生ける屍の精神科医
旅 30日目
朝の瞑想を終え、カンタカ号(昨日完成した荷馬車の銘。ブッダが出家を為された時に乗っていた白馬のお名前に肖りました)に荷物を積んでいると、一人の女性がこちらに近づいて来た。
「はじめまして。昨日はありがとうございました。わたくしは、あの公園の近くに住んでいる高島 愛花と申します」
一見したところ白衣を着込んでシッカリしていそうに見せている女性が、わたし達に丁寧な挨拶をしてきた。
ただ、彼女の視線はわたし達二人のどちらにも合わせることなく、わたし達を素通りして、その背後にあるナニかを探るような、そんな落ち着きと油断のない目つきをしていた。
それに近づいて見ると、このヤスカ嬢はうっすらとメイクまでしていた。
まあ、とりあえずわたし達も普通に挨拶と名乗りを返した。
「で、あの公園つったらアタイの事だろーけどさ、アタイは礼を言われるようなコトをした憶えはねーけどなー」
「いいえ、あなたのお陰で昨日わたし達は三日ぶりに、しかも大量の水を手に入れられました」
「あー、なるほどな。まあ納得した」
「お二人は旅をしているんですか」
「はい」
「どこまで何をしに行くのですか」
「西日本まで恩人を探しに行きます」
「まあ、それは大変ですね。女性二人きりでは……」
「いいえ、二人ではありませんよ」
「あら、そうでしたね。そちらの可愛い子馬さんも一緒でしたね」
この彼女の口ぶりから、ニャアはまだ見つかっていない可能性が高まったと同時に、この家の屋根に止まっているカンちゃんもまた、ほぼノーマークだと思われた。
だけど、それもまた彼女のフェイクだったとしたら、これはかなりイイ性格をした女性だということになる。
以前にも記したけど、わたし達はかなり目立つパーティーである事を自覚している。
ただしその自覚とは基本的に男性目線からどう見えるかを考慮したものであって、同性についてはほとんど何も考えてはいなかった事に、この時初めて気がついた。
重そうな木刀を軽々と振り回す女と、坊主頭の女の変な二人組。
そして健康そうな子馬さんとそれなりに豊富そうな生活物資の山、か。
あれれ……これじゃあやっぱり同性目線でも、そりゃあ目立つし、何とか取り込もうとか、取り入りたいとか思われても仕方ないよね。
だからといってわたし達は、あんまりこそこそしたり、逃げ隠れする事も、物理的に不可能だ。
だってサマーちゃん大きいし、蹄の音がどうしても響くもんね。仕方ないか。
それに昨日はカンタカ号の工作でかなり大きな音も立てていたし、バレてない方が不自然だ。
ともあれ、このヤスカという女性は、何とかわたし達を取り込みたい、手駒にしたいという、本来なら絶対に隠さなければならない思惑が、割と最初から透けていた。
「わたくし、以前は精神科医を開業しておりまして、とくに女性のお悩みを専門にしておりました」
と、来た。
実はわたしも学生時代にはカール・グスタフ・ユング博士の心理学を、ある程度の熱意を持って真剣に学んでいた時期がある。
当時のわたしはユング博士の唱える「タイプ論」にかなり傾倒していた。
しかし今となってはそれも昔のお話だ。
もちろんユング博士の功績や業績を貶めるつもりは全く無い。しかしそんなつもりは無くとも、ブッダの教えに多少なりとも触れてしまった今となっては……
どうしても「心」というものに関する観察や考察には粗が目に付くようになり、如何にも初心者向けという印象が拭えないようになっていた。
それはおそらくユング博士の実力不足というよりも、人間社会全体の未成熟さにその原因があるのだと思う。
ユング派に限らずこれまでに日本で流通された西洋心理学全般は、一般的で問題の少ない、一市民の精神を“健康な精神の基準”として採用しているからだ。
翻ってブッダの教えとは、人間個人の人格の完成たる「解脱」こそを、本物の健康として捉えている。
要するに、目指す場所の高みが遥かに違うのだ。
日本には「医者の不養生」という故事があるけれど、正にこれだ。
精神科医とはいえ、彼らは“健康そう”に見えるだけの一市民にしか過ぎず、その医者自身、解脱はおろか、内心では様々な煩悩や妄想で自らの心を汚し、苦しみ続けている普通の人間に過ぎない。
今のわたし達には全く要のないものだ。
ここまでヤスカ嬢はそれなりに頑張って、見れば分かる事以上の情報をわたし達から引き出そうとしていた。
要するに、わたし達が勝手にベラベラとしゃべれる方向に会話を誘導していたつもりだったのだろう。
その思惑からなる目的とは何か。
恐らくは、わたし達の弱点を握った上で、彼女に都合のいい仲間として取り込みたい、といった所だろう。
基本的に彼女は外交的感情タイプに過ぎず、自尊心が高く自分には甘いという、どこにでもいるただの強欲な女性だ。
それにしてもヤスカ嬢が本当に精神科医だったのならば、彼女の患者さん達はさぞかし強いクスリをガンガン処方され、相当彼女を儲けさせていたハズだ。
あっ!──そう言えば、堀師も心理学については「後に述べる」なんてどこかに書いてたわよね!。
やだやだやだ!、もしもわたしがここに何か見当違いな事を書いていたらららら……いやーん! ハズカチィ……わよね。あはは。
ま、まあとにかく、ヤスカ嬢が精神科医であるという「自己申告による権威付け」という中々の悪手を打ってしまった以上、わたし達にはこれ以上彼女に無理につきあう必要性が完全になくなってしまった。
「それではどうかヤスカさんもお元気で。さようなら」
そう言葉を残してわたし達が立ち去ろうとすると、ヤスカ嬢はかなり本気で焦ったようだ。
そんな彼女はわたし達とは無関係で余計なことをベラベラとまくし立てはじめた。
これ以上彼女の甘言や勘違いによる思惑を記述するのも煩わしいけど、一応記録だけは残しておく。
・自分にはクスリ等の役立つ物資が沢山ある。
・自分ならあなた達女性の悩みを解決できる。
・そして素敵な殿方の仲間も居る。
・その殿方をあなた達に紹介してもいい。
・その殿方は昨日、捕獲していたゾンビをわざわざ放って、彼女を助けようとしたのよ。
そして。
「あのコ!、あの元女子アマレスのオリンピック強化選手だったあのコは、わたしの言いつけた以上のクスリを自分勝手に服用して、3ヶ月前から急にオカシクなったのよっ! だから……殺さなきゃ!!」
と、ヤスカ嬢はずいぶん簡単に本音をぶちまけた。
この時、ここまでよく我慢していたエリカさんが、もうあと少しで、キレかかっていた。
それを察したわたしも、もう少しで……
「要するに『自称』精神科医であるアナタは、今回わたし達をクスリ漬けにして洗脳し、以前アナタがクスリ漬けにして、いいように使い潰して壊れてしまった、その哀れな女子プロを今度はわたし達の手で殺させて、その上、更にその素敵な殿方とやらの慰み物になれ、と……そうおっしゃるのですね?」
とか、喉元まで出掛かっていたその時。
ヤスカ嬢の背後から、ニャアが、元気よくわたし達に追いついて来た。
ニャアは、わたし達がヤスカ嬢を迷惑がっている事を正しく読みとったかようで、彼女の方に振り向き様「グルルル……」っと、軽く牙を向いて見せたようだ。
ヤスカ嬢は震えながらその場にへたり込み、ちょっとした粗相をやらかしてしまった。
彼女の白衣はみるみる内に謎の液体が染み込んでゆき、やがて地面にまでその染みは広がり、そのままそこにへたり込む彼女は、もう一歩も動けなくなっていた。
「あーあ、もう、お水、飲み過ぎですよ」
「………(((ガクガクガクガク))))…………」
「ニャア、いつもありがとうね」
「偉いぞ!、ニャア!」
という事で、お水の補給にまんまと失敗したわたし達は、またまた高速道路の廃虚エリアにまで戻って来ている。
明日は全力でお水探しだ。
生きとし生けるものが真に幸せでありますように。
※参考文献:カール・グスタフ・ユング著 林道義訳/タイプ論/みすず書房
作中ではやむを得ず、誠実な精神科医の皆様やユング博士の業績を貶めかねない表現が御座いましたが、博士の研究とこちらの書物は近代の分析心理学の発展に大きく寄与する歴史的名著であることに間違いはありません。また良心的な医師の方々にも大変な無礼を働きましたことも併せてここに謝罪させて頂きます。
そしてもしよろしければ皆様にも是非とも御一読をお薦めしたい一冊でもあることを、謹んでここに述べさせて頂きます。




