7 再びの呼び出し
エドヴィンに呼ばれたアイラはベルトルドとマリエッタに付き添われ部屋を移動する。昨日訪問した彼の執務室は相変わらず忙しそうに働く人ばかりだったが、王の憂いが晴れたせいなのか昨日の様な殺伐とした印象はない。アイラの訪問を受けすぐに手を止めたエドヴィンは笑顔で迎えてくれた。
「君には本当に感謝しているよ、カリーネに相談して正解だった。それで早速だが陛下より報奨が与えられる運びとなる。何か希望があるかね?」
エドヴィンの言葉にアイラの背にひやりと汗が伝う。王が不眠から解放されたのはアイラのお蔭ではなく全くの偶然だ。たまたま居合わせた場で王が眠ったからといって報奨を貰った後で、実は違いましたと証明されたときにどうなるのか。ベルトルドからしつこく疑っている様子を見せられては特にだ。とんでもないとアイラは首を振った。
「あれはたまたまです、本当に偶然なのです。報奨をいただくなんてとんでもありません。」
「偶然だろうと何だろうと、君があの場にいて陛下がお眠りになられたのは事実なのだよ。何も遠慮する必要はない。決められないなら一つでなくてもよいのだ。私からも何かしらの礼をしなくてはと思っているのだから。」
偶然と言葉にしつつも何か確信めいた視線を向けられ、アイラは戸惑い視線を震わせる。
「あの……そうですね。では……ロックシールドに帰ってからでも、ゆっくり、考えたいと……思います。」
エドヴィンが向ける見透かすような視線に戸惑いながら、何も貰わなければお咎めもないだろうと、万一に備えのらりくらりとかわすことにした。王からの褒美はゆっくりとも言ってられないが、エドヴィン自身からの物はそれでいいと返事をもらう。
「それからカリーネからも頼まれているので、嫁ぎ先の検討もゴルシュッタトでまとめさせてもらうよ。」
「いえっ、それは本当に遠慮いたします。わたしには結婚はするつもりがありませんから!」
結婚と聞いてアイラは即座に異議を唱えた。相手は格上の、世話になった侯爵が相手だ。ここでしっかりと否定しておかなければすぐに相手を見つけられてしまう。すると何を言っているんだとエドヴィンは首を振った。
「若い娘が修道院などとは嘆かわしいが、私とてロックシールドの内情は知っている。支度や持参金などはこちらで面倒を見るし、ロックシールドにとっても悪くない相手を選ばせてもらうから安心なさい。」
「そんな訳にはまいりません。それにわたしは弟の母親代わりとして、いずれ嫁いでくる方にロックシールドのしきたりやら何やらを教えなくてはならないのです。その時には婚期を大幅に過ぎております。こんな行き遅れを押し付けられる方にも申し訳がありません!」
支度や持参金の問題もだが、何よりもロックシールドに迎える弟の嫁を、ロックシールド男爵家にふさわしい人に導かなければならないのだ。贅沢のできない場所なだけに逃げ出される心配もある。アイラにとって弟が継いだロックシールドの行く末が最優先事項なのだ。他家に嫁いで子を産み育てていては、弟の元にやってくる嫁を教育する時間が無くなってしまう。だからどうかと必死で抵抗するアイラの言葉を、しかしながらエドヴィンは本心としては受け取らなかった。
「全て考慮の上だ、安心なさい。」
まかせておけと微笑むエドヴィンを前にアイラは頭を殴られた気分に陥った。ゴルシュタット家の当主が口利きをしてくれるというのは後見についてくれているのと同等だ。しかも支度や持参金まで。近しい血縁というわけでもないし、ゴルシュタットにとっては何の利益もないというのに大盤振る舞いではないか。確かにアイラを呼んで王の寝所に侍るというとんでもない事をやらせたのはエドヴィンだ。それがきっかけかどうかは解らないしアイラ自身は絶対に違うとわかっているが、王が眠ったからとてエドヴィンがそこまでする理由にはならない。両親を亡くし領地を乗っ取られそうになった時から今に至るまで、ロックシールドはゴルシュタット侯爵家に何一つも貢献していない。彼らに狙われるような身分も立場も資産も何もない。そこまでしてもらう理由が本当にないのだ。
確かにこれはアイラの側からすると破格の申し出、喜びに震え感謝するところなのだがアイラは違った。幼い頃に結婚を強いられそうになった経験や、ロックシールドを継ぐ弟を支えるという観点から結婚など全く考えていなかったのである。確かにエドヴィンの口利きで良い縁談を得られるならロックシールドにとっても大きなプラスになるだろうが、予定にない事柄を押し付けられ不安に陥る。けれどエドヴィンにここまで言われてしまっては断り切れないだろう。どうかここだけの口約束で終わってくれないかと、多忙なエドヴィンがうっかり忘れてしまうのを期待するしかなさそうだ。
エドヴィンの執務室を辞し、大変なことになったと頭を抱えるアイラを見下ろすベルトルドは何をそんなに悩んでいるんだと眉を寄せた。
「君にとってとてもいい話だと思うが?」
「例えば五年後、ベルトルド様が行き遅れのわたしを押し付けられたら困りませんか?」
「とても困るな。」
「そういう事ですよ!」
振り返って声を上げたアイラにベルトルドはさらに眉間の皺を深くする。マリエッタがはらはらしながら成り行きを見守っていた。
「わたしにはリゲルが、弟が妻を娶りその妻がロックシールドでの生活をこなせるようになるまでは二人を全力で支えるつもりでいるのです。我が家は貧しい男爵家ですから他の一般貴族のような生活をしているわけではありませんので、お嫁さんも最初はとても苦労するでしょう。持参金や支度金の問題もですが、弟を支える為にも結婚はあきらめ人生の目標としてきました。結婚というものはわたしの人生設計からは排除された事柄だったんです。」
それなのに今になってどこかの誰かに嫁ぐことになろうとは。カリーネから直接申し渡されていたなら了承するしかなかっただろう。けれど王を眠らせることができた褒美の一つとして押し付けられるのはとても嫌なものだった。
「色々な問題を込みで嫁ぎ先を探していただけるのはとても有難い話ですけれど、押し付けられる殿方からすれば遠慮したい事柄なはずです。相手が後継ぎも成人し、伴侶に先立たれた好色爺なら喜ばれるでしょうが、そのような相手をエドヴィン様が選ばれるとは思えません。だから申し訳なくって困っているんです。」
運よくカリーネに出会い男爵家を取り仕切っていくための教育を受けたが、アイラの中では自分が結婚というものを経験する予定は組み込まれていなかったのだ。勿論リゲルが妻を迎えた後でロックシールドの益になる婚姻なら受けるつもりはあるが、エドヴィンの口利きとなると相手に申し訳ないだけでなく様々なしがらみもでてくる。
「そうなったとしても別に君のせいではない。恨まれるのはゴルシュタット侯だ。」
「わたしのせいでカリーネ様の旦那様が恨まれるなんて耐えられませんっ!」
無理矢理話を纏めるようなことはしないだろうが、エドヴィンに話を振られた時点で相手もそれなりの覚悟が必要になる。なにせエドヴィンは国王シェルベステルの右腕であり、イクサルドの宰相なのだ。また紹介された相手にゴルシュッタット侯爵家との繋がりを求められるのも申し訳ない。
「どうして君は他人を優先するんだ、自分が大切ではないのか?」
「大切な人が係わっているからです!」
「そうだわお嬢様っ、お城の散策などいかがでございますか?」
納得できないと疑問をぶつけ出したベルトルドと声を荒げるアイラの間にマリエッタが入り込んだ。
「お嬢様が手持無沙汰ならと閣下よりお許しはいただいております。広大な城ですので美しい庭園も数多く、小さいながらも神秘的で美しい教会もございます。見た者の心を楽しませてくれますよ?」
「もうお暇してロックシールドに帰りたいんですけど……駄目なんですよね?」
「それは閣下の許可をいただかなくては何とも。」
勝手に帰ってしまうのは憚られるし、何よりエドヴィンに呼ばれて都へやって来たのだ。ロックシールドに帰るにしても彼を頼るしかない。困ったように眉を寄せるマリエッタにそれじゃあとアイラは明るい声を上げた。
「ロックシールドの弟や使用人たちにお土産を買いたいんですけど、街へ降りても大丈夫でしょうか?」
そうですねぇと、マリエッタがちらりとベルトルドを見やる。ベルトルドにはそれなりの地位があり、護衛という任にもあるのだ。彼の許可があるなら城を出るのも許されるらしいと察するが、公爵家の次男を煩わせるのも悪いとアイラは断りを入れた。
「遠慮は必要ない。私も黙って立っているよりそちらの方が有難いしな。」
ちらりと窺えた気遣いは本音だろう。それならとベルトルドにお願いし着替えを済ませて街へ出る。国の中心なだけあり祭りでもないのに賑やかだ。マリエッタは留守番となったが、男爵家の娘でありながら普段着に身を包んだアイラは周囲に溶け込んでおり、護衛として隣に立つベルトルドの方が目立っていた。
「若旦那様に従う侍女って感じでしょうか?」
「君の暮らし振りが如実に表れているな。」
ベルトルドはアイラの生活ぶりを知らない。けれど隣に立って物珍しそうにきょろきょろしながら歩く姿でロックシールドでの生活振りを窺うことができた。
衣服は粗末ながらも身綺麗にしていて派手ではなく、街の娘らに交じってしまえばすぐに解らなくなってしまいそうだ。そもそも使用人にお土産を買うという発想が出た時点で、ロックシールドの屋敷でアイラがどのように振る舞っているか手に取るようにわかる。貴族と言うより平民に近い生活をしているのだろう。騎士の制服を脱ぎ一般人に紛れる風を装うベルトルドはまさに良家の子息にしか見えない。
アイラは初めての街だというのに外観を見ただけで何を売っている店なのかすぐに言い当てるし、ベルトルドではけして利用しないような店の扉を迷いなく開くと、初対面の店主と昔からの知り合いででもあるかに会話を楽しんでしまうのだ。突発的な行動に出る節はあるが、けしてがさつでないのはこれまでの振る舞いで見て取れていた。しっかり躾けられているが外に出た途端に貴族の娘と判明するような動きはしていないので、身分を悟られて攫われるような危険もなさそうだ。しっかりと人の目を見て話をするし、庶民相手に気さくに語りかける。人の懐に入り込むのが上手いのかもしれないとベルトルドは黙って観察していた。
「田舎から出てきたの、だからベリーは食べつけているのよ。」
「なら乾燥品や木の実は避けるとして……ああ、粉にしたアーモンドを混ぜたのなんてのはどうだい?」
「アーモンドを粉にして混ぜてるの?」
「新しい作り方なんだがね、ちょっと味見してみな。」
「うわっ、さっくさくで美味しい。おじさん、これにするわ!」
「まいど。お嬢ちゃん可愛いからこれおまけしとくよ。」
「ありがと、嬉しい!」
庶民が利用する菓子屋でおまけされる貴族とはいったいどういう事だとベルトルドは首を捻る。貴族なら貴族が入るような高級店でと思いかけた所で、今のアイラは何処からどう見ても貴族になど見えていないのを思い出した。
屋敷の者だけではなく領民にも渡す土産を大量に買い込む。保存がきく焼き菓子は安くてお買い得だ。おまけでもらった分は自分用に。何事もなく城に戻ってからアイラはベルトルドに小袋の一つを差し出した。
「庶民の味もいいものですよ?」
断られるのを覚悟して、けれど文句も言わずに黙って付き合ってくれたベルトルドに差し出せば、一瞬だけ躊躇したものの受け取ってもらえた。変わっているが悪い人ではないとアイラは微笑む。土産も買って後はロックシールドに帰るだけと思っていたアイラに、再びの呼び出しがかかったのは夜も更け深夜になってからだ。
寝間着を脱ぎマリエッタに手伝ってもらいながらきっちり身嗜みを整えると、ベルトルドを従え急ぎ足を運んだ先は王の寝所。今朝別れた時は憑き物が落ちた様にすっきりしていたというのに、一日たって再び目にした王はやつれ、今にも倒れてしまいそうになっていた。それでもアイラの姿を認めると淀んだ瞳に希望の光が宿る。
「ああ、待ちわびたぞ。なんという事だ―――」
シェルベステルにようやく訪れた眠りはこの夜、寝台に入っても訪れることがなかった。長い患いが一夜にして癒えたと考えるのは都合が良すぎたのか。訪れぬ眠りに恐怖し、だが若い娘に頼る我が身を恥じたのはほんの数刻。再び訪れる不眠の恐怖にシェルベステルは恥も外聞もなくアイラを求め、その姿を認めた途端に安堵のあまり薄茶の瞳に涙を滲ませた。縋る王を前にアイラは大きな戸惑いを覚える。
「陛下―――」
アイラは自分には特別な力などないと訴えたし、今もそれを強く主張したい。だが縋る眼差しを前に再び口にするのはいかがなものだろう。何もできないが王に穏やかな眠りが訪れるのを願う気持ちは持ち合わせている。差し出した両の手を取られ額に摺り寄せられては否定の言葉などとても紡げない。アイラは否定する気持ちを捨て去り王に向き合った。
「お手が、とても冷たいです。」
「其方の手は熱いな。」
「このように手を握り込まれては、少しばかり恥ずかしいですね。」
照れ笑いのように表情を崩せば、王が申し訳なさそうに眉を下げた。
「決まった相手があると申したか?」
「いいえ、そのような方はおりませんのでどうぞご遠慮なく。恥ずかしくはありますが、陛下に手を握っていただけるのは光栄です。」
「そうか。無体はけして致さぬと誓う。だからどうか其方の温もりをわけてはくれぬか。其方に触れると胸の騒ぎが治まるのだ。」
いかなる我儘も許される王だが、アイラを失うのを恐れ懇願する。アイラだけでなく王自身も理由は解らなかったがアイラの温もりを本能で求めた。アイラの纏う陽だまりの匂いをかぐと心が落ち着くのだ。
近しくもない娘に頼る己は滑稽で情けなかったが拒絶される恐怖の方が勝る。手の内に囲い込み抱きしめたいと望むがけして性的な意味合いがあるわけではない。あるのは安堵を求める欲求だけだ。
ようやく訪れた睡眠に安堵し日中は穏やかに過ごせた。だが再び寝台に横になり瞼を落としても一向に眠りは訪れず不安だけが全身を覆い尽くす。恐怖が込み上げた途端求めたのは親しくもない、だが奇跡を起こしてくれた若い娘の姿だった。無理矢理手籠めにしようとも思わないし、今の状態ではそんな欲求すらも起こらない。そうなって拒絶された時を想像すると更なる恐怖が王を襲う。再び考えて、恐れ、無意識にアイラを寝台に引きずり込んでいた。
「陛下?」
「すまぬ、許せよ。」
「大丈夫です、何も怖くはありません。」
だから落ち着いてと、アイラは引き込まれた寝台の上で王に腕を回して背を撫でつける。寝台の上で異性と抱き合う行為がいかなるものか知らぬアイラではない。アイラの純潔を証明してくれる見届け人がいるとしても、人の耳に入れば顔を顰められる行為だ。リゲルに話せば姉にばかり苦労をかけると泣かれるかも知れない。それにこれでは嫁に行く気がないと声をあげるのではなく、行けないになってしまう。それでもアイラは目の前で縋り付く王の手を振り解こうとはしなかった。大の大人、しかもイクサルドの国王だ。その人が人目を憚らず弱みを見せているというのに拒絶などできるはずがない。兄を失い悲しみに暮れた結果がこれならなおのことだ。
灯りを落とし部屋が暗くなると王はアイラの胸に頭を寄せ体重を預けた。一回り以上年上の男性を抱いて背を撫でつけるアイラに緊張はない。王の心を案じ、どうかこの方に健やかな眠りをと願うばかりだ。
「今夜はどんなお話をいたしましょうか。」
子供にするのと同じく、ただ言葉使いにだけを気をつけ話しかけるが返事はない。おや? と思うと同時に帳の隙間からベルトルドが顔を覗かせ怪訝そうに眉を顰めた。奇跡を見たマリエッタは頬を高揚させそっと寝室を出て行く。まさかと目を白黒さえるアイラに向かって、ベルトルドは納得がいかないながらも王の眠りをアイラに知らせるために深く頷いた。