生ける屍の解脱誓願
準備 6日目
やっと日記が今に追いついたよ。ふう。
この2日間で起こった出来事をやっとこさ日記に記し終えたその時、わたしは放置しっ放しだったナンバー2さんのことを思い出し急いで件の民家に向かった。
結局ナンバー2さんは目隠しに使ったタオルだけをその場に残して、どこかに消えてしまっていた。勝手にほどけたのか自分でほどいたのかは分からない。
それから合間合間にナンバー1さんとナンバー2さんの姿を屋上から探していたけれど、結局今日のところは彼らの姿を見ることはなかった。
もしかしたら、わたしに手酷く痛い目にあわされたことで彼らもまた何かを感じ、何かを決断して、この界隈から逃げ出したのではないだろうか? そんな妄想が頭に過る。これは確かに妄想ではあるけれど、十分に有り得る話だとも思う。
三年という年月が巡らせた生滅と輪廻は万物に等しく、今もまた作用し続けている。
堀氏のところの美智子ちゃんにも、ナンバー1さんにも、ナンバー2さんにも、心はある。仮称ゾンビ化症状を発症させるという激しい劣化に遭っても尚、彼らはみんな、まだ生きている。
それにしてもずいぶん減ったものだと改めて思う。
生存者も仮称ゾンビも含めて、この三年間で人類はずいぶんとその数を減らしている。それは間違いない。
勿論わたしにはわたしの身の回りの状況しか把握出来ていないけど、一昨日までこの図書館の界隈には、わたしとエリカさん、そしてナンバー1さんとナンバー2さんの、たった四人しか人類はいなかったのだ。
堀氏は仮称ゾンビ・アポカリプス発生から最初の一年でおよそ五割の人口減と見積もっていた記述があったけど、それなら今はどうなんだろう。多分そんなモノじゃあ済んでいないんだろうな。
昨日エリカさんから聞いた話だと一昨年から昨年にかけて、鹿が爆発的に増えたことがあったそうだ。しかしそれも、たったの一冬で、増えた数以上の鹿の遺体があちこちに転がることとなったらしい。
鹿を補食する天敵と、鹿を管理するわたし達人間がいなくなったことで、彼らは一時的に、爆発的に繁殖した。
しかし不幸にも彼らには後先を考えらる理性もなく、ただ本能、性欲のままに繁殖し、その土地の食料を食欲に任せてあっという間に食べ尽くした。
そうして彼ら、大量の鹿の群れは食料を求めて離散するものの最初の冬すら越せず餓死に至り、その大量の骸が大地を埋め尽くしたそうだ。
おそらくわたし達人間も、仮称ゾンビを含めたわたし達人類もまた、全く同じ道程を辿っているんだ。
おなじなんだ。おんなじなんだよね。
生きとし生けるものはみなおなじなんだ。
こうした現象の切れ端だけを見て、自分勝手に良い悪いと決めつけて、浅はかにも喜んだり、悲しんだり、怒ったりしていた3ヶ月前までのわたしは、もういない。
それは、わたしにとっては真に幸せなことだ。
ああ、でも「幸せ」ってなんだろう。
子どもの頃には幸せがたくさんあった。
お母さんがそこにいてくれるだけで、嬉しかった。
だから幸せだと思っていた。
おもちゃを買ってくれて、嬉しかった。
だから幸せだと思っていた。
ほめて貰えると、めちゃくちゃ嬉しかった。
だから幸せだと思っていた。
仲良しのお友達が出来て、嬉しかった。
だから幸せだと思っていた。
一緒に遊ぶと、とっても楽しかった。
だから幸せだと思っていた。
すごい本やアニメを見て、すごく感動した。
だから幸せだと思っていた。
その感動を分かち合える友達が出来た時は、すごく嬉しかった。
だから幸せだと思っていた。
わたしだけを一生愛してくれると、そう真剣に誓う男性が現実に現れた時、それはもう天にも昇る心持ちだった。
だから幸せだとほんとうに思っていた。
かつてのこれらは確かに、わたしの幸せだった。
それは間違ない。
三カ月前までのわたしは、このような幸せを決して間違いではないと思っていた。
だけど、こうした幸せとは事実上、あまりにも薄っぺらで浅薄なものだったことを今のわたしは自覚している。
わがままばかり言っていたわたしは、いつもお母さんをすごく困らせていた。
だから苦しかった。
あんなにも欲しかったはずのおもちゃでさえも、しばらくするとすぐに飽きていた。
だから苦しかった。
お母さんに褒められたくて、余計なことをし出かし、あいかわらず迷惑ばかりをかけていた。
だから苦しかった。
友達と些細なことでケンカして、友達を泣かせた。そして友達から泣かされた。
だから苦しかった。
同じ作品を見て、同じように感動したはずなのに、ちょっとした意見の違いから大喧嘩をして、最後には絶交した。
だから苦しかった。
わたしだけを一生愛すると誓った彼氏は、二年後に他の女性を選んだ。
だから苦しかった。
仮称ゾンビ・アポカリプス発生以降の苦しさなど、今更言うまでもないことだろう。
だけど、ほんとうに苦しかった。苦しいことばかりだった。
与えられる幸せとは、与えられると同時に失われている。
与えられる幸せとは、依存することを意味している。
与えられる幸せとは、ほんの一瞬のことでしかない。
結局、与えられて、もしくは掴み取って、或いは簒奪して、そのようにして「得る」ことで感じらる幸せとは、全て幻に過ぎなかった。
それは然りと、わたしの今までのちっぽけな人生でも証明し尽くされていた。
わたしが幸せだと信じていた、愛、希望、夢というものは、煩悩、執着、依存、という避けようのない苦しみの種子を含んでいた。
こんな苦しみはもういらない。それよりも。
他力によって揺るがない、真の「幸福」を自らの手で自らの心に確立すること。
「是こそが『解脱』なり」と、わたしは悟る。
解脱という真の幸せには、煩悩など微塵もなく、執着もなく、依存はなく、故に悩みもなく、あらゆる苦しみは滅ぼし尽くされているはずなのだから。
だが未だ解脱には程遠く、煩悩まみれのわたしだけれど、最早、幻の幸せに目を眩まされることだけは二度とない。
わたしは、この解脱を誓願するわたし心と、エリカ、カンちゃんという朋友とともに、堀氏、いや、堀師に会いに行こう。
会えるかどうかは分からない。会って何かを求めることもない。いや、会えなくとも構わない。
わたしはただ、ブッダと堀師に感謝の礼を示すためだけに、旅立とう。
ただ生きているだけでは苦しみは終わらない。真の幸せを実現しなくちゃせっかく生きているのに意味がない。だからわたしは誓願する。
生きとし生けるものが真に幸せでありますように。




