19 父の過去
そんな馬鹿なと混乱する。今ここで一番狼狽えているのは自分だ。アイラは戸惑いながらもごまかすように言葉を発しようとするが声が出ない。それでも絞り出すように何とか声を発した。
「嘘……あのっ、そんなの嘘です。父が悪政に手を貸したなんて絶対に嘘です。父はとても穏やかでとても優しい人でした。そんな父が悪い事なんて、そんな―――え、なに?」
アイラの父親は反乱側に身を置き、前王の側で諜報活動を行っていたと聞いている。けれどそもそもは何だ? もともと父親は前王の側に仕え、その悪政を執り行うための何をしていたといったのか。仕事で家を空けると長く帰ってこなかったが、戻ってくると目いっぱい遊んでくれた。生まれたばかりのリゲルを寝かし付ける様子はとても穏やかで、片腕にリゲルを抱いて空いた方の腕にアイラを囲ってくれたものだ。それなのに、そんな父親が悪政に加担していたなんて信じられないし信じたくなどない。
戸惑うアイラの背をエドヴィンが安心させるように撫でる。知らぬ間に呼吸が早まり掌は汗でしっとりと濡れていた。
「私の言い方が悪かったな。確かに君の父親は前王の側で力を使っていたが、それは全て領地に残した君たちを守るためにしていたまでの事。反乱側に引き込む際に前男爵の出した条件は国からの解放―――天使の末裔としての力は次の代には残されていないからと、国政に巻き込むようなことにならぬよう忘れて欲しいという条件だけを彼は望まれた。」
地位や名誉、金銭の類の何も望まれなかったせいで、エドヴィンは最後の最後まで前ロックシールド男爵に疑いの目を向けていたのだ。齎される情報が事実ではなく、まして玉座から引きずり降ろそうとしている先の王に偽りを掴まされていたらこちらが危ういと。けれどクリストフェルは信じ、エドヴィン達はそのクリストフェルの指示に従った。振り返れば全ての情報は真実かつ貴重な類ばかりで、いったいどのようにして手に入れているのかと不思議に感じたものだ。見た目はどこにでもいる普通の貴族の男であったが、まるであらゆる訓練を受け修羅場を潜り抜けてきたのではないかという結果を持ってくる。表情や仕草、目の動きや体温などで人の心を読むという技術も存在したので、その類に長けているのだろうとも思っていた。だからエドヴィン自身、彼の力をアイラの存在でようやく確信したと言っても過言ではない。彼を疑う心があったせいで囚われた彼の救出が間に合わず、死なせてしまったのだとの思いが湧き上がっている。
「亡き大公殿下は君の父親が持つ力を信じていた。本来は国を豊かにするべき力を前国王は悪用してしまったのだと憂いていたよ。大公も条件を呑む際に君たち姉弟には力が引き継がれていない、自分で最後なのだと言った彼の言葉を信じ、ロックシールドを王家から解放する約束をした。」
アイラの父親は私腹を肥やしたくて前王に仕えていたのではない。長い歴史において天使の末裔が受け継ぐ力はイクサルドの繁栄に多大なる貢献をしてきたのだ。けれども血が薄れるにつれ力は弱まり、前男爵の代になった頃にはほとんど失われていた。こんな状態で子供たちに何かを求められても力になどなれないからと、彼らを束縛から解放すると約束したクリストフェルに味方し、子供たちの未来の為にも前王を裏切ったのだとエドヴィンはあえて優しく穏やかさを含んでアイラに説明する。
「でもそんなの、父がそんなお役目をしていたなんてとても信じられません。」
ロックシールドは歴史は長いがただの田舎貴族だ。血統を証明する髪と瞳の不思議はあるが、長く貴族であり続けているというだけで他に吐出できるものは何もない。
「だが国境に面した小さな領地しか持たない男爵家が代々国王の側に仕えたのは事実だ。歴史で言うなら我が侯爵家よりも長く続く由緒正しい血筋でもある。側近中の側近として幾代もの長きに渡る家系が男爵位であり続け、目立たぬようにしていたのも不思議ではないか。それは君たちの祖先が、天使の末裔たちが権力を得て国に関わるのを恐れた証拠であり、また王家が君たちを恐れた証拠とも考えられる。」
地位や権力を望まなかったからこそ田舎貴族であり続け、王家は彼らを利用するために側に置きつつも、巨大な力での乗っ取りを恐れ利用するだけして権力は与えなかった。
「ベルトルド、この話を聞いて君はどう思う。」
エドヴィンは矛先をアイラから側に控えるベルトルドへ向けた。問いかけに視線で返したベルトルドはしばらく無言であったが、やがて長い息を吐き出しエドヴィンを強い視線で捕らえる。
「天使の話は伝承でしかない。信じて熱心に研究する人間もいるのは確かですが、今となっては証明のしようもありません。王になる者だけに許される秘された事柄を公言されたのは、誰が耳にしても真実とは受け取らないからでしょうか。」
「それもあるし、姉弟に力がないと解っているというのもある。二人を利用しても何も得られないとな。」
「調べられたのですか?」
いいやと首を振るエドヴィンの言葉を引き継ぐ形でシェルベステルが口を挿んだ。
「ないというのは語弊があるな、現実に私は彼女の力で眠りに誘われたのだから。だがなベルトルド、その力はきっかけに過ぎないし、あるかないのかも解らぬような微々たるものだ。確かに純真無垢な赤子や子供には効果があるのだろうが、現実を知りすぎた疑り深い大人相手には無理だ。私が眠りにつけたのは彼女が私を童心に誘い、乱れ切った心を一点に集中させた結果でもある。」
「ですが現に陛下は彼女なしでは眠りにつけない。」
「情けないが呪縛にかかっておるのだ。彼女を失ったらという不安が払拭されれば問題なく眠れるだろう。要するに心の持ちようだ。」
乗り越えてしまったのはあえて伏せ、過去に天から舞い降りた神の御使いの力は既にないのだと否定する。
「故にベルトルドが娘を得ても不可思議な眠りなど永遠に訪れはしない。あるのは何ら変わらぬ入眠だけだ。そんな他愛ない事柄を知るために其方が彼女を欲するならば私は許さぬぞ。」
「それは陛下自らに彼女を得るつもりがあるという意味でしょうか。」
シェルベステルは思わず苦笑いを漏らしてしまった。出来るならそうしたいのだが世話になった手前、ロックシールド男爵も、そしてアイラ自身さえ望んでいないことが王の我儘で叶えてよいものではない。
「娘にその気がないのを無理強いするつもりはない。だからこそ其方が娘を心より愛しいと想うならば祝福し許そう。だがそうではなかろう。其方自身も己の思考が一般と異なるのを理解しているなら納得いたせ。これ以上アイラを追い詰めるなら他所と縁組させるぞ。グイン=カリエステなどどうだ、仲良くしていると聞いておるが?」
意地悪く口にすればアイラは驚き、ベルトルドとエドヴィンからは二人同時に首を振られた。
「グイン=カリエステは子爵家の次男、前男爵の意思はいったいどうなったのです。陛下は彼女が政治利用されてもよいと?」
王の寝所にまで呼ばれる娘だ。グインの妻に納まればグインはともかく父親である子爵や嫡男が出しゃばってくるに決まっている。エドヴィンへの接触も怠らないだろう。政治的に利用されるのはアイラ自身にとっても悲しいことだ。
「冗談だと解らぬわけではなかろう、試しに言ったまでだ。其方が望むならどうにか致すが―――望まぬか。」
アイラに問えば首を大きく横に振られ、シェルベステルは失言を詫びる。グインは良い人であるがアイラにとってはそのような対象ではなく、また彼にとってもアイラはそのような対象でもない。護衛の任が解かれれば王の近衛とただの男爵家の令嬢に戻るだけなのだ。
「まぁそうだなベルトルド。其方が抱く疑問はあらかた拭えたのではないか。納得できぬやも知れぬが追及の為だけにうら若い娘の心をもてあそぶのは許されん。たとえ妻に迎えると言ってもだ。ロックシールドの血筋に縋りエドヴィンが呼び寄せ、私は王ではなく一人の人間として彼女に心を開いた。其方には理解できぬかも知れぬがそれが現実だ。彼女は胸に抱いた者を眠らせる魔法など持ってはいない。」
特別な血筋ではあるが何処にでもいる娘だとシェルベステルはベルトルドを諭す。何処にでもいる凡庸で多くの人間からは興味を抱かれないような娘でも、ただ一人の人間の特別な唯一にもなり得るのだと。しかしながらベルトルドはその様な不確かな感情にはまるで興味がない。
「もとより魔法など信じません。それを言うなら陛下だけではなく私にとっても彼女は特別です。これまでに私が興味を抱いた女性は彼女だけなのですから。」
「ベルトルド様はわたしではなく、陛下を眠らせる行為について興味を持たれたんです。それをわたし個人への興味と一緒にしないでください。」
絡め取るような視線を向けられアイラは慌てて否定した。それはベルトルドも主張したことなのだから忘れないで欲しい。アイラへの興味はアイラに向けたものではなく謎に向けたものだ。
「確かにそう、君の言う通り私は君の不可思議な力だけに興味があった。だが今は異なる。陛下は私の興味を彼女から引かせるつもりでしたのでしょうが、話を聞いて更に興味がわきました。王だけが知りえた事実ならば、天の御使いと呼ばれたものが一体何だったのか。彼女に関わらなければ知りようがない。」
伝承などには興味を持たない筈のベルトルドが食らいつく。取り合えずロックシールドの過去に存在したという天の御使いに関わる事柄を知りたいなら、アイラを妻に迎える必要などないのだ。調べたいならロックシールドの屋敷を家探ししてもらっても構わない。けれどベルトルドの中にある結婚という考えが消えないのは、やはり王を眠らせた力がないと証明されるまでは無理なのだろう。同衾してしまえば終わってしまう事柄なだけに、恥も外聞も捨て一晩共にしてもいいような気持にもなってくる。
どうしてこんなにも投げやりな考えを持ってしまうのか。それはきっとアイラにとっては求める答えがないことに気落ちしてしまったのだ。やはりこの人はアイラ自身を見もしないのだと。思わず出た溜息の後に自分が情けなく感じながらもう一つの疑問をぶつけた。
「そもそも天使の末裔って……大変申し訳ありませんが正直信じられません。」
幼い頃に失ったせいもあるだろうが、両親からは特別な力の存在とか、ロックシールドの祖先から引き継ぐべき重大な事柄などはまるで知らされていないのだ。なのに伝え聞くイクサルドの危機を救った天使の物語が事実であったと、その子供たちは代々王家に仕えたといわれてもピンと来ない。天使が起こした奇跡の数々のうちほんの一つでもアイラにあったならば信じただろうが、アイラも弟のリゲルもただの人間なのである。父からもそのような不思議は感じ取れなかった。
不安な目でエドヴィンを見上げれば、信じられないのも仕方がないとアイラの肩を叩き、それからゆっくりと壁面に画かれた天使を見上げた。その横顔がまるで泣いているようだとアイラは感じる。
「天使の存在が事実か否かは今となっては掴めない。だが天使と呼ばれた存在がいたことだけは事実で、今もこうしてその血は受け継がれている。君の父親が本当に天使の力を宿していたかは分からない。だが当時は信じていなかった私ではあるが、今はクリストフェル大公殿下が仰られた言葉は真実であったと思っているよ。」
見下ろす薄い青色の目は不確かな現象に縋り信じたいと願うものだ。味方に引き込んで死なせてしまった傷も抱えているのかもしれないとアイラは感じ取る。だからこそ今は確認しようもなくなったものをあったものと信じ、アイラの父親を特別なものとして崇めることでエドヴィンなりに心の整理をしているのだろう。
一国の王を玉座から引きずり降ろしたのだ、並大抵のことではない。もしかしたらエドヴィンもシェルベステルも、そしてベルトルドもこの場にいなかったのかもしれないのだ。そして天使の末裔が起こすとかいう奇跡の力を信じた悪政を敷く王に、父だけでなくアイラやリゲルも巻き込まれていたのだろうか。
城への関わりだけを否定してシェルベステル側についた父もまた、命を懸けアイラ達を守ってくれたことになる。今イクサルドにある平和は多くの犠牲を伴い勝ち取ったものだ。エドヴィンは父を信じなかった事を後悔しているようだが、彼に託した父の判断はきっと正しかったとアイラは感じる。貧富の差はあっても伝え聞く前王の時代のような命の危険に怯えるばかりの、腐敗した恐怖政治はシェルベステルの治世には何処にも存在しないのだから。
「実はわたし、本当の意味で助けて下さったのはカリーネ様だけで、エドヴィン様はお金だけ出して放置していたんだってずっと思っていました。でもそうじゃない、閣下もずっとわたしたち姉弟を見守って下さっていたのですね。父の願いを聞き入れ、深く関わるのを避けて下さっていた。もしエドヴィン様が父の事を気にしているならどうかもう、お心を楽にしてください。わたしも弟も既に受け入れているのですから。」
心を軽くしてと見上げる漆黒の瞳にエドヴィンははっとさせられる。気遣い溢れる優しい感情がエドヴィンの体の中をすっと通り抜けたような感覚に襲われたのだ。これは何だろうとじっと見つめているとアイラは恥ずかしそうに視線を外してわずかに俯く。お陰で妙な気持に陥らずに済んだとほっとすれば、シェルベステルとベルトルドの視線が見透かすようにエドヴィンを捕らえていた。
「幼くに父を失うと同じような年齢の相手に興味を示しやすくなる。求められなかった物を与えてもらえるような気持になるのだ。これこそ心因的な現象だが、閣下は妻帯者だ、しかも世話になった夫人の夫。恋慕しても悲劇しか生まない。」
冷静に感情を含まない声で語ったベルトルドをアイラは強く睨み付ける。
「違います、わたしはただ感謝の気持ちを伝えたかっただけですから!」
カリーネの夫に、宰相に、侯爵に、世話になった相手にそんな気持ちを持つ訳がない。馬鹿な事を言い出したベルトルドに全力で否定するも、またもや冷静に分析され返す言葉を失う。エドヴィンとシェルベステルはベルトルドの言葉を真に受けてはいないようだったが、論詰めでくるベルトルドに口で敵う訳もなく、アイラは俯いてむくれるしか反撃の術を持たなかった。