32 涙と母の憂い
胸に痛みを抱えたまま城に戻ったベルトルドは、騎士服に着替えると書類仕事を片付ける。すでに夕刻、同僚の影はまばらで役目のない者は帰宅の準備を始めていたが、胸の痛みが消えたのを確認したベルトルドは人影のない鍛錬場へと向かうと走り込みと筋力の鍛錬に勤しむ。日が沈んで辺りがすっかり闇に包まれると、ぐっしょりと濡れた衣服を脱いで体を拭き真新しい服に袖を通す。そのまま一度部屋に戻ったベルトルドはある物に目を止めた。
公爵家の人間であっても一般的な騎士と同じ狭く簡素な部屋。寝台と机と椅子、そして箪笥があるだけの空間で今まで視界に入れても空気のように気にも止めなかったそれに意識を奪われ、じっと見つめたのちに手に取り寝台に腰を下ろす。小さな茶色の袋を開くと中には焼き菓子……アイラが領民の土産にと買ったついでにベルトルドにもと渡してくれた、クッキーの入った袋だった。
『庶民の味もいいものですよ』
差し出されたそれを受け取るのに躊躇したのは庶民の食べ物だったからではない。何の策もなく異性に贈り物を差し出した無邪気さと、吸い込まれるような漆黒の瞳に見上げられたせいで一瞬だけ時間を止められてしまったのだ。
差し出したアイラ自身は食べ物くらいと気にもしていなかったのだろう。庶民が手を出す安価な品に意味を持つような貴族はいないし、逆にそのような品を渡されたなら不快感を覚えるのが普通だ。アイラの行動からすると異性との交わりがなかったのだと一目でわかる。品はどうあれ意味もなく異性に贈り物をするべきではないのだが、品が品だけに贈り物という認識すらなかったに違いないのだ。
小さな袋の中には数枚のクッキーが手つかずで残されていた。本来なら薄茶色のそれは時の経過によりカビが生え斑模様を描いている。
受け取ってより気にも止めず長く放置していたそれを今になって味わいたいわけではない。だが放置していたことにより手の届かない、手をつけてはいけないものに変わっていたことに何故か胸の中身をすべて取り去られたような気持ちに落とされた。覗き込む小さな袋の中に新たな染みがぽつりと落ち、深い色へと変化を見せる。
「―――なんだ?」
碧い瞳から落ちたものが何かわからず瞬きすれば更にぽたりと粒が零れた。訳が分からず顔を覆えば掌が濡れる。
「もしかして私は泣いているのか?」
物心ついた頃より泣いた記憶はない。ベルトルドはどうしてこのような現象が起きるのかさっぱり訳が分からず混乱する。何故、どうしてなのか。この小さな袋の中身に涙を零させる作用がなぜ存在するのか。解らなくて考える。すると脳裏に浮かんだのはまたしても見上げる漆黒の瞳だ。ベルトルドは頭を抱えごろんと寝台に転がった。手にした袋を胸に押し付けくしゃりと潰す。不可解な現象に導く貴重な証拠を潰したのに、心の内に現れるのはベルトルドを拒絶する娘の姿だけだった。
*****
それから日が過ぎ冬が終わりに近づく。社交を終えたカリーネが領地に戻るのに合わせ帰郷するアイラは、世話になったエドヴィンとシェルベステルに挨拶するために城を訪れていた。
訪問は予定通りだったが、急に始まった会議が長引いているとかで待たされる。護衛についてくれたグインと時間をつぶしに出た庭園でパリス妃の侍女ファリイと再会した。アイラにとっては偶然だったがファリイからすると偶然ではなかったようだ。
「東屋にてパリス妃がご休憩をなさっています。もしよろしければアイラ様にご挨拶したいと。」
後宮を出るのに許可が必要な側妃がわざわざ許可を取り寒空の下で休憩とは。躊躇したアイラは意見を求めるようにグインを振り返る。
「現在のあなたは陛下のお客人ですので断っても問題にはなりません。」
不寝番を解かれ、再び登城したのはエドヴィンと王に挨拶をするためだ。二人の都合で待たされている今、身分が低いアイラでもそれを理由に側妃の希望を断ることができるのだと、アイラだけにではなくファリィにも聞かせるようにグインは説明してくれた。どうしようかと迷ったアイラだが、今日を最後に都を去るというのもありパリス妃の申し出を受けることにする。
案内された東屋でパリス妃は二人の女官に囲まれていた。すぐ側でにぎやかな声がしているので近くに人もいるようだ。教科書通りの挨拶をした後に言われるままパリス妃の前に腰を下ろすと暖かいお茶が振る舞われる。
「あなたには情けない姿をさらしてしまって、ずっと恥ずかしく思っていたの。」
薄衣を纏い半裸の状態で剣を突きつけられていたパリスは、当然ながらあの日のような姿ではない。髪を結い上げ美しく着飾り防寒の為に毛皮のショールを羽織っている。化粧も完璧でどこからどう見ても貴婦人だが、あの日に香ったようなきつい匂いは纏っておらず、ほのかに甘い香りがするだけだ。
「関係のないわたしがパリス様のお部屋に許可なく立ち入り、遅ればせながらお詫び申し上げます。」
「疎ましく感じていたあなたに助けられるなんて。わたくし、とても深く誇りを傷つけられました。」
今から女性特有の陰険な苛めにでもあうのだろうか。身構えるアイラにパリスはふっと笑って「けれど」と言葉を繋げた。
「陛下に言われた言葉を思い出しよく考えましたの。わたくしは実家の思惑で嫁ぎ、実家の為に陛下の子を産んで尽くしてまいりましたけれど、夫である陛下の心をまるで理解できていなかったのだと。子を産んで仕事を果たしたと褒められ実家の思惑通りに動いておりましたけれど、本来のわたくしの仕事は何なのか。あの日はじめて陛下の声を聴いて、自分がなんて愚かだったのだろうと痛感いたしました。」
あの日パリスが王に剣を突きつけられていた場面で何があったのか。アイラが駆け付けた時にはあのような状態だったので詳しくは知らないが、普段のシェルベステルからは想像できない行動であったのは事実だ。まさに不眠で気が狂いそうになっていた時と同じで、アイラの首を絞める心配をしていた出会ったばかりの姿を思い出す。シェルベステルが追い詰められていた時に、本来なら支えて側にいるべき妃たちは逃げるだけの存在となり果てた。けれど妃たちだけのせいにはできないのかもしれない。後宮にいる妻たちと王が築いた絆がその程度であっただけなのだから。それをパリスも悟り反省しているのだとアイラに告げる。
「本当なら陛下を支え、陛下の為に実家を動かさなければならなかったのにそれが出来ていなかった。実家の為に陛下を動かすことばかりに一生懸命で、だから罰を受けたのです。」
王に剣を向けられたのも自業自得だと認めるパリスはまっすぐにアイラを見つめていた。いったい彼女が何を言いたいのか、対するアイラも正しい受け答えができるよう注意深く観察し、一言も聞き逃さないよう意識を向け続ける。
「マリエッタという女官から聞きました、あなたは確かに不寝番であったと。けれどわたくしはあなたを恐れています。何故ならあなたは陛下のお心を捕らえているから。それでも陛下の為になるなら、わたくしは恐れを払い陛下の為にあなたを受け入れたいと思っています。陛下とあなたとの間に子が成されれば我が子との間で継承権争いが起きるのは避けられないでしょう。だから、どうか子だけはあきらめて。それを約束して下さるなら、陛下の寵を受けることを認め、他の妃たちから必ずお守りいたします。」
ごめんなさいと、最後に付け加えたパリスの言葉にアイラは驚き瞳を瞬かせる。てっきり邪魔だと言われるとばかり思っていたのに、最後まで黙って聞けばシェルベステルの為に後宮に入るよう勧誘されている様なのだ。王がアイラを特別なものとして扱ってくれているのは感じているが、そこに何かがあるかといえばアイラの中では違っていた。確かにアイラを守るためという理由で後宮に誘われもしたが、アイラ自身は特別な意味があったとは受け取っていない。それに王が本気で望めば断れないのだ。今こうしてアイラの地位が変わらないのはそうではない証ではないのか。無理強いされなかったのはシェルベステルの優しさであり、特別な感情はないものと受け取っていたというのに、パリスは王の心はアイラにあるとほのめかす。王の為にアイラを後宮に迎え、王の寵愛を受けようとパリスがアイラを支えてくれるというのだ。その条件として我が子の立場を案じている。
「あの……」
どのように受け取り説明すればいいのか。戸惑うアイラが声を上げると同時に「ははうえさま!」と元気の良い子供の声が耳に届いた。
「ライオネス、あちらで遊んでいるように言っておいたでしょう?」
「わかってるよ。でもほらっ、ほらみてっ!」
元気よく走ってきたのは五歳になる王子のライオネスだ。泥にまみれた手でパリスに飛びついて手の中にあるものを大事そうに見せる。目にとめたパリスは「ひっ?!」と声を上げ、ようやく追いついた乳母らしい中年女性が王子をパリスから引き離し、その拍子に手にしていた物が地面に落下してしまう。
「あっ!」
落ちたそれはひっくり返った状態でぴくりとも動かず、ライオネスもショックを受けたのか固まって動かなくなってしまった。
「そのようなものを母君にお見せになってはいけないと申し上げたのですが―――」
止める前に走り出してしまったと言い訳をする乳母をパリスは叱ったりしないが、話を邪魔されたのには不満があるようだ。けれどアイラはパリスや乳母のやり取りよりも、この時期には珍しいものを見つけ嬉しくなり母親にも喜んでもらおうとしたらしい小さな王子の方が気になって腰を上げた。
「殿下が見つけたのですか?」
地面に落ちて動かないそれ―――緑色の蛙をそっと掌に包み込んでライオネスに差し出すとしゃがんで同じ目線になる。
「この蛙はまだ眠たいようですね。土の中に埋まっているのを殿下が見つけられたのですか?」
「ははうえさまもびっくりするとおもって。」
おずおずと蛙を受け取ったライオネスはアイラの様子を窺ていた。全体的なものは母親であるパリスに似ているが、薄茶色の瞳と目の形はシェルベステルの面影を携えている。
「母上様はびっくりされたようですね。」
ライオネスが思い描く驚きとは異なったがびっくりしているのは確かだ。
「蛙が怖い女の人は多いものです。そのような方を殿下は守ってあげて下さいませ。」
「あなたはかえるがこわくないの?」
「怖くありませんよ。さぁ殿下、この蛙は目を覚ますにはちょっと早いようです。もう少し眠らせてあげるためにもといた場所に戻してあげましょうか?」
「うばやもきらいみたいだから、あなたがてつだってくれる?」
かまいませんよと笑顔で頷けば、泥だらけの手でアイラの手を取って「こっちだよ」と走り出した。この態勢のままでは不敬とわかりつつも、手を引かれながら振り返ったアイラはパリスに頭を下げてライオネスについていく意思表示をし、慌てて乳母が後を追う。
土で汚れたライオネスの手は懐かしい匂いがした。手を引かれ導かれたのは垣根の境で土が掘り返されており、周囲は春を前に緑の芝がちらほらと芽を出し始めている。
「みみずもいるんだよ。」
「モグラもでそうな感じですね。」
「モグラはみたことないよ。」
モグラが土の中から顔を見せるのは極めて稀だ。ミミズを求めたモグラが畑にトンネルを掘り、そのトンネルを利用して鼠が作物を食い荒らす。そういうことは普通の貴族は知らないし、当然目の前の小さな王子様も知らないだろう。掘った穴に蛙を戻してそっと土をかぶせる。
「いっしょにみみずをさがそうよ。」
「ミミズをどうされるのですか?」
「つかまえてえさにするの。」
こっちに沢山いるんだと手を引かれた先は、かなり離れた場所にある腐葉土を保存しておく場所だった。イクサルドでたった一人の王子を相手にしているだけに不安になったアイラが振り返ると、グインは黙ってついて来てくれており、周囲には他にも護衛と思われる騎士が複数確認できた。かなり遅れて息を上げる乳母が必死に走ってきており遠くにはパリス妃の姿もある。アイラはドレスが汚れるのも構わず、膝をついて土を掘り返すライオネスの側にしゃがみ込んだ。
「釣りでもするのですか?」
「にわとりがいっぱいいるんだ。ミミズをもっていくとよってくるの、すごくかわいいよ。」
食料用もしくは採卵用に飼われている鶏のことだろう。餌につられて寄ってくる様が想像でき、田舎暮らしを思い出してアイラは嬉しくなり一緒に土を掘った。
懐かしい土の感触にライオネス以上に夢中になっているとすぐ後ろに人の気配を感じる。グインかと思い振り返ると薄茶色の瞳が興味深そうにアイラを見下ろしていた。
「随分と楽しそうだな。」
「ちちうえさま!」
ぱっと振り返ったライオネスが泥だらけの手でシェルベステルにとびかかろうとする。これはいけないと咄嗟に腰を掴んで引き止めるのに成功すると、慌てて走ってきた乳母が手拭いでライオネスの汚れを拭った。
「ちちうえさま、ちちうえさまっ!」
「久しいなライオネス。アイラに遊んでもらっていたのか。」
手を拭った後で嬉しそうに飛びついたライオネスを王が父親の顔で抱きとめる。体全身で喜びを表現するライオネスと『久しい』と漏らした王の言葉に、シェルベステルとライオネスの関係がただの父と子でないのだという現実を感じてアイラは踊る心が一気に沈むのを感じた。国王を父親に持つというのはこういうことなのだ。そして父を慕う息子に、我が子の将来を案じる母親。パリスに視線を移せば不安そうに眉を寄せている。その不安は自分がいるせいなのだと悟り、アイラは母親を差し置いてでしゃばってしまった自分自身に気付かされた。
王子や妃たちの間に入り込むつもりなんてないのだと言葉にしても、噂が出回っている以上は信じられないのだろう。国王が得る妻は一人きりではないし、もし王が望めば後宮の妃やアイラではどうしようもないのだ。アイラとシェルベステルの関係性が完全に不寝番と理解できないのならば、パリスの不安は仕方のないことなのかもしれない。




