33 故郷
汚れた手を洗い衣服の始末をしたせいで国王を待たせるという失態をしてしまったと、非礼を詫びるアイラにシェルベステルは優しく頷く。
「ライオネスに付き合わされたのであろう、あれも喜んでいた。こちらが礼を述べたいくらいだ。」
様々なものに興味を持つ王子は活発なのもあって手を焼いているのだという。城ではそうなのかもしれないが、アイラの周りにいる子供は誰もかれもがそんな感じだ。エドヴィンの息子であるサイラスでさえライオネスと同じころの年齢の時はそうだったのだと返せば、意外にもエドヴィンの方が驚いた後で気まずそうに視線を外した。城に出仕する父親では息子の外遊びに付き合う機会は皆無だろう。領地に戻った際に交流を持ったとしても、乗馬や盤遊びといった類にとどまるのが普通なので仕方のないことでもある。王侯貴族の親子などそんなものだが、エドヴィンやシェルベステルはけして子供に対して愛情がない訳ではない。
シェルベステルは国王として様々な問題を抱えているが、ライオネスの母親であるパリスとは何とか上手くいって欲しいと願う。子にとって両親が仲睦まじいというのはとても喜ばしいことなのだから。
子供の話題が途切れた所で間もなくカリーネと共に都を去ると報告する。初めからわかっていたことなだけにシェルベステルが頷くと、それを合図にエドヴィンが黒塗りの箱をアイラの目の前に置いた。
「陛下からの贈り物だ。」
「それは―――」
高級感あふれる箱を前に戸惑うアイラに、シェルベステルが「開けてみよ」と促した。とんでもないものが入っているのではないだろうかと恐る恐る箱を開ければ、光沢のある真っ白い糸の塊が目に飛び込んでくる。触れた瞬間の手触りが慣れ親しむ糸とはまるで違う最高級の絹糸だ。
「其方のレース編みの技術は特出しているそうではないか。技術に見合えばとエドヴィンと話し合い取り寄せたのだ。其方の趣味に沿えるならばとエドヴィンが奥方に相談したのだが―――迷惑だろうか。」
アイラの願いは既に叶えてもらっている。恐れ多くも一国の王にとんでもない願いを申し出て一夜を共にした。振り返ると恥ずかしく恐ろしい願いなだけに切羽詰まっていた我が身が憎らしい。けれどシェルベステルはそれだけではなく、アイラのことを考え悩み、エドヴィンと相談しカリーネにまで話が及んでレース編みの糸を選択してくれたのだ。
アイラを想い手を尽くしてくれる、これほどの喜びがあるだろうか。品ではない、アイラの為を思って選ばれた品にそれぞれの想いを感じて一気に力が抜けた。
「カリーネ様がお選び下さったのですね。」
「君は妻に否と口答えしないようだったので、少しばかり心が咎められたが利用させてもらった。謙虚さは美徳でもあるが、形に残したいと願う陛下のお心も理解してほしい。」
シェルベステルはけして己の恋心を口にはしない。多くの物や命を犠牲にして勝ち取った権力には大きな責任が伴い、一人の男として生きることをシェルベステル自身が許さないのだ。国の安定のために迎えた妃たちとの問題も、唯一の子である王子の件もある。エドヴィンが後見となりアイラを正式な側妃として後宮に迎えた場合、シェルベステルは他の妃たちとアイラを同じように扱う自信もないのだろう。授かりものであっても男女の艶事の延長には子が宿る。エドヴィンが後見につくアイラに生まれるのが男児であった場合、なにをどうしてもパリス妃との間に生まれた王子との権力争いに勃発するのだ。アイラやエドヴィンが望まずとも周囲は勝手に盛り上がり、諍い合って過去へと逆戻りしてしまう。それだけはけして避けなければならず、エドヴィンも王の心を後押ししない。その代りにカリーネに相談したのだ。
「ありがとうございます陛下。これまでは外に出すために編んでばかりでしたが、陛下に頂いた糸は自分の為に大切に使わせていただきます。」
何気に言った言葉だが、その言葉にシェルベステルの心は満たされる。高い技術をもつアイラのレース編みは出荷し生活の為に金銭に変えてばかりで手元には一つも残っていないのだが、これまで同様に国王から頂いた糸を使って出荷するという考えはない。だから自分の為に編ませてもらうと感謝の意を表したのだが、シェルベステルには共にあるという意味にも聞こえた。けしてそうではないと解っていても、心の支えとして宿していこうと満たされる胸に手を添える。もとより多くの妃を持ち子までいるシェルベステルではアイラを幸せにはしてやれないのだ。シェルベステルの優先は何があろうと国民であらねばならない。
「其方の幸せを願っておる。」
「ありがとうございます。陛下も、ご自愛くださいませ。」
アイラが修道院入りを希望しているのは知っているが、カリーネが何事かを企んでいると聞いているのであえて引き止めるような言葉は口にはしなかった。それにもし本当にアイラの安らぎが修道にあるならば邪魔するべきではないと理解してもいるのだ。
これをもってアイラは城を辞する。ベルトルドとは顔を合わせることもなくグインにはこれまでの礼を述べ、多忙なエドヴィンには彼自身の健勝を願い、カリーネとサイラスと共にゴルシュタット経由でロックシールドの地を踏む。久し振りの故郷は芽吹く緑の風が心地よく、けれど何処となく寂しさを感じて吐息を吐き出した。
*****
「姉上、ちょっといいかな。」
「どうしたのリゲル?」
明日にはリゲルの婚約者であるセシルが伯母を伴いやってくる。準備に追われるアイラが客室の掃除に勤しんでいると、鹿狩りに出ると言っていたリゲルが大きな体で迫り来て二の腕を掴み、側にある寝台にむかって強制的に腰を下ろさせられた。体が大きく力もあるがけして乱暴ではない。けれどそう取られても仕方がない動きをするリゲルに、セシルにはしては駄目だと注意しなければと思いながら、アイラは自分と同じ漆黒の瞳を覗き込んだ。
「姉上さ、帰って来てからずっとおかしいよね。」
「え?」
訳が分からずきょとんと首を捻るも、リゲルは確信をもってアイラに詰め寄る。
「おかしいよ、ずっと。僕にはわかる。城でいったい何があったのさ。」
「何って……いろいろな体験をさせてもらったのよ。」
「そんな話じゃない。僕は物心ついた時から姉上だけだったんだから誤魔化そうとしても無理だよ。」
旅の疲れはあるものの一見変わった様子はない。都に上り国王の側に仕えていたと聞かされるも、秘密にかかわることもあるので詳しくは話せないという姉の言葉に従っていた。けれど明らかにおかしいのだ。寂しそうな雰囲気を漂わせているし、何でもないと微笑む姿は痛々しい。リゲルだけではなくよぼよぼになって座っている時間が長くなった執事に料理人、その妻で唯一の侍女もアイラの変化に気付いている。その三人が口をそろえて言うのだ、何か辛いことがあったに違いない、そっとしておいてやろうと。けれどリゲルは黙っていられるような男ではなかった。そう詰め寄るリゲルを前にアイラは眉を下げ腕を伸ばして大きな弟をぎゅっと抱き寄せる。
「それはね、もうすぐお別れが近づいているからよ。」
「なんだよお別れって……まさかっ?!」
はっとしたリゲルが驚いてアイラを引きはがし目の前で唾を飛ばす。
「結婚するのか?!」
城でいい男ができたのかと声を荒げる弟に、アイラは眉を寄せそっと首を振った。
「修道院に行こうと思っていて。」
「はぁっ、聞いてない!」
驚き目を丸くするリゲルにアイラは「言ってなかったから」と苦く顔を歪めた。
「なんで……僕が結婚するからとかいわないよね?」
「そうじゃないけど、決めていたことではある。」
「なにを?」
「リゲルが一人前の男になったら修道院に行こうって。」
リゲルが妻を迎えロックシールドに何の心配もなくなればと決めていた。けれどそのままを口にすれば結婚しないと言い出しかねないので、リゲルが立派になった暁には決めていたのだと告げる。
「だって姉上は―――姉さんはずっと一緒にいてくれるんじゃなかったの?」
常日頃は『姉上』と呼び掛けるリゲルであったが、アイラに縋るときにだけは『姉さん』と口調が変わる。同じ寝台に腰を下ろしていてもずっと上から見下ろされ、同じ色の瞳に吸い込まれそうになった。
「いつまでもわたしがロックシールドに留まるのが世間では恥ずかしいことだって、リゲルだって本当は解っていたでしょう?」
「ここはそんな付き合いなんてやって来なかったし、これからだってやらない。姉さんが一生ここで暮らしても誰も文句は言わないよ。姉さんがどれだけロックシールドの為に頑張っているか領民だって解ってる。馬鹿なことを言うな!」
怒鳴るなり太い腕を伸ばしてアイラを片腕に抱え上げる。悲鳴を上げて抵抗するも下ろしてもらえず、リゲルはアイラを部屋に放り込むと何やら細工して扉が開かないようにしてしまった。大きなくせに手先が器用なのは狩りの役にも立っているがこんなことに使うなんてと、明日にはセシルもやってくるのにどうするんだとアイラは開かない扉に向かって声を上げる。
「神様になんか渡すもんか!」
「リゲル、ここを開けなさいっ。セシル様と伯母様をお迎えしないといけないっていうのに今すぐ行ったりしないわよ!」
「解ってるよ、でも姉さんは頭を冷やして。何が修道院だ、僕を見捨てるなんて許さないからな。」
「あなたの方こそ頭を冷やしなさいよ!」
「猪でも狩ってくるよ。」
「リゲルっ!」
扉に耳を当てると足音荒く離れていく様子が窺え、やがてそれも届かなくなりアイラは溜息を一つ落とす。
猪の繁殖期は春と秋だ。ロックシールドの森は豊かだが簡単に手に入る食料を求め畑を荒らす猪も多い。アイラ達がロックシールドに戻ってからは害獣となる猪狩りを進めるようになり里に下りてくる猪の数は減っていたが、繁殖期を迎え数の調整の為にもリゲルが狩りに出るのは通常なのだが。
「鹿を狩るって言っていたのに―――」
やってくるセシルと彼女の伯母であるナターシャの為に鹿肉を振る舞うと張り切っていたのだが、猪に変えたというのはリゲルが本当に怒っている証拠だ。心が落ち着かないときや嫌なことがあったとき、アイラと喧嘩をしたときなどは特に自分を諫めたいのだろう、獰猛な獣を狩りたがる。繁殖期や子育て中の猪は獰猛になる。怪我をしないか心配ではあるが、若くとも腕は一級なのできっと大丈夫だという気持ちもあった。
しばらく部屋に籠っていたが、明日にはセシルたちを迎えなければならないので仕方なく立ち上がり窓に向かう。アイラの部屋は二階だが、扉が閉じられているからと出入りができないわけではない。アイラは迷わず窓を乗り越えると、でこぼこした古めかしい石造りの壁を器用に伝って庭に降り立った。
「おやまぁお嬢様、また自分で降りてこられたんですか。旦那が畑から戻ったら梯子をもってこさせるつもりだったんですけどね。」
いい年になったのだからとやってきた侍女が漏らすが特に小言はない。アイラ達がロックシールドに戻ってより雇った料理人とその妻は貴族の生活に精通しているわけではなく、アイラの非常識に意を訴えるのは年老いた執事くらいのものだ。
「気にしないでいいのよ、それよりリゲルが猪を狩ってくるらしいわ。明日の料理の変更もあるけど、まずは解体の準備をしておかないと。」
「まぁまぁ旦那様はたいそう怒ってらっしゃるんですねぇ。解体も旦那に言っときますから、お嬢様は昼を済まして下さいまし。」
「どうもありがとう。客室はお昼を済ませてから整えることにするわ。」
「あたしは猪用に香草を取ってきますよ。」
「助かるわ、お願いね。」
セシルは釣りが得意というから猪などの臭いが強い肉は苦手かもしれない。肉の臭い消しに適した香草をと思っていたが、お願いする前に判断してもらえるのは正直助かった。
野菜を挿んだパンだけの昼食を済ませ客室を整えに戻る。客室は一つしかないのでセシルとナターシャには同じ部屋で眠ってもらうことになるが、仮の寝台も運び込まれているので特に不自由は感じないだろう。前回の訪問は急だったので同じ寝台で眠ってもらったそうだ。その後にリゲルと料理人とで寝台を作ったのだという。これから式の日までの半年、二人分の衣食住を準備していかなければならないのでやりくりも考えなければならない。
客室を整え屋敷の掃除をし、畑仕事に精を出す。お日様の香りがする洗濯物も取り込んでしまいこむと日暮れ前に猪を抱えたリゲルが戻ってきた。恐ろしいほど巨大な猪を背負って戻った姿は不機嫌だ。アイラと顔を合わせても口を開かず無言で解体小屋に入ったリゲルは熱い湯をかけ猪の皮を毟りだし、側に寄ったアイラも同様に湯をかけながら猪の毛をつまんで抜いて行った。
「怪我はないの?」
「―――ないよ。」
熱い湯をかけ毛を毟る動作を繰り返しながら訊ねると、無視しようとしたがしきれずに返事をしたリゲルを前にアイラも無言で毛を毟り続ける。狩りで怪我をするような弟ではないがそれでも心配なのだ。そんなアイラの気持ちを解っているのだろう、だからリゲルも必要なことにまで無視をつらぬかない。
毛を抜き産毛を剃り終えると慣れた手つきで解体を進める。途中で料理人もやってきて三人で解体を終えると、肉の部分は料理人に任せ後は片付けに没頭する。刃物を磨いて湯を流し、最後まで片づけを終えるとすっかり日が暮れていた。橙色のランプが照らすが解体小屋の中全てを明るくしてくれるわけではない。最後に手についた臭いを消す専用の石鹸で手を洗っていると、大きな巨体がのそりと後ろに立った。アイラはゆっくりと振り返り大きな弟を見上げる。
「やっぱり納得できない。」
「リゲル―――」
真剣な表情で見下ろす様は巨体と相まって恐ろしい雰囲気だ。それでもアイラにとっては小さな頃と変わらない弟で恐怖を抱くわけではない。
「本当に最初から修道院に行くのを決めていたのなら、どうしてそんな風になったのかちゃんと説明して欲しい。」
「そんな風っていわれても……」
特に変わった気はしないのにリゲルはアイラがおかしいという。何がおかしいのか、やっぱり解らなくて昼間同様に首を傾げた。
「戻って来てから笑ってないよ、一度もね。口元では笑みを浮かべても目が泣いてる。何があったのか、本当に僕が一人前になったと認めてくれるなら話して欲しい。それに僕には知る権利があると思うよ。だって僕は姉上にとってたった一人の弟で、たった一人の家族だ。それとも僕は話せる価値もない弟なのか。それなら至らない弟なんかにロックシールドを任せて修道院にいくなんて無責任なことをするなよ。」
見下ろしてくる漆黒の瞳はとても真剣で言葉は一方的ではない。狩りをし獲物を解体しながらリゲルなりに考えたのだろうし、納得いかないのもうなずける。アイラは何時までも小さな子供のように思っていた弟の姿にはっとさせられ胸を押さえた。




