4 不眠の始まり
シェルベステルの不眠の始まりは、共に手を取り合い父王から政権を奪い取った兄の死からだ。
妾腹として生まれたシェルベステルには、シェルベステル以上に父王の悪政に苦しむ民を案じ心を痛める正妃腹の兄、クリストフェルがいた。
クリストフェルは少年期に大病を患い子種を失っていたため後継ぎが望めず、父王を廃した後はシェルベステルを王位に就け、自身は大公としてシェルベステルの治世を支え続けてくれていた。
だが前王のせいで荒れていた国が建て直し豊かになって来ると、正妃腹として生まれたクリストフェルを王にと望む声が上がり、有力貴族までもがクリストフェルを担ぎ上げ謀反を企てるようになってしまう。正当な王はクリストフェルだ、我が娘を妻に迎えれば必ずや子が授かる。国民が真に望むのは卑しい身分の女が産んだ王ではないと根気よく熱心に囁き、やがてクリストフェルはその思いに賛同した。
謀反の首謀者として名乗りを上げたクリストフェルは、シェルベステルから距離を取ると王位を奪い取るために奔走する。けれども頭脳明晰かつ人を欺くのが得意なクリストフェルにしてはあまりにもお粗末なやり方だった。悪事はすぐに露見し、捕縛されてからは罪のすべてを認めると、クリストフェルをそそのかした謀反人達を道連れに断頭台へと向かったのだ。
共に父が敷く悪政に心を痛め、手を取り合い王位を奪い取ってくれた兄の裏切りは信じられない出来事だった。しかし現実にシェルベステルの元には刺客が送り込まれる日が続き、食事に毒が盛られ口にまでしてしまうと信じる他なく、シェルベステルは断腸の思いでクリストフェルへの処罰を命じた。クリストフェルが断頭台に上るまで兄の裏切りはシェルベステルにとっての辛い現実でしかなかったが、王としては民の為にもやらなければならない事だった。
手を取り合って国のために尽くした兄の最後。高い位置から見守るシェルベステルにクリストフェルの視線が向けられると、シェルベステルは強い違和感を感じた。クリストフェルは謀反が失敗した罪人の目をしていなかったのだ。それ所かこれでいいと、妾腹の生まれであるシェルベステルを王位に就けた時と同じ、強く満足した目でしっかりと焼き付けるようにシェルベステルを見つめていた。
その瞬間シェルベステルは秘められた兄の想いと己の間違いを悟る。断頭台に上がったのはクリストフェルだけではない。既に多くの裏切り者たちが処刑されている。クリストフェルはシェルベステルの治世を安定させるため、邪魔となる人間を道連れに処刑される道を選んだのだ。
シェルベステルを王にし、弟と民の為に断頭台に乗った兄をシェルベステルは悼んだ。何故もっと早くに気付けなかったのかと悔やみ、悲嘆に暮れるうちに眠れぬ夜を過ごすようになる。
正妃腹の兄が生きているといずれ再びシェルベステルの治世を脅かす材料となってしまう。そう判断したクリストフェルこそが真の王に相応しかったのにと思い悩み、兄の想いに応える為にも更に民に尽くし立派な王にならねばと思えば思う程、シェルベステルの胸は苦しく息が詰まり体を動かせなくなっていった。
眠れぬ苛立ちから手にした書類を破り捨てたのが始まりだ。シェルベステルを慰めるためにやって来た側妃の香水の匂いを嗅いだ瞬間、自分でも信じられない程の憎悪が込み上げ、側にいた近衛の剣を引き抜き側妃に切りかかった事もあった。この時は周囲が止めてくれたお蔭で血を流さずに済みシェルベステル自身も深く後悔したが、眠れないせいで苛立ちは更に募り、手に取るものすべてを破壊してしまう日々。やがて周囲への被害を恐れ自ら寝室に閉じ籠るようになった。クリストフェルの幻覚に縋り、不甲斐ない我が身を呪っても眠りは訪れず、怪しい呪い師の力を借りた時点でもう駄目だと悟ったのだ。
兄の想いに応えられない自分がどうして生き残ってしまったのか。妾腹の身で王に上り詰めたのがそもそもの間違いだ。不幸中の幸いか幼いながらも男子を残している。自分が死んでもエドヴィンが幼い王子を良き王へと導いてくれるだろうと、シェルベステルは苦しみから解放される為に死を願った。自ら命を絶たずとも食事も喉を通らないのだ、そのうち餓死するのは目に見えていた。
そんな時に一人の娘がやって来る。名を聞いても記憶に残らないが若い娘だった。見た瞬間に強い香水の臭いを思い出し殺意が湧いた。女性なら誰もが身に付ける匂いには慣れていた筈なのに、狂ってからは悪臭として記憶されていた。殺さずに済んだのは側に寄るシェルベステルが武器になるものを何一つ持っていなかったからだ。見知らぬ娘を前に少しだけ王としての誇りを思い出してくる。クリストフェルが託した想いに応えたい感情が湧き上がる。だから娘を殺してしまう前に遠ざけようとしたが、娘は恐れることなく寝台に上がってきたのだ。
「首を絞められても大丈夫です。」
恐れを含まない声にシェルベステルは娘の顔をようやく認識した。漆黒の瞳に僅かな悲しみを湛え、それでもうっすらと微笑んでいる。だが娘はシェルベステルを恐れてはいなかった。側妃に剣を向けて以来、自らすすんで王の寝台に足を踏み入れる女など一人もいなかったというのに、この娘は王であるシェルベステルの制止を無視して勝手に上がり込んできたのだ。エドヴィンですら王であるシェルベステルの命令を優先する。だというのに目の前の娘はクリストフェルの為にも死の際までは王であろうと努力するシェルベステルを無視し、腕を伸ばしてシェルベステルに触れ、ついには抱き込んでしまったのだ。
驚きはしたものの、抱き込まれても不思議と苛立ちが起こらなかった。娘の柔らかな胸に抱かれても策略や性的な意味合いの感情が受け取れない。まるで子供を抱くように娘はシェルベステルを抱きしめる。娘からは嫌な香水の臭いの代わりに温かな日差しと乾草の匂いがして、幼い頃にクリストフェルと遊んだ陽だまりがシェルベステルの脳裏に蘇った。湧いた殺意は綺麗に消え失せていたが前例がある為に注意を促した。ベルトルドなら狂って暴れるシェルベステルから娘を守ってくれるだろう。
胸にシェルベステルを抱く娘は眠りを強要しない。それ所か心地良い声で他愛無いながらも、どういう訳か懐かしいような感覚を与えてくれる話をしてくれた。不思議なのは娘の声に引き付けられてしまう我が身だ。鬱陶しいばかりだった人の声だというのに、口を閉じられるのが惜しいとすら感じてしまい聴き入る。その間娘の手がシェルベステルの背を撫で続けるが、それすらも鬱陶しさを感じず心地よくて、陽だまりの匂いが話の内容と相まって子供の頃の楽しい思い出を次々と蘇らせてくれるのだ。
「其方はいつまで話を続けるつもりだ?」
娘は子供の頃の話をする。娘には弟がいて、ゴルシュタットで世話になり様々な楽しい経験を積んだのだと尽きぬ話をひたすら続けるのだ。少女らしい花畑での冠作りから、馬から落ちて馬糞の山に顔を突っ込んでしまった失敗談。レース編みが得意だが、本当は何よりも木登りが得意なのだというのはエドヴィンの妻には絶対に秘密なのだという。部屋に小さな明かりが灯されたのが下ろされた天蓋越しに認められる。日が暮れたのだと久し振りに気付いて時の経過を実感した。
「煩くて腹がたつなら首を絞めても構いませんよ?」
そうすれば話ができなくなると笑う娘にシェルベステルは首を振った。いつの間にかシェルベステルを胸に抱いて支える娘の背にクッションがあてがわれていたが、他人の介入にシェルベステルは気付きもしなかった。変わらず若い娘の胸に頭を預けているのには気付いたが、娘の衣服を掴んでみてその首を絞めるだけの力すら残っていないことに気付き苦く笑いが漏れる。懐かしい香りと離れるのが惜しまれ話を促し、自らも口を開いた。
「私にも仲の良い兄がいた。」
「お兄様―――」
シェルベステルの言う兄が誰なのか気付いたのだろう。背中を撫でる娘の手が一瞬止まる。
「いかなる理由があろうとも最も王になるに相応しい人であった。私を、民を想う兄の心に気付けなかったことが悔やまれる。いくら後悔してもしきれぬのだ。」
あと少し、断頭台にあげる前に気付けてさえいたら命は助けられたのだ。王に刺客を仕向け毒を盛った事実は消せないが、シェルベステルが最後まで兄を疑わず、兄の性格をもっと深く理解さえしていれば今も失わずに済んだはずなのに。
「大切なお兄様なのですね。」
「そうであるな。私にとって兄が世界の全てだったといえよう。」
正妃腹と妾腹。本来なら兄弟で殺し合っても不思議でない世界。そこで出会った二人は父を同じくするどの兄弟姉妹よりも仲が良かった。六歳年上のクリストフェルはシェルベステルにとって名実ともに真実の兄であり、先輩であり、教師であり、そして母であり父であった。父を廃する決断をしたのも物心ついた時より手を引いてくれた兄の影響が大きい。
「陛下は大切なお方を失ってお泣きになられましたか?」
娘の言葉にシェルベステルは口を噤む。シェルベステルは王だ、しかも兄の死は不甲斐ない自分の責任。泣いて悲しむ前にすべきことがあった。命を犠牲に不穏分子を根こそぎ排除させてくれた兄の想いに応えねばならない使命があったのだ。だが結局は応える所が心を病んで不眠に陥り、辺り構わず暴れ叫んで迷惑をかけた挙句に全ての務めを放棄して引き籠りだ。クリストフェルに応える所か、意に反しているという自覚だけが胸に渦巻く。
「わたしは父の死の知らせを受けても、信じられずに泣かず仕舞いでした。母の死の折は泣きわめく弟を抱きしめて、年上の自分がちゃんとしなくてはと、涙は流しましたが声を上げて泣くことはできませんでした。縁あってカリーネ様……ゴルシュタット侯爵夫人のお世話になった時に夫人に言われたんです。子供が遠慮してどうするの、悲しい時には大声で泣きわめきなさいって。当時のわたしは聞き訳がいい人形のようだったそうですよ。」
人形のようだったと笑う娘が見たくてシェルベステルは顔を上げた。肌は白いが頬は健康そうに染まっている。顔の作りは特別美人ではないものの醜悪でもなく平均的だ。ただ、漆黒の瞳は何処までも澄んでいて吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。優しく慈愛に満ちた微笑みを湛え、少しも人形のようではない。シェルベステルは重い体を起こして膝立ちになると、娘の頬を油が抜けきりかさかさした掌で包み、顔を寄せて覗き込んだ。
「其方は泣いたのか?」
何処までも続く闇よりも深い漆黒の瞳。この黒い瞳が涙を流し、唇が大声を上げたのかと痩せた指で娘の目元と唇をなぞる。
「はい、泣きました。それはもう大きな声で、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして。寝ても覚めてもいつも泣いていたので、泣くように勧めたゴルシュタット夫人もいい加減泣き止めとうんざりなさる程に泣きつづけました。」
娘が腕を伸ばし、シェルベステルを引き寄せると頬を寄せ耳元で優しく囁く。
「陛下も大声を上げて泣いてみませんか?」
「私は―――国王だ。」
「恐れながら、大切な人を亡くした時は国王だとかいうのは関係ないのでは?」
悲しかったのでしょうと問う娘に、シェルベステルは虚勢も張らず正直に無言で小さく頷いた。じっと王を見詰めていた娘が瞼を落とし、亡くした両親を思い出す様がシェルベステルの心に流れ込むように伝わる。戸惑いと漠然とした恐れ、それから不安。どれもが悲しみに暮れてはいるが吐き出せない苦しさに押し潰されている。それを吐き出した娘は楽になれたのだろうかと、シェルベステルは痞えを出すように息を吐いた。
「いないと悲しい、どうして死んだの。置いて行かないで欲しかった。わたし一人でどうすればいいの。父様と母様がいなくなったらどうすればいいのか教えてもらってないわ。勝手に死んで、これからどうすればいいの―――って、わたしは死んでしまった両親を罵りながら泣きました。」
「そうか―――」
父に続き母親を亡くした当時のアイラはまだ六歳になる前だ。そんな子供に執事や使用人は指示を求めてくる。悲しむ弟を抱きしめ、どうしていいのか全く分からなかった。それでも最後には手を差し伸べてくれる存在があり、泣き場所まで提供してくれたのだ。
「助けてくれる人はいます。わたしにはゴルシュタット夫人でした。陛下にはもっと沢山いらっしゃる。羨ましいですわ。」
「私は其方が羨ましいぞ。」
じんわりと、乾ききったこけた頬に水が染み込む。やがて流れ出る水の量は増え、頬を寄せる娘の肩にも滲み入った。
「兄上―――私は貴方に生きていて欲しかった。死ぬのなら私が死んで貴方に全てをお譲りしたかった―――」
嗚咽を堪え、声が漏れるのを恐れてぐっと娘の首に唇を寄せると、想いを酌むように娘がシェルベステルを強く抱き寄せる。
己の不甲斐なさからクリストフェルに申し訳が立たず涙を流した。生きていて欲しかったと、民を想いともに父を打った兄の思惑に気付けなかった己を憎むあまり、シェルベステルはクリストフェルの死を受け入れるには至っていなかったのだ。どうして死んだのだと獣のように声にならない声を上げる。抱きしめるのが見も知らぬ娘であることなどすっかり忘れ、いい大人が陽だまりの匂いに兄を重ねて悲しい、寂しいのだと兄だけを想い縋り付いた。
どんな理由があれクリストフェルの謀反は本物だ。そして兄の処刑を実行に移す書類に署名したシェルベステルの行為も消せない事実。父を廃し、兄を死に至らしめた身で涙を流すなどおこがましいと、王として胸を張り続けるつもりでいたのに。
衰えた肉体で娘の体に懸命に縋るシェルベステルはやがて意識を失った。娘が纏う綿の寝間着を固く握りしめたシェルベステルは、幼い頃の記憶をたどり、兄に抱き締められ心地よい温もりを与えられたような気持になりながら意識を飛ばしたのだった。