!!」
じたばたと暴れながら、周りを見ても、誰も動こうとしない。無表情で冷たい視線だけが彼女に降りかかっている。
「縛り上げろ。」
領主の声に兵士たちが動き、クマ男が拘束する中で、神族の女は縄で縛り上げられた。
自分の命令は聞かないのに、彼の命令には素直に従う。女は愕然とする。
「人を動かすのは心です。私たちがあなたのためにと心を砕き、尽くしたことを、あなたはもらうだけで、何も返してくれなかった。少しでも私たちに心を返してくださっていたら、このようなことはなかったでしょう。」
そう言って領主が顎をしゃくれば、クマ男が女を立ち上がらせ、縛った縄の端を引っ張った。女はたたらを踏み、よろけて転んだが、クマ男は縄ごと引っ張り上げて乱暴に彼女を立ち上がらせる。
「ちゃんと自分で歩け!」
ドスの聞いたその声に、女は凍り付く。
ぞんざいな口の利き方など、初めてされたのだ。
「・・・私をどうするつもりだ?」
青い顔で女が聞いた。
「二度と、空へ帰ろうとなさらないように、地下牢へ移動していただきます。」
領主が答える。
「地下牢?」
「はい。ここより狭く、暗い部屋ですが、お世話はさせていただきます。」
彼が女の前から体をずらせば、クマ男が彼女の縄を引っ張って歩きだした。
女は転ばぬように気を付けながら、クマ男に引きずられるまま自分の足で歩く。
ちらりと娘に目をやれば、夜着姿の彼女の胸元が光っているように感じた。
人の目には見えなくても、神族の女には見える。夜着に隠れているが、彼女の胸元、心臓の上あたりが金色に輝いている。
私の翼。
そこに、己の翼があると、女は確信したが、どうやって取り返せばいいかわからない。
未練がましく娘を見つめたまま、女はクマ男に連れられて部屋を出て行った。
城の奥深く。
石造りの階段を降り、薄暗い通路を通って、鉄の扉の前に連れてこられた。
扉には、目の高さが四角く切り抜かれ、鉄棒をはめ込まれた覗き窓があるだけだ。
部屋は石に囲まれた四角い部屋。今まで過ごしてきた部屋の半分もない広さで、奥に仕切りがあり、そこに洗面台やトイレ、シャワー室がついている。
ベッドに小さなテーブルセット、細いクロゼットが一つだけ。
一室だけなので、扉ののぞき窓から覗けば、着替えも寝ている姿も丸見えだ。仕切りも肩までの高さしかないし、足元がよく見えるので、部屋中どこにいるか一目で見渡せる。
床は平らな石だが、絨毯が敷いてあるので、冷たくはない。
暖炉があり、火が燃えているので部屋は暖かだ。
天井近くに嵌め殺しの小さな窓があり、そこは地上に出ているようで、日の光が差し込んでいた。
扉が開き、部屋を見まわしていると、クマ男は縄を解いて神族の女の背中を押す。
「さっさと入れ!」
よろめきながら女が部屋の奥へ入ると、扉が閉まり、ガチャリと鍵を掛けられた。
「着替えと、三度の食事はこの扉の下から入れます。それ以外のことは全てご自分でしてください。」
のぞき窓から領主の顔が見えた。
女が視線を下げると、扉の下部に、切込みがあり、そこが差し入れ口になっているようだ。
ここへ来るまでの間、女は動揺と混乱で何も考えられない。
暴れることもわめくこともせず、黙っておとなしくベッドに腰かける。
領主は一瞥しただけで、扉から姿を消し、人の気配もなくなった。
なぜこうなったのか、神族の女にはまるで分らない。
昨日までちやほやと世話を焼いてくれた人々は、彼女を冷たい目で見るようになり、もういうことを聞いてくれない。
差し入れられる食事も着替えも、前に比べれば格段に質が劣るものばかり。
果物しか食べられないというのに、肉や魚が出され、着替えは飾り気のないシンプルなドレスばかりだ。
寝具も通気性は良いが重い布団や毛布で、女は慣れるまで疲労感がたまった。
何もない部屋で、神族の女は何もすることがない。
食事は野菜や果物だけ食べ、ぼんやりと天井の窓を見上げるだけだ。
一度様子を見に訪れた娘は、見た目には同年代に見える神族の女の抜け殻のような姿に、少しだけ心が痛み、退屈しのぎにと本を差し入れた。
人族における道徳心と、感情を示唆する本を数冊。
最初は無視していた神族の女も、興味から本を読みだし、やがて、もっと本を差し入れて欲しいと頼むようになった。
本を読み、人族の文化や慣習に触れ、神族は種族の違いを痛感し、なぜ自分がこうなったかをおぼろげながらにわかり始めた。
神族にとって当たり前のことでも、人族にとっては傲慢に、わがままに見えるのだということが理解できた。そのため、領主も娘も、自分に反旗を翻したのだと。
だが、それでも自分は神族だ。人族ではないし、今更彼らと慣れあおうとも思わない。
女は、いずれ娘が死に、翼が自分の元に戻るのを待とうと思った。
人族の寿命など、神族にとってはわずかな期間。
人族にかかわったための己に対する罰だと、神族の女は思った。
地下牢に閉じ込められ、どれほどの月日が経ったかわからないが、ある日兵士が二人来て、神族の女の両手を体の前で縛りつける。
何をされても反抗する気はない。
女はおとなしく、兵士に両手を縄で拘束された。
「出てこい。領主様がお呼びだ。」
兵士の一人が縄を引っ張り、神族の女はおとなしくついて歩く。
部屋の中だけだが、日々の生活で、女も歩くことには大分慣れた。
階段をのぼり、領主の執務室へ連れ歩かれても息切れすることはなくなっていた。
その部屋には、領主に娘夫婦、クマ男が待っていた。
明るい日の光が入る大きな窓を背に、領主は執務机の革張りの椅子に腰かけ、娘夫婦はその横にある長椅子に並んで座っている。
獣族のクマ男は娘夫婦の脇に控え、空っぽの車いすの隣に立っていた。
久しぶりに見る太陽の輝きに、神族の女は目を細める。
空いているソファはあるのに、女は椅子を勧められることも縄を解かれることもなく、領主の机の傍で立たされた。
なぜ車いすがここにあるのか。
ぼんやり見ていると、女は違和感を覚える。
娘をじっと見つめ、彼女の胸から翼の光が消えていることに気づき、さっと顔色を変えた。
「あなたに聞きたいことがある。」
領主が声をかけても、神族の女は娘を見つめたままなので、兵士が彼女を小突く。
「おい。」
女ははっとして、領主へ顔を向けた。
「娘が突然歩けなくなった。何かしたのか?」
領主が睨みつけるように神族の女を見る。
敬愛の欠片もない眼差しに、対等な口の利き方。
領主にとって、目の前の女は、ただの女でしかないのだ。
「それは私が聞きたい。娘の体から私の翼が消えている。お前たちこそ私の翼をどこへやった?」
怒鳴りつけたい感情を押さえながら、神族の女は静かにいう。
領主は驚いた表情をして娘夫婦を見たが、彼らもわけがわからないと首を振るばかりだ。
「あれから、娘に何があった?何か変化がなければ消えることはない。私の翼をどこへやった。翼を返せ・・・!」
いら立ちがふつふつと湧き上がってくる。
大切な翼を無理やり取り上げて失くした親子に怒りを感じた。
「何もない。娘は普通に歩いて幸せな生活を送っていた。先週子供が生まれて、床上げをしようとした矢先に歩けなくなったのだ。あなたが何かしたのではないのか?力が使えないといっても、神族だ。出会ってから20年たつのにあなたの姿は何も変わらない。神族の力が使えるのではないのか!」
神族の幼少期は人族と同じくらいだが、青年期が異様に長い。若く美しいまま千年以上生きるのが通常だ。
天候を左右させたり癒しの力は使えなくとも、寿命は変わらない。
「子供?」
領主の言葉に女が反応する。
本を読んで知った、神族以外の種族の生態。
神族は子供を産む者は滅多にいない。興味本位で交配する神族はいるが、ほとんど妊娠しないのだ。長命ゆえに、種の存続のための子孫など必要がない。
対して、他種族は交配して子供を産むのがほとんどだ。魔族の中で長命といってもせいぜい数百年。神族ほどの寿命を持つものなどいない。皆子孫繁栄のために交配するし、異種交配も盛んだ。
命を繋ぐもの。
「娘の産んだ子供を連れてこい。」
可能性を考えて女が言えば、領主は眉を寄せる。
「なぜだ?」
「ペンダントを飲み込んだ娘の腹から出てきたのであろう?歩けなくなった原因はその子供にあるかもしれない。」
領主が娘を見れば、娘も不安げな表情をする。
領主は召使に子供を連れてこさせた。
生まれたばかりの赤子は、乳母の腕に抱えられ、すやすやと寝入っていた。
女が赤ん坊に近づこうとすれば、兵士が縄を引っ張り、乳母は身をよじって赤子を守る。
「見るだけだ。」
不貞腐れたように女が言い、領主は仕方なさそうに目で合図する。
乳母はしっかり赤ん坊を抱いたまま女に見せる。
神族の女は両手を縛られた手で、赤ん坊にそっと触れ、身体を確認する。
安らかに眠る赤ん坊の胸に、金色の輝きが見えた。
神族の女の翼は、赤ん坊の体へ移動していた。
女はホッとすると同時に、これをどうしようかと懸命に考える。
娘から赤ん坊へ命を繋ぐように移動するのであれば、いつまでたっても翼は自分の元へ帰らない。
「どうだ?」
領主が机に肘をつき、女を見つめて聞いた。
「私の翼は、この赤ん坊の体の中にある。」
その答えに、領主は項垂れため息をつく。娘は夫と顔を見合わせ、我が子に目をやった。
「どうしてそのようなことが・・・?」
「わからない。」
「水晶の粒を取り出すことはできないのか?娘をもう一度歩かせたい。」
領主の言葉に、女はギロリと睨みつけた。だが、彼は項垂れたままなので、気づいていない。
女は周囲を見回す。
兵士とクマ男の腰に、剣が下がっているのに気が付いた。
「・・・やってみるから、これを解け。」
女が両手を兵士に差し出す。
兵士が窺うように領主を見れば、顔を上げた領主は苦渋の表情を浮かべる。
力が使えないといっても、彼女は神族だ。
どれほど大人しく地下牢に繋がれていようとも、奇跡の力を持つ神族を領主も、その場にいるもの皆警戒している。
「手を使わねば、翼は取り出せない。」
早くしろと女がいら立つように言い、領主は逡巡した。
「お父様・・・。」
娘の促すような声に、領主は兵士に目を向ける。
「ほどいてやれ。」
兵士は頷き、女の縄をほどいた。
自由になった両手を、女は交互にさすり、手を握ったり開いたりしながら、乳母と赤ん坊の位置を確認し、兵士の剣を見る。
誰もが神族の女の動きを注視している。
女は兵士とクマ男の距離を測った。
兵士はすぐそばにいるが、クマ男は娘の近くで自分からは数メートル離れている。
女は縄の始末をして油断している兵士の腰から剣を引き抜くと、素早い動きで乳母の腕の中の赤ん坊をめがけた。
「っ!!?」
思ってもみない行動に、誰もが目を見開き、息をのむ。
乳母がすぐさま反応して、背を向け体を丸めて赤ん坊を庇おうとするのに、女は一瞬躊躇するが、構わず乳母の体越しに見える金の光めがけて剣を突き出す。
ざしゅっ!!
肉の切れる音がして、血しぶきが上がる。
みんなが見つめる中、血まみれになったものがドサリと床に倒れた。
からん。
金属が落ち転がる音がした後、急に強く抱き締められ、驚いた赤ん坊の泣き声が部屋中に響き渡る。
腕の中の元気な泣き声に、乳母は体を立て直すと、恐る恐る後ろを振り返る。
殺される。
そう思っていた乳母の目に、背中を真っ赤に染めた神族の女が床に突っ伏している姿と、彼女の足元で、片膝をついて、剣を振り下ろした形で構えているクマ男の姿を見た。
「・・・っ・・・!」
まだ生きている神族の女が、口から血を吐きながら、顔を上げる。
「お、・・・お前・・・、なぜ・・・。」
苦し気に息をしながら、女がクマ男に目をやった。
クマ男は、すっくと立ちあがると、女を見下すように見る。
「俺は、領主一族を守るために雇われた。若君を殺そうとするならば、神族だとて容赦はしない。」
「殺す・・・?・・・私は、翼を・・・。」
取り出そうとしただけだと言いたげに女の口が動く。
「お前、若君の心臓を狙っただろう?そんなところに剣を突き刺せば誰でも死ぬ。お前が死にかけているのも、俺が臓器を傷つけるほど深く切ったからだ。」
右肩から左の脇腹まで、クマ男の剣は女の体を引き裂いた。
どくどくと血が溢れ出て、息をするのも苦しい。それは人にとって致命傷になりうる傷を受けたからだと、女は理解した。
「・・・馬鹿なことを・・・。私を、殺せば・・・、翼は取り出せない・・・!」
「構いません!」
息も絶え絶えにいう女の言葉を、娘がきっぱりとした声で否定する。
「息子を傷つけてまで歩きたいと思わない。私は一生歩けなくとも構いません。」
「その通りだ。赤ん坊を切り裂いて水晶の粒を取り出すしかないのであれば、誰もそんなことを望みはしない。」
領主は立ち上がり、女の傍まで歩いてきた。
彼女の顔の横で跪き、転がっている剣を拾い上げて兵士に渡す。
「・・・お前たちが、望まなくても、・・・私は望む・・・!」
女が拳を握り、起き上がろうと腕をつく。
「返せ・・・。私の、翼だ・・・!」
腕の力で這い、乳母へ近づき右手を伸ばす。
ざしゅっ!!
再び、肉の切れる音がした。
神族の女は手を伸ばしたまま時間が止まったようにじっとし、一拍後、力が抜けたように床に突っ伏した。
そばにいた領主は瞬きもせずその様子を見、やがてゆっくりと彼女の体を見る。
神族の女の背中に剣が突き刺さっている。
そして、その束を両手で押さえるようにクマ男が立っていた。
「・・・お前・・・。女神だぞ・・・。」
呆然とクマ男を見つめて領主が呟く。
「これ以上苦しませないためだ。俺は神罰など怖くはない。」
動かなくなった女を冷たい目で見つめて、クマ男は心臓に突き立てていた剣を引きぬいた。
最初の一撃で即死してもおかしくない傷だ。苦しみを長引かせるより、さっさととどめを刺す方がよかったのだろう、誰も何も言わない。
しんと静まり返った部屋の中で、赤ん坊の泣き声だけがする。
娘は、乳母に目配せし、両手を差し出す。
乳母はあやしながら娘に近づき、赤ん坊を渡した。
母親の腕に気が付いたのか、赤ん坊は安心するように泣き声を小さくし、やがて微睡み始める。
領主は執務室にいたすべてのものに箝口令を敷き、神族の女の死体は秘密裏に敷地の片隅に埋めた。
赤ん坊はすくすくと育った。
普通の子供と変わりない息子の左胸には、両翼の形の痣がある。
母となった娘は、その痣を見るたび、無念で死んだ神族の女の最後が思い浮かばれる。
だが、悪いことをしたと思っても、後悔はない。
娘は頭を一振りして、忘れようと思った。
ある日、庭師は、庭の片隅が大きくえぐられているのに気が付いた。
半年前に、何かが埋められた跡があった場所で、また誰かが埋めた何かを掘り起こしたのだと思った。
「やれやれ、勝手に庭を弄って欲しくないんだがな・・・。」
以前、何かが埋められた時、領主に文句を言ったら、”自分の土地をどうしようと私の勝手だろう”と逆に怒られた。
今回も、領主が誰かに命令してやったことだろうと考えた庭師は、黙って土を元に戻す。
「庭の管理を任すのなら、全部任せてほしいのに・・・。」
ぶつぶつと文句を言うが、このこと以外、領主は穏やかで庭のことは好きにさせてくれる。
報酬も十分もらっているし、ちょっとくらいは我慢しようと、穴を埋めながら思った。
そこに何かを埋めたものは、そこが掘り起こされ空っぽになったことを知らない。
埋めたのは、兵士とクマ男で、彼らは埋めた後、決してそこへ近づくことをしなかったから。
庭師も、また怒られるのを避けて、掘り起こされ空になったことを領主に報告しなかったので、彼らはいつまでもそこに埋めたものが、そのまま埋まっていると思っている。