3 眠れぬ王
不眠症とは聞いていたが、イクサルド王国国王シェルベステルの姿を初めて目にとめたアイラは、目前に広がるあまりの光景に絶句し言葉を失った。
まず、王の寝室の扉をエドヴィンはノックもなく開いた。気を使うようにゆっくりと開いて中の様子を窺ってから入室した所からすると、眠っている王を音で起こしてしまってはいけないとの行為なのだろう。
導かれるまま恐る恐る入室すれば薄暗い室内に、日中であるが故にカーテンをひいて光を遮断しているのだと推察される。が、遮光している割に室内が明るく、光を閉ざしている筈のカーテンが所々引き裂かれているせいだとわかって驚き息を呑んだ。
自分以外の三人は少しも驚いた様子がなく、これが普通なのだと解りアイラは声を押し込める。賊でも入ったのかと思われたが、室内はカーテン以外には特に荒らされた形跡がなくそれなりに整頓されていた。だがよく見れば部屋を飾る調度品が一つもない。もしかしたらすでに持ち出されたか破壊されたのだろう。引き裂かれたカーテンがそのままにされている理由は解らなかったが、もしかして王は不眠がたたり心身喪失しているのではないかと恐怖を覚え、我が身可愛さに心なしか護衛を務めてくれるというベルトルドへ意識を向ける。彼は国王から末端田舎貴族の娘を本当に守ってくれるのだろうかと不安ばかりが押し寄せた。
「陛下、例の娘を連れて来ました。」
天蓋つきの巨大な寝台ではなく、壁際にある長椅子に歩み寄ったエドヴィンが腰をかがめる。王は寝台ではなく椅子に寝転がっていたようだ。虚ろな眼差しを天井に向けぶつぶつと何か言っていた王が身じろぎし、アイラは薄暗い部屋で幽霊でも見たような気分に陥った。
「例の娘―――すまぬ、覚えておらぬ。」
酷くかすれて力のない声が耳に届く。まるで死を前にした老人の様な声色にアイラは切羽詰まったエドヴィンの状況をようやく理解した。宰相として王を支えるエドヴィンも老ける訳だ。
「寝かしつけが上手い娘です。どうぞ陛下の寝所にお招きください。」
「抱いた疲れで眠れるなら後宮に入り浸っておる。今の私はどのような美姫を前にしても性欲は湧かぬぞ。」
「彼女はそのような娘ではありません。言葉通りの意味で添い寝をする娘です。彼女に抱かれるとぐずる赤子も瞬く間に眠りに落ちます。」
エドヴィンの説明に王は力なく乾いた笑いを漏らした。馬鹿にしたのではない、あきらめたような笑いだ。
「そうであった、思い出したぞ。妙な呪いを受けた後にお前が言い出したのであったな。」
「ようやく参りました。」
「女子の肌で眠れるなら苦労せん!」
突然王が声を荒げたせいでアイラはびくりと肩を震わせる。声を上げた王はその反動で体を起こしたが、起き上がり切れずに長椅子から転げ落ちエドヴィンに支えられると肩を借りて寝台へと足を運んだ。
「いっそ死なせてくれぬか……」
王の呟きにアイラの全身から血の気が引く。眠れない、たかが不眠というが、薄暗い部屋に閉じこもる王は一体何日眠れていないのだろう。詳しい説明を受けずにここまで来てしまったが、聞いていたら怖くて立ち入れなかったに違いない。それを見越してエドヴィンは簡単に手早く済ませたのではないだろうかと、世話になったカリーネの夫だが少しばかり恨む気持ちが芽生えた。
「アイラ、こちらへ。」
エドヴィンに呼ばれるが足が竦んで動かない。国王への正式な謁見とも違う雰囲気にのまれ動けないアイラの背にマリエッタの腕が回された。
「普段の陛下はとても慈悲深くお優しい方です。」
耳元で安心させるように囁かれても少しも安心できない。何処をどう見ても今の王は平常ではないのだ。怯えるアイラをエドヴィンまでもが安心させるように頷き目で呼ぶ。最後の砦と護衛の騎士を振り返ったが、ベルトルドは微動だにせず静観を貫いていた。
マリエッタに手を引かれ天蓋つきの寝台へゆっくりと近づく。その間にエドヴィンが王の耳元でアイラの素性を簡単に説明していた。王も見ず知らずの女を寝台に招く恐怖があるだろうに、今はそれどころではないのか。少しの抵抗も見せない。ついに寝台の側に立ったアイラはこの後どうしていいのか分からなくなった。
エドヴィンが場所を譲るように身を後ろに引くと、暗い寝台の上に横たわる王の姿が目の前に晒される。大きな体だが、寝間着の上にガウンをだらしなく身に着けた王が力なく横たわっていた。腹の上に置かれた指は想像よりも痩せて節くれ立っており、浅黒く変色した肌が不健康さを物語っている。恐れながらもゆっくりと視線を頭上にやれば、乾いた唇とこけた頬が、それから落ち窪んだ虚ろな目が深いクマに縁取られていた。薄茶色の髪も張りがなくぱさぱさでとても三十二の年齢には見えない。流石に老人とまではいわないが、六十といわれても通じるような感じだ。
「あの……」
恐れから声が出ない。挨拶も出来ずに立ち竦んでいると王の節くれ立った手が力なく上げられた。
「娘、遠慮するな。早く来ぬか。」
「しっ、失礼いたします!」
慌てて寝台によじ登るが、この後どうしたらいいのか分からない。子供のように抱き上げることも出来ずに伸ばされた手を取ってしまったが、かさかさした枯れ木のような感覚にアイラは悲しくなって眉を寄せた。自傷の跡なのだろうか、幾多ものひっかき傷が手の甲にあって痣や瘡蓋も見られる。子供の夜泣きで苦しむ母親たちは誰も彼も疲れ果てていたが、目の前の王の疲れはその比ではない。アイラが唖然としていると王の手が笑いに揺れた。
「エドヴィン眠れぬぞっ!」
「陛下、今しばらく。アイラ、何時もするようにしてくれないか?」
「いつも―――」
寝台の上で正座し王の手を取るアイラは、くくくと喉からあきらめの音を漏らす王の横顔に視線を戻した。
シェルベステルは十九の若さで王となった、今のアイラと同じ歳だ。以来十三年、前王の悪政に苦しんだイクサルド王国は彼を王にし少しずつ生活を豊かにして行ったのである。その間アイラは弟のリゲルと共に父の残した爵位と所領を受け継ぐのに必死だったが、この王は国の為に死に物狂いで生きてきてくれたに違ない。カリーナの夫であるエドヴィンが私腹を肥やすことなく、王の仕事も肩代わりし寝る間も惜しんで尽力しているのだ、きっと立派な人なのだろう。その王が不眠で悩む原因が何かは知らないが、若くして王となり今も重圧が続いているのは確かなのだ。シェルベステルには父王の様な失敗は許されない。民の為に立った王は民の為に生きなければならなのだ。
アイラはこの時初めて自ら王の為に役に立ちたいという思いに駆られた。恩あるカリーネだけの為ではなく、目の前の王自身の為にできる事があるなら、恐れるのではなくやるだけやってみようと。ただ一緒に眠るだけだが駄目でもともと。荒唐無稽な提案だと馬鹿にするのではなく、やるだけやって次の方法をアイラも考えてみようと決意する。
「陛下、侯爵様。今しばらくお待ちください!」
いうなりアイラは寝台を飛び降り寝室を抜け出した。淑女の心得も忘れ全力で走り最初の部屋へと戻ると鞄を漁って白い木綿の寝間着を取り出す。背に手を回しドレスの紐を解こうとしたが、急いだせいで複雑に編まれた紐が絡まってしまいどうしようも出来なくなった。
「マリエッタさんっ。」
彼女についてきてもらえばよかったと慌てて戻ろうとして扉を開けば、目の前に人の胸があったせいでぶつかりそうになり驚き声を上げる。
「突然どうした?」
「ベルトルド様!」
命令か自主的にかアイラを追って来たのだろう。一瞬悩んだが王の寝室に戻ってマリエッタを呼んでくるよりもベルトルドに頼む方が早い。アイラは扉を開け放ったまま反転してベルトルドに背を向けた。
「申し訳ありませんが、背中の紐を解いていただけませんか?」
「何!?」
驚かれるのも当然だ。アイラも若い男性にとてもはしたない頼みをしていると承知していたが構わず急き立てる。
「紐を解いていただくだけで構いません。陛下の為にできることを、たとえ無駄でもやってみたいと思ったんです。」
「いや、しかし―――君は構わないのか?」
「ちゃんと扉は開いていますから。」
未婚の女性が男性と部屋で二人きりになるわけではない。一歩踏み出せば廊下という位置でアイラは背を向け、ベルトルドは戸惑いつつも人の通りがないのを確認してから背中の紐に手をかけた。
「マリエッタも念を入れたな。絡んで解けないぞ。」
女性の細い指なら簡単に編める紐も、剣を握り鍛えた男の指では簡単にいかないらしい。しかもアイラが無理に引っ張ったせいで余計に絡んでしまったのだ。
「切っていただく訳にはいきませんか?」
「そうだな―――いや、大丈夫だ。少し待ってくれ。」
切るのは紐とはいえ借り物のドレスだ、マリエッタの許可が必要だろうかと思っていると、ベルトルドが苦戦しながらもなんとか解いてくれた。
「ありがとうございます!」
ほどけた途端、アイラは礼を言うより早く扉をばたんと閉めドレスを脱ぎ捨てる。コルセットの紐もきつく締められていたが結び目が前なので自分で解くと急いで寝間着に袖を通した。そのまま扉を開いて飛び出せばベルトルドが再びぎょっとしたが、直ぐにアイラの考えを理解してくれ先頭を取る。
「流石にそれでうろつかれるのは困る。」
人がいないか確認しながら進んだので少し時間がかかったが、ベルトルドのお蔭でアイラは必要以上の恥をさらさずに王の寝室へと舞い戻れた。アイラの姿を見たマリエッタとエドヴィンはその姿に目を丸くする。
「これがいつも通りですので……」
アイラはおずおずと王の寝台に歩み寄る。床まである寝間着の下は裸足で昼間だというのに寝支度は完璧だ。子供を寝かしつける時は夜なので一緒に眠ってしまうこともある。だからアイラはいつも綿の白い寝間着で寝かしつけをしていた。これは領民の家であっても変わらず、同じ目線で飾らない領主の姉に領民も心を開いて良好な関係を築いていたのだ。
寝台を覗くと王は身を起こして頭を抱え、苦悶に歪んだ顔で瞼を硬く閉じていた。負の感情丸出しの王に躊躇を覚えるが、側に寄る了解を得る様にアイラが振り返るとはっとしたエドヴィンがマリエッタに合図を送る。
「お嬢様、申し訳ありませんが今一度確認を。」
何を言われたのか分からなかったが、マリエッタが寝間着の上から体を弄るのでようやく理解した。裸にされて体を洗われたのも着替えも全て、アイラが王を傷つけるような物を隠し持てないようにするためなのだと。まさか寝間着に着替えて戻って来るとは思わなかっただろう。ベルトルドが後を追ったが着替えを手伝ったり覗き見たりという不埒者でない限り、王にかすり傷でも負わせてしまった場合アイラの潔白は証明されない。エドヴィンが要求してきた役目だが、彼自身からアイラが深い信用を得ているわけでもないし、王の寝台に上がるのだ。体を調べられるのは当たり前であるとアイラは素直に受け入れた。こうして調べてもらっておけばもし何かあった時にアイラの無実は証明される。身体検査を受けた後、アイラは意を決して国王に声をかけた。
「陛下、ロックシールドのアイラでございます。お目にかかれて光栄です。」
見も知らぬ相手を寝所に上げるなど王としても不快だろうと挨拶から始めたが、王は深い溜息を落として首を振った。
「エドヴィン、娘を下がらせよ。気が狂いそうだ。」
「陛下、今一度お試しを。彼女はロックシールドの娘です。」
「ロックシールドがなんだ、希望を抱かせるな。娘の首に手をやり絞め殺すやもしれん。」
「陛下―――」
寝台に身を寄せたエドヴィンが眉間に深い溝を刻む。数々の失敗を思い出しているのだろうと推察し、国王までとはいかずとも疲れて果てているエドヴィンの横顔をアイラは一度見てから王へ視線を戻した。
室内の状況に自傷の跡。人は眠れないと苛々して物にあたってしまうことも度々ある。子供の夜泣きが何か月も続いた母親だってそうだ。愛情は深いのに睡眠不足と疲労で子供を傷つけてしまう悲しい事件がない訳ではない。それを知っているからこそアイラは疲れた母親たちに力を貸しているのだ。
王が受け入れないのなら無理に押し付けても状態を悪化させるだけだ。一度引こうとエドヴィンが溜息を吐き出した隣で、アイラは許可を得ずに王の寝台に膝をのせた。
「首を絞められても大丈夫です、ここには二人の殿方がおります。きっと止めて下さいますから、絞めたくなれば遠慮なく首を絞めて下さいませ。そうすれば一時は心を落ち着けることが叶いましょう。」
アイラの言葉に王が顔を上げ落ち窪んだ目を向けた。薄茶色の目は淀んで白目部分は真っ赤に血走っている。正直暗い中で出会ったら悲鳴を上げて一目散に逃げだす姿だ。けれど今のアイラに恐れはない。目の前の相手はイクサルドの王だが、シェルベステルという不眠に悩む一人の病人でもあるのだ。切り替えと思い切りが良い性格はアイラの長所でもあった。
「わたしは医者でも薬師でもありませんし、呪い師でもありません。田舎の下級貴族の娘です。こんなわたしが陛下のお悩みを解決できるとは微塵も思っていません。陛下もこんな小娘に肌を寄せて眠れるなんて思っていらっしゃらないでしょう。でもわたしはこの為にロックシールドの田舎からはるばる出てまいりました。どうか記念に与えられたお役目だけは果たさせて下さいませ。」
この時のアイラには王に首を絞められる覚悟があった。勿論エドヴィンとベルトルドが止めてくれる前提なので絞殺される気はない。小娘の首を絞めて眠れぬ苛立ちを少しでも発散してくれればと思ったのだ。今の自分に与えられた役目はそれだと判断し勝手に王の寝台に上がり込む。すると王は鬱陶しそうに腕を伸ばしアイラを近づけまいと押し止めた。
「咎のない娘に手にかける者に王である資格はない。」
民を苦しめた愚王である父を排したシェルベステルがいかなる人物なのかアイラは知らないが、王の態度に彼の人間性を感じて意志を強める。
「田舎娘は陛下の知る女性と違って軟弱ではありません。それに陛下の騎士も鍛えておいでのようですから必ず止めて下さる筈です。」
爵位は長男が継ぐのが一般的で、二番目以降に生まれた男子は己の力で生計を立てて行くのが常である。だが公爵家の人間ともなると親から受け継ぐ爵位が他にあったりもするので、騎士となって職を得ていても形だけの人間も多い。だが先ほど確認したベルトルドの手はとても太く硬そうで、繊細さからははるかに遠い指をしていた。ちゃんと騎士として仕事をしている人の手だ。騎士服の下に隠れた厚い胸板も脂肪ではないだろう。衰弱しきった王を抑え込むことくらい何でもない筈だ。
「どうせ何をしても眠れないのですからエドヴィン様にお付き合い下さいませんか。無駄と解ればエドヴィン様の気も済みます。部屋を暗くしても昼間っから眠れるのは酔っ払いと赤子位のものです。陛下は眠らず、どうか臣下の我儘をお聞き届けください。」
伸ばされた腕を無視し、にじり寄ったアイラは遠慮なく腕を伸ばして王を捉えた。こんな時に躊躇しては駄目だと解っている。何事も勢いなのだ。人見知りで泣き叫ぶ子供も遠慮なく抱きしめてやればそのうち泣き止む。腕を伸ばして王の首に回し胸に抱き込めば言葉とは裏腹に受け入れられた。
「其方、私が恐ろしくないのか。妃らですら恐れて近寄らぬものを。」
「そうなのですか? 陛下が何をしたのかは知りませんが、わたしは聞かされておりませんので。」
王の不調を回復させ功績を上げようとした妃もいただろうが、この状況では恐れをなして近寄らなくなっても無理はない。引き裂かれたカーテンからあらゆる暴挙が予想できるし、こうして見ると自傷の跡は手だけではなく、首や耳にも及んでいる。王の寵愛を奪い合う妃たちも牙を向けられるのを考えると近づきたくなくなるだろう。
「まあよい。其方と話しても苛立ちは増さぬようだ。どうせ眠れぬ、政務もこなせぬ私に付き合ってくれ。」
「陛下と語り合えるなんて、田舎娘には夢の様な出来事にございます。目は硬い方ですので、夜が明けてもお付き合い願いたいものです。」
「そうか。そこにいるのは誰だ?」
王の意識が周囲に向けられると、ベルトルドが膝を付き頭を下げた。
「ベルトルド=リレゴに御座います。」
「ああ、ベルトルドか。其方ならば安心だな。私が錯乱したら即座に娘を救い出せ。」
「承知いたしました。」
動くのも辛いのだろう、王はアイラに抱き込まれたままベルトルドに命じる。臣下を案じる王の優しさに胸を痛めるが、もしアイラが傷つけば更に王は心を痛めるのだろう。ベルトルドだけに頼らず自分自身も気を付けようとアイラは憔悴しきって体重を預けてくる王を見下ろした。