生ける屍の木刀瞑想
旅 14日目
今日も午前中は雨だった。
昼過ぎからようやく晴れ間が差してきたけれど、無理して出発することは諦めた。
もしかしたらもう梅雨入りが始まっているのかもしれない。だとすれば無理に進んでもロクな事にはならないだろう。わたし達はそう話し合い、このサービスエリアでもう一泊するとこにした。
ブッダの教えではこうした自然の成り行きや移り変わりから見出される法則性の全てを「縁起」として、説いていた。
世間では縁起という言葉を「いい」だの「悪い」だのと、まるで預言や占いのように扱っているけれど、それは無知からくる間違いだ。
相応部経典にはこんなお話が記されている。
「比丘たちよ、まず縁起というものは、どのようなことだろうか。たとえば生があるから老死があるという。このことは、わたしがいようと、いまいと、決まったことである。存在の法則として定まり、確立していることである。その内容は相依性なのである。それをわたしはさとった。さとっていま、なんじらに教え示し、説明して、〈なんじらも見よ〉というのである」
原因は結果を生み、その結果は直ちに次の原因と転じて、更なる結果を生む。原因と結果の弛まざる連鎖。これが止まることだけは決して無い。
また、ブッダのお弟子様であるサーリープッタによる縁起についての、こんな逸話もある。
「友サーリープッタよ、老死は自己のつくるところであろうか。他者のつくるところであろうか。それとも、因なくして生じたものであろうか」
「友よ、では、譬喩をもって説いてみよう。友よ、たとえば、ここに、二つの蘆束があるとするがよい。それら二つの蘆束は、相依っているとき、立っていることが出来る。それと同じように、これがあるから、かれがあるのであり、かれがあるから、これがあるのである。その二つの蘆束のうち、一つの蘆束を取り去れば、他の蘆束もまた倒れるだろう。それと同じく、これがなければ、かれはないのであり、かれがなければ、これもまたないのである」
有ることと、無いことと、これら無数の原因と結果が連鎖しているこの世界の法則そのものを「縁起」という。わたしはそう理解している。
わたし達は原因と結果から生じた「有る」ものならば、まだ縁起として理解し易いのだけど、原因と結果によって「無い」という縁起を見出すことは、かなり難しい。
で、頭でっかちなわたしは、またしてもこんなことで迷うのだ。
昨日、鹿肉を食べている時に鹿が現れてわたし達を見ていた。
一昨日、わたし達を見た仮称ゾンビ達が逃げて行った。
これらの出来事にどんな縁起が働いていたのかを、わたしは未だ見出せていない。
これには何か大きな意味が隠れている気がする。
それを今ここで仮説(妄想)でも立てまくって研究するべきか、せざるべきか、そんなことでわたしは迷っていた。無明の闇が重過ぎる。
昨日の鹿と、一昨日の仮称ゾンビ達。
何か……何かの、大きな縁起に、今、わたし達は関わっているのだと思う。だけどその何かの手掛かりが、掴めそうで掴めない。
そんなもどかしさをサティしていた、その時。
「キョーコさん、これ」
そう言いながらエリカさんが一振りの木刀をわたしに差し出してきた。
「お土産モンとかの倉庫に有ったんだけどさ、これならキョーコさんにちょうどイイと思うぜ」
その木刀を受け取ってみると、軽い。そして、しっくりくる。
わたしはまだ痛む右手を木刀に軽く添えて、ゆっくりと振りかぶった。そして雑にならないように、ゆっくり、ゆっくりと振り下ろす。
「座る」ことだけがヴィパッサナー瞑想ではない。
「動き」にしっかりと気づきながら念を込めて観察することもまた、ヴィパッサナー瞑想なのである。
ゆっくりと、上げる、上げる、上げる、上げる、上げる、止、ゆっくりと、下げる、下げる、下げる、下げる、下げる、止。
木刀を上げる時、伸びる筋肉と縮む筋肉があることが分かる。
木刀を下げる時、伸びる筋肉と縮む筋肉が入れ替わっていることが分かる。
胴体もまた然り。下半身もまた然り。全身がまた然りと、伸びて、縮んで、伸びて、縮む。
手の平の痛みにもまた、伸びて縮むような波がある。
伸びて、縮む、その合間合間に、一瞬の静止がある。
意図して止めたものではない。
ただ、流れのまま、自然のままに動いていてると、伸びきった時や縮みきった時に、一瞬よりも更に短い一瞬、一刹那の、静止が起こることを知る。
わたしはゆっくりと木刀を振り続けた。
これがあって、かれがある。
かれがあって、これがある。
かれがなければ、これがない。
これがなければ、かれがない。
この時、わたしは時を忘れてこの、木刀瞑想に没入していた。
やがて、気がつくと、とても言葉には変換出来そうにもない、「何か」が、ストンとわたしを覆うように落ちて来て……わたしは木刀を止めていた。
「すげえ……キョーコさん、すげえよ。最後の一振り、見事だったぜ」
エリカさんを見て、その彼女の発する言葉の意味を咀嚼すると共に……たった今、ついさっき、もう少しで掴めそうだった、大切な「何か」が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、水のように、サラサラとこぼれ落ちて行った。
「え? キョーコさん……泣いてるの、か」
どうやらわたしはこの時、涙を流していたようだ。
「……あ、あはは、は。ごめんごめん。大丈夫、大丈夫。ちょっとだけ、一人にしてくれるかな」
わたしは一旦外に出て、軒先にあるベンチに座した。
そして目を瞑り、自分の心を観つめる。
暗闇にポツリポツリと小さな明かりが灯る。それはまだ、小さな小さなドーザ(怒り)の明かりだ。
ドーザの明かり、そのひとつひとつを静かに観つめる。
「(わたしがなにをした!)」「(やめて! やめて! やめて!)」「(やったな! やりやがったな!)」「(ころす! ころす! ころす!)」「(ころしてやる!!)」
このように、わたしの心を蝕む愚かな悪魔が吠えていた。
そう叫ぶ心の炎の奥には、カーマ(欲)という燃料が、怒りの炎に力を与えていると知れた。そのひとつひとつを静かに観つめる。
「(ほしい ほしい ほしい)」「(あれがほしい)」「(これもほしい)」「(もっとほしい)」「(もっともっとほしい)」
このように、わたしの心を蝕む見苦しい餓鬼が呻いていた。
そしてこの暗闇こそが、モーハ(痴、無知)であり、ドーザやカーマを養うものだとさとった。
「(いま、ひつようなものは、すべてここにありますよ)」
「(いま、わたしをころそうとするものは、いませんよ)」
わたしの心に灯る炎のひとつひとつに、わたしは何度も何度も同じ事実を、静かに念じ、語りかけた。
生きとし生けるものが真に幸せでありますように。
※参考文献:増谷文雄著/仏教百話/ちくま文庫




