18 天使の末裔
光を感じて瞼が揺れる。分厚いカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ましたシェルベステルは、幾度か瞬きを繰り返し現実に目を見張った。
アイラの手を握らずに眠っていた状況に唖然とするが、やがて掌で顔を覆うとなんて事だと苦笑いが漏れる。
「まいったな―――」
前々より恐れていた状況だ。もしかしたらアイラの手を握らずとも眠れてしまうのではないかと案じていたが。証明された今後は嫁入り前のうら若い未婚女性であるアイラを寝室に引き込めなくなるどころか、役目は終えたとロックシールドへ帰られてしまう。不眠改善は望んでいたが、優しく手を握ってくれる存在に甘えていたい衝動もある。シェルベステルは突然訪れた別れの不安に襲われ、身を起こしてうなだれている所に侍従が入ってきた。
「おはようございます陛下。今朝は―――お疲れのようですね。」
侍従は心配そうな目をシェルベステルに向ける。多少具合が悪くとも王の安眠の為に今夜はアイラに来てもらうべきと主張した。王が眠れなかったのだと思い込んでいる侍従は、朝の身支度を手伝いながら勝手に解釈して話を進めていく。目覚めに落ち込むシェルベステルの様子に一睡もできなかったと勘違いしたのだ。シェルベステルは戸惑うも、卑怯だと思いながらもあえて訂正しなかった。
昨夜訪ねてきたアイラはいつもと様子が違った。シェルベステルを認めほっとしたような表情をしたのは、眠れぬ王の元へやってきて正解だったと思ったのだととれる。だがすぐにそうではなくシェルベステルという人間を見て安堵の表情を浮かべたのだと気付いた。ベルトルドと何かあったのだろうと推察し、元凶を追い出そうとすれば思わぬ抵抗にあい声を荒げ、慰めてやりたかったアイラまでも怖がらせて逃げられてしまった。エドヴィンとも話したが、ベルトルドは人格を抜きにすればアイラとの縁談を調えるのはとても良いものになるだろう。けれど情をかける娘だからこそ、またエドヴィンも過去の出来事があるからこそ押し付けるわけにはいかない。アイラ自身が望まない限りベルトルドとの婚姻を認めるつもりがないのは、私情からだけではないとシェルベステルは己に言い訳する。
「繋ぎ止めてはいけないのだがな。」
それがアイラの父親が出した条件だった。過去にシェルベステルが彼女の父親の力を信じなかったのと同様に、ベルトルドもアイラの特別な力を信じていない。だが彼女の父親と関わったシェルベステルとエドヴィンだからこそ、当時と異なりアイラの力は本物だと信じているのだ。アイラに出会ったからこそ前ロックシールド男爵の力を真実として認識したといってもいい。
アイラを連れてきた当初はエドヴィンも彼女にそのような力があるとは本気で信じていなかったし、本当に藁にもすがる思いで呼び寄せたに過ぎなかったのだ。狂っていたシェルベステルに至ってはロックシールドの名を耳にしても認識できなかった。そんなものは存在しないと思い込んでいた証拠だろう。一人の男を利用し死に追いやったにも等しいというのに、シェルベステルは彼にだけではなくその娘にまで助けられている。
アイラの胸に縋り眠りについた今は彼女の内に眠る力の存在を信じながらも、抱き締め吐き出させてくれた相手がアイラだったからこそ眠りにつけたという印象も強い。
アイラの纏う懐かしい匂いに何も知らなかった過去の幸せを重ねた。そしてアイラは王であるシェルベステルに、大切な人の死は悼み泣くべきだと促してくれたのだ。
抱き締めた若くみずみずしい娘の肉体は、縋るシェルベステルにとっては地位も名誉も威厳も何もかもを凌駕させるだけの懐かしさを呼び起こさせた。だから実際にはアイラが受け継いでいる血ではなく、アイラ自身の温もりと人柄がシェルベステルを眠りに誘ってくれたと感じるのが正直なところなのだ。
だからこそ不思議な現象に答えを求めようともベルトルドには見つけられない。ベルトルドがアイラの胸に顔を埋め、それをどう感じ取れるかで心の動きも変わってしまうのだから。
大切に感じる存在であるが、イクサルドの国王の元では幸せにしてはやれない。辺鄙な田舎で生まれ、親を亡くしてカリーネに育てられた。ロックシールドの執事とカリーネの乳母に繋がりがあるのをエドヴィンは掴んでおり、ロックシールドに何かあれば頼られると解っていたのだ。哀れな幼い姉弟に心を痛めたカリーネ自身が望んだ施しはエドヴィン自身に関係のない、妻が勝手にしていた施しとして周知された。エドヴィンは口出ししないことで二人を城へ引き込む切っ掛けを与えないようにしていたというのに。禁を破らせた原因であるシェルベステルもまたアイラに償う必要があった。
「エドヴィンを呼んでくれ。」
身支度を整えながら侍従に命じる。うまくいかないのなら深入りされる前にベルトルドを遠ざける必要があるからだ。けれども万一も有り得る。アイラが起こした奇跡をベルトルドも受けていたとするならば、アイラにとってこの上ない相手となり得るだろうから。
嫉妬がないとは言えないが、寛容にならなければと己を正す。シェルベステルにとってアイラという娘は、王家に生まれたために父を殺し、そして兄を殺めた王が触れられる唯一の救いの場所だ。できるなら修道院に入るのではなく幸せな家庭を築いて欲しいと願う。形のないものを信じないベルトルドが愛を知るならば最良の相手となるだろうが、そうでないならば最悪の相手だ。慎重に確認しなくてはならない。昨夜は正論を盾に異を唱えたベルトルドだが、絶対的な権力を前に退かなかった。恐れることなく役目を果たしたと称えるべき事柄だが、それだけではないのではとシェルベステルは引っ掛かりを覚えたのだ。
*****
昼を前に国王自ら呼び出しを受けるのは珍しい。過去に一度、側室として後宮に入れる話が持ち上がって以来ではないだろうか。なんの話だろうと不安に感じながらアイラは指定された場所へと足を向ける。案内するのは昨夜気まずい争いをしたベルトルドだ。この時間の護衛担当はグインであったのだが、王がお呼びとベルトルドが迎えに来た。彼と二人一緒に呼び出しを受け、ついてこようとしたグインは同行を許されず置き去りとなる。何かしらの特別な話の予感にアイラは緊張しながらベルトルドの背を追った。
着いた先は古めかしい、けれども手入れの行き届いた歴史を感じる小さな教会。目にしてからマリエッタが城には教会もあると言っていたのを思い出した。促され足を踏み入れるも王はまだ来ていないようだ。少しひんやりとした室内は、光を取り込む窓に嵌め込まれた色硝子で彩色されとても美しい。
「天使様だわ―――」
真正面の壁面いっぱいに描かれるのは漆黒の天使。天上から舞い降りた天使を神以上に崇めたのは、何百年も昔のイクサルドの国王だった。彼の王が天使を信仰対象と崇めたことにより、当時は王家と権力を二分していた神殿は衰退し、今では心から神に祈りをささげる信者のみによって構成される集団へと縮小されたと学んでいる。黒い衣を纏う天使は当然ながら黒い髪と瞳で描かれ、背後の黒羽はとても美しく羽音をたて舞っているかに感じられた。
ふと気づくとベルトルドが真横に立ち漆黒の天使を見上げていた。ゆるぎない真剣な眼差しに釘付けになったが、不意に視線に気づいたのか、ベルトルドは強い眼差しのままアイラに視線を落とした。色硝子から取り込まれた光がベルトルドの碧い瞳に反射して輝いている。思わず吸い込まれそうになってアイラは視線を外し、染まりそうになる頬を隠すように俯けば、ベルトルドの手が伸び指先でアイラの髪に触れる。
挨拶で手に触れたり、エスコートで腰に触れたりといったことはよくあるものだ。けれど家族でもない異性が髪に触れる行為は男女ともに性的な意味合いが強く、未婚であるなら特に恋人同士でもなければしない行動でもある。
驚いたアイラは思わず硬直した。前のように壁に追い込まれ捕らわれる不安に陥るが、ベルトルドの行動の先にあるものが知りたいという欲求も起こる。昨夜アイラに拒絶されたベルトルドがどう出るのか。王に呼ばれた聖なる教会で不埒な真似はしないという常識がアイラに余裕を持たせたが、ベルトルドを前にして常識を持ち出しても無駄というのをすっかり忘れていた。
ベルトルドの指先がアイラの髪をなでるとそのまま頬を辿り、目元に伸びて縁取る睫毛を指先が瞳に触れないようにゆっくりとかすかに撫で付ける。その間ベルトルドの瞳は真剣そのもので、やがて僅かに見開かれると何かに気付いたように手を放し、再び壁面に描かれた天使を見上げて明らかに驚いた表情をしていた。
アイラにとっては理解できない、けれどベルトルドにとってはとても重要な事柄なのだろう。きっと彼はこういう自分が興味を持った事柄にだけ驚かされ心を揺すられる。アイラが目の前で他の男に裸にされて抱かれても、眉一つ動かさずに黙って見学できるような常識外れの男なのだ。それを悲しいなと感じる自分自身が悲しい。やがてベルトルドは黙って横顔を見つめるアイラにゆっくりと体を向けると口を開いた。
「ロックシールドの領主は代々髪も瞳も黒いというが君の母親はどうだった?」
ここにきてイクサルドでは珍しいロックシールド特有の現象に目を向けるとは。壁画の黒に影響されたのだろうかとアイラは、姿を見せない王の気配を求め教会の入口へ視線を向けながら答える。
「ごく普通の薄い茶色の髪色でした。瞳は灰色で、マリエッタさんと同じような感じです。」
小さな頃に母を亡くしたがほとんどマリエッタと同じような色だったと記憶している。そう言えばベルトルドの眉が寄せられ、習うようにアイラの眉も寄ってしまう。
「何か問題がありますか?」
「君の髪と瞳は黒―――闇のような漆黒だ。弟のリゲル殿もそうだった。前ロックシールド男爵も当然……」
剣を握るせいで太く節くれだった指が考え込むベルトルドの口元に添えられる。確かにイクサルドで黒髪と瞳を持つのは珍しいが、アイラの周囲では父も弟もそうだったのでそれ程ではない。他の色が加わればここまで黒くならないとか言われても、この色をしているからこそロックシールドの血を引いているとの証明であるし、領主の妻は不貞を疑われる心配がないのだ。色素が薄いイクサルドでは目立つがベルトルドがここまで考え込むようなことでもない。何を今更こだわっているのだろうと、特別信仰心もないアイラは跪いて祈りを捧げるでもなく、何かに悩んでいるらしいベルトルドの事は放って、色硝子に取り込まれた光が織りなす光景をぼんやりと見つめて王が来るのを待った。
「待たせてすまない。気分はどうだ?」
ようやく表れたシェルベステルはエドヴィンを伴っていた。王の護衛である近衛は教会の外に残され扉が閉められると、遠慮なく王はアイラの手を取り体調を気遣う。アイラは手を握られたまま膝を落として頭を下げると昨夜の詫びを述べた。
「すっかり大丈夫です。わたし如きの都合で大切なお役目を放棄したあげく、不敬にも等しい迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ありませんでした。陛下は一晩中お仕事を?」
会話の中できっかけがあるならともかく、普通ならアイラの身分で謝罪の後に王の日常を訊ねるなどしてはならない。けれど手を取り肌をよせ眠りあう仲ともなればアイラも遠慮が無くなってしまうのだ。シェルベステルはそれを嬉しく感じつつも後ろめたく感じて不自然に視線を泳がせ、ベルトルドは目敏くもそれに気付いた。
「疲れたので横にはなったのだがな―――其方が大事ないなら今宵はゆるりと眠れそうだ。」
鋭い観察眼をもつベルトルドを前に、シェルベステルは偽りを述べずに事実だけを並べる。興味がない事柄には全くと言っていいほど無関心なベルトルドだが、過去に見聞きした内容が興味のある事柄に絡むとなると途端に正確に思い出すような人間だ。今はまだ不眠の改善を誰にも知られたくないと、アイラから手を放した王は正面の天使画を仰ぎ見る。
「我がイクサルドを見守る天使の存在を其方は信じるか?」
問われてアイラは子供でも親しめる絵本にもなっている物語を思い出し一つ頷いた。
「天より遣わされた御使いが黒い羽で風を起こし敵を薙ぎ払った。御使いは共に戦った槍斧を操る英雄と夫婦になり、地上で幸せに暮したのだと。」
幼い頃は本気で信じてはいたが、大人になるにつれてそれが信仰を仰ぐために脚色された物語だというのはわかるようになった。けれど何代も前のイクサルド国王が城の中にこれ程に美しい教会を建て祈りを捧げる場所を作ったのだ。全否定してはいけないのだと気を使い信じていると頷いたアイラを、シェルベステルは見透かすように口元を緩めた。
「私自身も分散した権力を神殿から取り上げる為に芝居を打ったのだろうと思っていたし、実際に教師にはそのように教えられた。槍斧を操る英雄は実在したし大風も事実と歴史には刻まれているが、それは騎士の実力と自然災害が同時に重なり合って得た勝利だ。病や怪我人を癒すというのも医者や薬師にもできる行為でもある。自らは血を流しても死なないという天使が起こした奇跡は作られたものだと私とて思い込んでいたのだが―――」
そこで言葉を切ったシェルベステルは、一度エドヴィンに視線を移してからアイラを真正面から捕らえる。
「天使は存在したのだよ、現実に。」
実際に羽が生えていたかどうかわからないがと付け加えたシェルベステルに、アイラはどう反応していいのか迷い周囲を見渡す。王の言葉に耳を傾けるエドヴィンはいつになく口元を引き結んで感情を隠すように無表情だ。奇跡など信じないベルトルドは微動だにせずじっと王に視線を向けて黙っている。シェルベステルがいったい何を言いたいのか解らなくて、アイラは顔色を窺うようにゆっくりと頷いた。もしかしたら入ろうと思っていた修道院が、天使ではなく神を崇めているのが気に入らないのだろうかと不安になる。
「正確には教会を建てた当時の国王ではなく、国境に身を置き国防にあたる、陥落寸前の王族のもとに遣わされたのだ。これは書物や教師の教えではなく、イクサルド国王を継承する人間だけが口伝に継承してきた事柄だ。」
信仰心をあおるために歴史上の脚色され誇張された話と誰もが受け取っていた。それが覆されたのはシェルベステルがただの妾腹の王子であった頃。王の悪政に民は憂い、王の側近たちは私腹を肥やすことに精を出す腐敗しきった状態では政もうまくいくわけがない。民の為に声を上げる人間は王の側から遠ざけられ、なおも縋りつけば処刑された。王を廃するために当時王太子としての身分にあったクリストフェルが、王の最も側で重宝され可愛がられる男の存在を、彼がいかなる出身であるのかを密かに告げたのだ。
『伝説はあくまでも伝説として語り継がれている、だが血は本物だ。』
かつて地上に降りた天使はイクサルドに根付き生涯を終えた。伴侶となった男との間に子を成し、やがて天使の子孫は城に呼ばれ王の側に仕えるようになる。時の経過により血は薄まり天使としての力は有さなくなったが、それでも王の側で可愛がられる側近はその力で王に有利な人間を導き出し、国の腐敗を進ませるのに一役かっているのだと。天使の末裔と呼ばれる存在は国の繁栄の為、イクサルドの王となるものにのみ教えられ受け継がれてきた事柄であるのだ。クリストフェルも王となる存在として父王より聞かされており、繁栄の為にと側に置く存在が王自身の私腹を肥やす為だけに使用されている事実に頭を抱え続けていた。
「その者は人の心を確実に読む力を持っていた。亡き大公は男を天使の末裔と信じ、王に偽りの情報を与え惑わす役目と、王を退位させるだけの情報を欲し男を仲間へ引き込むようにエドヴィンに命じたのだ。」
エドヴィンと視線を合わせれば王の言葉通りだというように静かに頷かれる。戸惑うアイラに今度はエドヴィン自身が口を開いた。
「その男こそ先のロックシールド男爵―――君の父親だ。」