5 気を確かに
覆い被さってきた王を支えきれずアイラはずるずると寝台に沈む。不眠で食欲もなく肉が削げていても女の細腕では成人男性を支えるのは難しい。声を押し込めながら獣のように喉の奥で唸っていた王は、事切れたのではと慌てるほど急に力を失った。腕の中で死なせたのではと焦ったアイラが慌てて耳を澄ませると、確かな息づかいを感じて心底ほっとする。
覆い被さられて倒れ込んだアイラだったが、この時はまだ状況をきちんと理解していなかった。アイラは子供の寝かしつけが上手いだけだ。今は亡き父が弟にしていたように胸に抱く子供に心で語り掛ける。確かに眠って欲しいと願いはしたが、いい大人である国王がアイラの腕の中で眠りにつくとは本気で思ってなどいなかった。時間はいくらでもある。だからまずは会話を始めただけなのだが、思いもよらぬ結果が訪れてくれた。光明だろう。しかし力を失った王に押しつぶされた状態で以降は何の反応もない。反応のないまま暫く王を抱きしめていたが、首筋に埋まる王の息使いがこそばゆく、なんとも居心地が悪くなってしまう。
「あの……陛下?」
少しだけ動いてくれないだろうかと身じろぐが、意識を失うように眠りについた王からは何の反応もない。まさか息をしながら死んでいるのではと焦るアイラが動けないなりに視線を巡らせると、半分だけ引かれた天蓋の向こうで不寝晩をするベルトルドと目が合った。
ベルトルドにどうしたらいいだろうと視線で問えば、ベルトルドの碧い目が別の方へと向けられエドヴィンが姿を現す。天蓋が引かれているので見えなかったがエドヴィンもずっといてくれたようだ。音を立てないよう慎重に近づいたエドヴィンが王の様子を窺うと、瞼を落として寝息を立てる様に声にならない声を上げ、慌てて声を漏らさぬよう己が口を両手で抑えた。喜びに震えるエドヴィンの瞳に薄っすらと涙の幕が張ったので、アイラはようやく状況を正確に理解してぽかんと口を開く。
「うそ、本当に寝たの?」
声を漏らしたアイラにエドヴィンが人差し指を己の口に持って行き静かにと意思表示する。マリエッタも顔を見せたかと思うと、王の様子を認め涙を流しながら姿を消してしまった。声を押し止められず寝室を出てしまったのだ。ベルトルドだけは驚いた顔をしているものの、離れた場所から身動きせずに黙って様子を窺っている。エドヴィンは掛布を引き寄せるとアイラごと王をくるんでそのまま動くなと手で示していなくなってしまった。
まさか王が目覚めるまでこのままでいろという意味なのだろうか。とんでもない状況に焦るアイラだが、不眠に悩み体を壊してしまったイクサルドの王にようやく眠りが訪れたのだ。この状況ではしがない男爵家の娘の立場などないに等しい。首筋に感じる息をどうにかしたかったが、ここで動かして王が目を開けたらどうなるか。多分大丈夫だろうが、もしかしたら打ち首になるかもしれない。男爵家にとっても王の怒りをかうのはよろしくないので我慢するしかないだろう。けどこの態勢は辛い。ベルトルドにエドヴィンを呼んできてほしいと目で訴えるが、何だと首を傾げられるに終わり意思の疎通は叶わなかった。
仕方なくあきらめ体から力を抜くと、幸運にも王の頭がわずかに動いて首にかかっていた息が反れてくれた。アイラは成人男性に寝台に押し倒された状況に眉間に皺を寄せ、でもすぐに表情を戻して王の背を優しく二度あやすように叩いてから、王にもいろいろあるのだなぁと長い息を吐く。
愚王を廃した後、王位に就いたのは妾腹の王子だった。正妃腹の王子は大公として新王を支えているというのは、カリーネが与えてくれた教師に教えられた知識だ。その大公が謀反を起こし処刑されたというのを『恐ろしいことだ』と遠いロックシールドの地で弟リゲルと話したのを覚えている。貴族でも末端の男爵家にとって王と大公の争いなどはるか遠くで起きた出来事でしかなく、現状が悪化せずに続くならよかったと特に深く興味を抱くような事柄ではなかったのだ。ただ王族ともなると兄弟で憎しみ合うのだなと悲しく思った程度だ。過去に父が巻き込まれ命を落としたが、アイラの中ではすでに乗り越え終わった出来事。ここで弟が巻き込まれているのなら大問題だが、その弟もロックシールドを治めるのに忙しく、国政にまで潜り込もうという気力すらない状態である。
けれど実際こうして王を抱きしめていると、シェルベステルの中にある大公という存在はとても大切な人だったのだろうと推察された。ただ謀反を起こしシェルベステルを貶めようとしただけではないのだろう。泣く王が漏らした言葉からすると、どうやら大公は王の為に自ら策を講じてシェルベステルに背く輩を道連れに処刑されたらしい。国の安定の為に命を懸ける心理はよくわからない。信念があったとしても自ら死に向かうのは怖くなかったのだろうか。
アイラは弟の為に命を懸けられるだろうかと考える。理由によってはできるが、想像と現実では異なるのだ。きっと王の病的な不眠もそれが原因だったのだろう。王というのは人前で泣くことを許されなかったのかと考えると、とても可哀想な存在にすら思えてしまった。吐露して少しは心の錘が外れたのか、まさか本当に眠ってくれるなんて思っていなかっただけにこちらが夢を見ているようだ。
夢かと思った王の眠りも、伸し掛かられる重みで体が痺れてきたせいでやはり現実だと実感する。王は夜が明けて日が高く昇っても身動き一つせずにアイラの上で眠り続けた。時折エドヴィンとマリエッタが様子を窺いに顔を見せるが、王の眠りを邪魔しないよう声もかけずに感慨深い表情ですぐにどこかへ行ってしまう。ベルトルドだけは同じ場所に立ち続けていたが、彼も眠いだろうにとアイラは時々やってくる睡魔と戦っていた。
成人男性、しかもイクサルドの王に押し潰されて深い眠りにつける訳がない。アイラは自分の体の上で王が身じろぐと、閉じていた瞼を持ち上げ夢に入り込みかけた意識を浮上させる。王が大きな寝返りを打ったおかげで十数時間ぶりに解放され、体中を一気に血がめぐるのを感じた。痺れた手足を動かしてゆっくりと起き上がると、側にある気配に気付いた王が薄い茶色の目をアイラに向ける。ぼんやりしていた目が覚醒すると驚きに見開かれ、何があったのかと思考を巡らせているようだった。
「誰かあるか?」
「これに。」
王の目がアイラに釘付けのまま人を呼ぶと直ぐにベルトルドが反応した。
「この娘は何だ―――ああいや、思い出したぞ。そうだ、そうであった。なんて事だ―――エドヴィンを呼んでくれ。」
深い溜息を吐き出しながら両手で額を押さえていた王が、昨夜の出来事を思い出してくれたようでほっとする。アイラは顔を上げた王と目が合い、慌てて身を正し愛想笑いを浮かべた。ずいぶんと顔色もよくなり目の下のクマもかなり薄くなっている。部屋にはマリエッタもいたようで、彼女が天蓋から降ろされていた布をたたんくれた。明かりが引き込まれると王の顔色は更によく見える。
「正直あまり覚えていないのだが、私は眠れたようだな。」
人間極限を超えると否応なしに眠れるのだろう。自分の手柄とは考えず、言葉を許されていないアイラは恭しく頭を垂れてから後退して寝台を降りる。
「医者も手放したというに―――娘、そなたは呪い師か何かか?」
「恐れながらわたしは普通の娘です。陛下がお休みになられたのはわたしの力ではなく偶然かと。」
問われたので膝を付いて答えると立つように言われ従った。するとちょうどそこにベルトルドに呼ばれたエドヴィンがやって来る。
「眠りを取り戻されおめでとうございます。ご気分はいかがでしょうか?」
「悪くない。偶然にしても何にしても其方らのお蔭だ。娘には褒美を取らせねばならぬな。」
エドヴィンは喜びながらも王の体調を心配し、役目を終えたアイラは退出させられる。エドヴィンの顔色も昨日よりよさそうで、大きな問題が片付いてほっとしているのだろう。部屋に戻る最中はマリエッタが気を利かせ大きなマントで寝間着姿を隠してくれた。城を、それも日中こんな姿で出歩く娘がいたら周囲も驚くだろうし、昨日は切羽詰まっていたとはいえアイラも年頃の娘だ。心遣いは正直有難い。
王の使用する立派な寝台に寝ころんでうとうとしたとはいえ、徹夜でほとんど寝ていない状態のアイラはマリエッタに勧められるまま寝台に寝転んだ。マリエッタとベルトルドも寝ずの番をしたのだ、きっと二人も休むのだろうと考えながら目を瞑ればすぐに眠りは訪れる。そのまま寝入ったアイラはどのくらい眠ったのか、肌寒さを覚えゆっくりと覚醒した。陽が暮れて気温が下がったのだろう、温もりを求め掛布を引き寄せようとして身じろぐと何かにぶつかる。疑問に感じ眠い目を開けると目前に人の腕があった。驚きのあまり悲鳴を上げるのも忘れたアイラは見覚えのある袖をたどり視線を上へ向けると、そこにはベルトルドの碧眼が目の前にあって息を呑まされる。
何がどうなっているんだと思考がついて行かない。目を覚ませばベルトルドの腕がアイラを取り込んで見下ろしていたのだ。両腕が顔の真横にあって取り逃がさないとばかりに囲われている。これが夜這いと勘違いせずに済んだのは、至近距離から見下ろすベルトルドの碧眼に何の熱も籠っていなかったからだ。ただ冷たく探るような視線がアイラを覗き込んでいる。けれど第三者がこの光景を目撃すれば、間違いなくベルトルドがアイラの寝込みを襲っているように見えるだろう。
ここは悲鳴を上げるべきなのだろうか。だが相手は公爵家の人間、もみ消されアイラだけが不名誉な噂を立てられ終わってしまう可能性も高いと、こんな状況にもかかわらずアイラは冷静に分析する。
エドヴィンが信用する人間なのだから疑う必要はないのかもしれないが、ではこれをどう思えばえいいのか。説明してくれるだろう人は目の前にしかいない。どう対処するのが最善かを混乱する頭で考えているとベルトルドの顔が更に近づき、アイラは対処の仕方が分からなくてぎゅっと目を瞑って顎を引いた。キスされると思い、顎を引いて抵抗を試みたのだが―――ベルトルドの髪が頬をくすぐるだけで一向に唇を奪われる気配はない。そっと目を開くとベルトルドの金髪が視界を覆っているが、彼自身には何処も触れられていなかった。一つ気になる点があるとすれば、ベルトルドはアイラの首筋に顔を寄せすんすんと鼻を鳴らしている点だ。
「あの……ベルトルド様?」
一体何をしているのかと疑問をぶつけると、ベルトルドの頭が動き、鼻を鳴らしながら少しずつ下へと向かって行った。まるで匂いをかがれているような―――様なではなく匂いを嗅いでいるのだ。絶句したアイラはベルトルドを突き飛ばす。臭いのか、臭かったのかとアイラは己を抱きしめた。
貧乏でもアイラは男爵家の娘だ。人前に出る時は身嗜みに気を付けるし、カリーネに面倒を見てもらった時にもきっちり躾けられた。昨日は王の御前に上がる前にマリエッタから背中や足の裏まで体中隅々お風呂でしっかりと磨き上げてもらった。爪にもブラシをかけ垢をきっちり落としたのだ。当然髪も洗っているが、ロックシールドに戻って二年、ゴルシュッタトのように何もかもを下女や下男、侍女や執事まかせにできる訳ではない。時には水汲みをしたり馬にブラシをかけることだってあるし洗濯もやる。狭い領地から得られる収入には限度があり、何もかもを買ってばかりではいられないので畑だって耕し収穫する。収穫期で忙しい時には男爵であるリゲルも収穫を手伝うし、アイラは女らに交じって賄いの手伝いもするのだ。それでも男爵家の娘、すべてが完璧にこなせるわけではないが、贅沢できるだけの無駄金があるわけではない。公爵家の生まれであるベルトルドはそんなアイラに染み込んだ嗅ぎ慣れない貧乏臭に反応しているのだろうか。だとしてもやはりアイラは男爵家の娘だ、公爵家で育ったベルトルドの行動には疑問ばかりが浮かぶ。
こいつは一体なんだと眉を顰めるアイラにベルトルドの手が伸び、片方の手が捉えられた。ベルトルドは捉えたアイラの指先を鼻に寄せくんくんと鼻を鳴らし、眉間に皺を寄せたかと思うと舌を出してぺろりと舐めたのだ。流石のアイラもこれには仰天した。ここで騒ぎを起こすのはまずいという常識も吹き飛び、悲鳴を上げるべく息を吸い込んだところで、大きなクッションを手にしたマリエッタがベルトルドの頭を容赦なく叩きつける。ベルトルドの頭ががくんと揺らぐが、殴られたとはいえクッション。怪訝そうに眉を寄せ後ろを振り返ったベルトルドを、マリエッタが腰に手を当て目を吊り上げて怒鳴りつけた。
「お気を確かに!」
かける言葉が違うと思ったが、優しく温厚そうな雰囲気のマリエッタが物凄い形相でベルトルドを睨むので、アイラは寝台の上で唖然と身を固めていた。ベルトルドを怒鳴りつけたマリエッタは彼を引っ掴んで寝台から引きずり下ろすとその場に跪き、両手をついてアイラに向かって土下座をしたのだ。
「お許しくださいませお嬢様。けしてお嬢様を手籠めにしようとか弄ぼうとか、邪な考えあっての行動ではないのですっ!」
「えっ、いえ……ちょっと待ってください!」
アイラは寝台から飛び降りると、額を床につけて必死で詫びるマリエッタを何とか床から引き離そうと懸命に腕を引く。
「なんでマリエッタさんが謝るんです。悪いのはベルトルド様ですよ!」
「ベルトルド様はこうして時折、普通の常識から少しばかりかけ離れた行動をとられることがあります。けれどそれはあくまでも己の欲求を、ではなくっ。いいえ、欲求ですがあくまでもいやらしい意味ではないのです。ただもう本当に突発的なお方で、興味のある事柄に触れた途端に少しばかり、いいえかなり常軌を逸した行動をとられることがあるのです!」
何を言っているんだと眉を顰めると、奇怪な行動をとったベルトルドが傍らに膝を付いてまたもやアイラに手を伸ばしてきた。その手が届く前に今度はマリエッタが素早くその手をはたき落とす。
「こちらのお嬢様は男爵家の姫君です。容易く触れてよいものではありません!」
「しかしマリエッタ、彼女が陛下に何かをしたのは間違いない。それを確かめずして私に平穏が訪れると思うか。」
「ベルトルド様にお嬢様の一生を背負う覚悟がありますか?!」
「―――それはないな。」
触れたいなら結婚してからだと怒鳴るマリエッタに、ベルトルドは少し考えた後でしっかりと首を横に振った。
「では触れるのも、護衛の範囲を超えて必要以上に近づくのも許されません。疑問のすべてに答えを求めるのは貴方様の悪い癖でございます!」
「だがマリエッタ、何か月もお悩みだった陛下に眠りが訪れたのだ。お前だって不思議に思うだろう?」
「ええ、ですから奇跡が起きたのです。お嬢様が奇跡を起こしてくださったのですわ。イクサルドを守る天使さま、お嬢様をお与え下さいましてありがとうございます!」
「天使ではなく彼女の功績だ。私は奇跡など信じない。なぁ、君も奇跡なんて信じないだろう?」
なぁと同意を求められても―――
いったい何なんだと盛大に眉を顰めたアイラは、もしかして自分は厄介な男の興味を引いてしまったんじゃないかとの不運に気付き始めていた。