12 王の怒り
後宮という場所は世継ぎを設ける以外にも大きな役目がある。イクサルド建国当初より続く後宮制度は王が気に入った女人を我が物だけにするために作られると同時に、権力を望む臣下にとっては己が娘を送り込み王の信頼を勝ち取る場所にもなっていた。
送り込んだ娘が寵愛を受け世継ぎを産み落としたなら権力は思うがままだ。だが本来なら王にとって後宮という場所は安らぎを得るべき場所でなければならない。臣下に押しつけられようと妃との間に信頼関係を築き共に国を盛り立てる。だがその役目が違え始めたのはいつのころからだろう。
縮小傾向にあった後宮に先代イクサルド国王によって国中から美しい娘が集められ、後宮には多くの女人が集い膨大な費用を食いつぶす場となってしまった。先王を廃しシェルベステルが王となってからも臣下との繋がりの為に後宮を廃止するのは難しく、規模を極端に縮小するに成功したものの、娘を送り込もうとする輩は後を絶たない。
政治の為に仕方なく受け入れた妃ばかりの場所で、シェルベステルはいかにして寛げばいいというのか。政略とはいえ送り込まれた娘たちも親の教えに従い、着飾り王の子を孕むことしか考えていない。それが重要なことの一つだというのはシェルベステルも解っているが、国を盛り立てたい王の心に反し、自分の都合ばかり押し付ける女たちを前にどのようにして寛げるというのだろう。それはシェルベステルが志を共にした異母兄、クリストフェル大公を失った時ですら変わらなかった。
「陛下のお渡りを心よりお待ち申し上げておりました。今宵はゆるりと、我が園でお寛ぎ下さいませ。」
出迎えたパリスの姿と、きつく焚かれた甘すぎる香りに陰鬱な気分に落とされる。久し振りの訪問にパリスを選んだのは彼女がすでに男子を出産し、それが次の王に就くだろうと予想されるからだ。少なくともパリスには王の男子を生んだという余裕があり、実績により後宮を束ねる女主人の役目も担っていた。彼女の侍女が先走り事を起こしてくれはしたが、パリス自身は他の側妃らと異なりアイラに手を下したりはしていない。だからこそアイラの立場を相談し、いらぬ嫉妬を持たぬよう諭して他の側妃たちを沈めてもらおうと相談しに来たのだ。心の内は別としても、パリスならアイラに味方することにより王の信頼を得る機会を逃さないと判断したのもある。アイラのお蔭で眠れるようになったとはいえ、今のシェルベステルに妃を抱くだけの気力は戻っていなかった。
だがシェルベステルを出迎えたパリスは王の心情などお構いなしに媚薬入りの酒を勧めてくる。豊満な肉体を欲情的な透ける夜着で包み、シェルベステルの隣に座って乳房を腕に押し付けてくるのだ。
これが彼女の仕事だと言えばそれまでで、シェルベステルにも側妃らを抱く義務がある。仕方がない、努力しようと酒に口をつけ、まずはアイラの処遇をとパリスに向き直り長く放っておいたと謝罪した。
「病に引き続き、寝所に招く娘の件で其方らにはいらぬ不安を与えてすまない。」
「お心が戸惑いになっておられたのです。長く側に仕えるゴルシュタット侯の言葉を無下にできなかったというのもありましょう。陛下がわたくしに頭を下げられる必要はありません。悪いのは無理をさせるあちらですもの。」
しなだれかかり「ふふっ」と笑うパリスの言葉にシェルベステルは不快を感じて眉を寄せたが、悦に入るパリスは王の顔など見ておらず気付けもしない。シェルベステルもアイラの件を含め放っておいたというのもあり、我慢して口を開かずパリスの主張を聞く姿勢を見せた。
「噂では陛下の子守りを気取っているとか。陛下がお優しいのを良いことに近衛までも従えて。身の程も弁えられない者ほど厄介なものはありませんわ。ですが陛下、どうぞわたくしに全てお任せ下さいませ。」
赤く塗った唇が弧を描くのをシェルベステルは黙って観察していた。『悪いのはあちら』とはいったい誰の事だと問いただしたくなるが黙って耐える。
「不要なものはすぐにお片付け致します、陛下が心惑わされる必要はございません。」
「不要とはアイラ=ロックシールドの事であるまいな?」
「まぁ陛下、他に何がございます。陛下ともあろう御方が今もあの娘に惑わされていらっしゃるのではありませんわよね?」
わざとらしく驚いたように顔を上げたパリスが瞳を瞬かせると、羽の様に盛られた付け睫毛が風を送った。シェルベステルは酒を口に含みながらじっと様子を窺っていたが、これ以上は駄目だと制止の意味を込め口を開いた。
「―――惑わされていると言ったら、其方どうする?」
「男爵家とは名ばかりの端女に陛下が? ご冗談を。」
ゴルシュタット侯爵領に隣接してはいるが、ロックシールド男爵領などあってないような小さな土地だ。これまでどこにも吸収されず何百年も歴史を刻んでいるのが不思議な程にとても小さな領地。そんな豆粒のような田舎娘をイクサルドの王が本気で相手にするはずがないと、パリスはシェルベステルの自尊心をくすぐるような言葉を紡ぐ。
パリスはシェルベステルの訪れに浮足立ち大きな勘違いをしていたのだ。一時の浮気があろうとも最後に帰ってくる場所は自分の所なのだと。次なる王となる男子を産み落とした自分を王はけして蔑ろにはしない、後宮の女主である自分こそが王の寵愛を受けてしかるべきなのだと。
「ゴルシュタット侯も、いったい何を血迷ってあのような端女を陛下に献上しようなどと思い至ったので―――きゃぁっ?!」
エドヴィンをも馬鹿にする言葉を口にしたところでパリスは強く腕を引かれ悲鳴を上げた。容赦なく投げ飛ばされた先は寝台の上ではなく絨毯が敷かれた床の上だ。何が起きたのか理解できないままシェルベステルを見上げたパリスは、王の抱く怒りにようやく気付き「ひっ?!」と声にならない悲鳴を上げる。
「誰かある!」
「これに!」
王の呼びかけに控えていた近衛が遠慮なく部屋へと侵入してくると、シェルベステルは駆け付けた近衛の一人から鞘を奪い剣を抜く。切っ先をパリスに向けた所で何事かと駆けつけた侍女たちが悲鳴を上げた。
「お前にあの娘の何が解る。エドヴィンの何が解る?」
剣を向けたシェルベステルの脳裏には、これまでの出来事が走馬灯のように流れていた。
圧政を敷く父王に、重い税に苦しむイクサルドの民人たち。血の繋がりある王を廃し、正妃腹の兄に代わり王位に就いた我が身を更なる困難より兄が守ってくれたのだ。それなのに命を賭けてくれた兄の行いに涙する場すらなく、シェルベステルが苦しみに耐えていた時に後宮の女たちはいったい何をしていたというのだろう。圧政を敷く先王時代より後宮は贅沢三昧で、大幅な経費削減をしたにもかかわらず金は湯水のように湧いてくると信じて疑わず贅沢に浸る女たち。久し振りに顔を見せればシェルベステルの心内など察することすらせずに、ただひたすらよく知りもしないアイラの悪口に、寝る間も惜しんで民に尽くしてくれるエドヴィンの悪口に興じる。こんな女たちを政に必要と囲っている我が身にも腹が立つ。
「お前に―――私の何が解るというのだ。」
静かな、けれど地を這う声にパリスは竦み上がり取り囲む女らからは悲鳴が上がった。近衛は王の決断を優先するため無言を貫くが、何とか血を流さずに済むようシェルベステルの暴挙を止めようとエドヴィンを呼びに走る。その後を泣きながら一人の侍女が追って行った。
シェルベステルは先王を廃し粛清に走るからこそ清廉潔白な王であろうと心がけていた。これまでのシェルベステルであったなら、相手が高貴な出身であろうとなかろうと女性に手を上げ、まして剣を向けるような暴挙に走るような事はない。けれどそれが狂ったのは互いに手を取り合い、先王を廃し国を良くしようと尽くした兄のクリストフェル大公を失ってからだ。
シェルベステルと彼が夢に描き築き行く治世に、さらなる邪魔者が現れたのを期に兄は命を賭けてくれた。その思惑に気付くのが遅れ、処刑という形を取るしかなかった後悔と己の不甲斐なさと絶望。それが原因で命を落としかねない病的な不眠に悩まされた。
それもこれもけしてパリスを始めとする側妃のせいではない。だが彼女らからは上辺だけの言葉しか与えられず、心の闇に落ち悩むシェルベステルを前にしても、結局は自分の欲求を押し付けられ精が欲しいと群がられるだけだった。王の変貌を恐れ距離を取った側妃たちがシェルベステルの回復と同時に騒ぎ出したのも、彼女らにある思惑を理解しているシェルベステルは、後宮の女なのだから仕方のない事だと己を納得させていたのだ。
だがそんなシェルベステルにも極限というものがあり、けして踏み込まれたくない部分がある。それが今は彼に安らぎを齎してくれる唯一の存在だ。依存に近いものがあると、王である己に蔑みの笑いを浮かべもする。けれど甘えが許されるなら一人の人間としてそういう存在がいても、欲しても良いのではないかと自身を慰める。そうすることで兄を失った失敗と孤独を埋め越えて行こうとしているというのに。
側妃たちの心情や思惑、そして立場があるのも解っていたが、あまりにも勝手で何一つ解っていないパリスの言葉がシェルベステルに強い怒りを抱かせた。シェルベステルが唯一安らげる場所を、女性を『端女』と罵り馬鹿にし、側で力の限り支えてくれるエドヴィンを愚弄したのだ。
貴族女性として王の側妃でなく、後宮にすら招かれない愛人。何時でも捨てられる存在として名を地に落とす行為を何でもない事の様にこなし、同じ寝台に上がり胸を貸してくれた女性。寝台に上がるのは最初の頃だけで、近頃は手を握り安らかな眠りを与えてくれる女性を端女呼ばわりされた。そしてシェルベステルの心情を理解し、国政を滞りなく代わりに行ってくれただけではなく、方々手を尽くし、最終的にはアイラを連れて来てくれたエドヴィンの努力と忠誠。エドヴィン自身が臣下として己に権力が集中することが良くないと誰よりも理解してくれているというのに。それらを何一つ知りもせず理解しようともしない。仕事もしないでシェルベステルの心までも我が物と思い込んでいる側妃に、シェルベステルはかつてない程の強い怒りを覚えたのだ。
「我が平静はあの娘によって齎される。それを周囲が惑わされていると表現するのであればそうなのであろう。それで其方は如何する。我が心を惑わす娘を貶めたのだ、この先どうなるかを十分理解しての言葉であろうな。」
剣先が震えるパリスの柔肌に押し付けられる。脅しではなく本気であるとシェルベステルの目が冷たく射抜き、周囲の誰もが言葉を発することが出来なかった。緊迫した中で空気が張り詰める。冷たい視線で射抜かれたパリスもようやく己の失態を悟った。男子を生み落とし後宮の女主として君臨したせいで王と対等、あるいは上を行くとまで傲り高ぶってしまっていたのだ。けして王に乞われ、望まれ来たのではない。王の心を手に入れ次代の王を産み落とす目的で、父に送り込まれただけの存在であったのだと思い出す。自分の代わりなどいくらでもいるのだ。後宮にも、そして端女と呼んでしまった王の心を支配する末端貴族にも。
理解したパリスだが恐れのために謝罪の言葉すら出てこなかった。何とかして王の怒りを鎮めようにも不思議な力で封印されたように声が出せない。絶対的な支配者を前に殺される恐怖に身を震わすだけで逃げる事すら叶わなかった。
けれども緊迫した空間に響いた声がパリスを救う。
「あの、陛下?」
けして大きな声ではない。緊張を孕んだ呼びかけに誰よりも驚いたシェルベステルの肩が大きく弾ける。その拍子に王を守るために磨かれた剣の刃がパリスの髪を一房削ぎ落し、パリスは悲鳴を上げ床に倒れ込んで意識を失った。退けられぬ剣の餌食にならぬよう侍女がパリスを庇う。シェルベステルは驚愕に目を見開いたままゆっくりと声のした方へ顔を向けた。
シェルベステルの薄茶の瞳が漆黒の瞳に絡められる。なぜここにという驚きと、このような現場を見せたくなかったという落胆。彼女にだけは恐ろしい姿を見られたくなかったとの思いが交差し、シェルベステルは剣を片手に唖然とアイラを凝視した。
「陛下?」
緊迫した部屋の中でどれ程の時間が過ぎただろう。意識を失ったパリスを抱き止める震える侍女と近衛らが見守る中、体を動かさず視線だけで周囲を確認し終えたアイラが戸惑いながらも口を開く。
「えっと、その。一人が寂しくて。そのぅ、勝手に迎えに来てしまいましたが……お許しいただけますでしょうか?」
言葉通りの意味ではない。知りつつもシェルベステルはアイラの言葉を受け手にした剣を取り落す。我に返ったシェルベステルは怒りに任せた行動を恥じ後悔しながら、アイラの言葉にほっと息を吐き出し「なんたることだ」と掌で顔を覆ったのであった。